『龍愛づる姫君』 (5)
5 椀
汁・飯などを盛る木製の食器。椀に盛った飲食物を数える語。 声符はエンで、人が座して、ひざのまるくゆたかな形。そのまるくふくよかな形状の器を椀・碗という。
川に落ちたあの夏から、四回の夏休みが、学校の定める補助授業や部活動などで、都市で慌しく消えていった。
しかし十六歳の夏休みが始まると、遍はひとりで田舎にやられた。
父が単身赴任から帰ってくる。――両親は二人きりでぞんぶんに話し合い、離婚するかどうかを最終的に決めるつもりだ。四年前、弟の死から顕在化した不仲は、ついに最終局面を迎えていた。
遍は着替えを詰めた大きな鞄を持ち、田舎に赴いた。――自分が何でもできるような気がしていても、現実は違う。成長していても、両親にとって、遍はあくまでもこどもだ。おとなの問題にこどもは口を出させてもらえなくて、たとえ口を挟んだとしても、人のきもちは動かせないことがある。戻る時、誰がマンションの部屋で待っているかは、わからない。
電車は都会を離れてひた走り、巨大な柱が二本建ち上がっている建設中の河口堰の横を通り過ぎた。やがて一駅ごとにひなび、乗客が少なくなり、濃い緑に包まれていった。
銀の川が隣を流れ始めた。記憶よりも白い川原、記憶よりも厚みのあるとうとうとした流水、記憶よりも姿形よく岸を囲む緑。遍はうっとりと川を見つめた。川の水は正真正銘の銀色をしている。
遍は窓に寄り掛かり、長く伸ばしている髪に左手で触れた。手のひらの傷痕は、いつしか薄くなって、ほかの箇所と見分けがつかなくなっていた。
川は変わっていない。しかし川を眺める遍は、自分自身を、四年前とずいぶん変わってしまったように感じた。
首に掛けた護符は服の下で、いつものように肌に吸い付いている。
バスに乗り換え、懐かしい角度から山に囲まれる所で降りた。
「よう来たな、よう来てくれた」
ステップから降りると、祖母に抱きしめられた。人のぬくもりにすっぽりと包み込まれて、遍は、人とはこんなにも温かいものだったかと驚嘆した。祖母は遍より頭一つぶん背が低くなっていた。遍の身長がそれだけ伸びたのだった。
祖父も農作業を休んで迎えに来ていた。祖父は声もなく顔じゅうで笑うだけで何も云わなかった。祖父の長身はまだ追い越せない。
三人で坂を上った。つづら折を曲がるたび、遍の目に映るもの何もかもが透明な光を透かした。風が草の香りに満ちていた。遍は何度も驚きの声をあげ、何度も笑った。そのたびに、胸に抱えていたいろいろなものが剥がれ落ちて、透明になって日の光に透けた。そのたびに躯は軽くなった。長く艶のある髪が風になびいた。遍は坂を駆け上がって振り返った。盆地が両腕の中に横たわっていた。
遍が変わってしまっても、盆地は何も変わらず、遍の前に美しく広がっていた。
夕食の食卓には、心づくしの手料理がずらりと並んだ。いんげんのごまあえ、玉子豆腐、えびと野菜の天ぷら、具だくさんの味噌汁。どの野菜にも、太陽をたっぷりと浴びた、濃い味と香りがあった。
夕食の匂いの残るテーブルに、遍は宿題を広げた。数学は、まるきり授業についていけなくなっていた。新品同様の本を傍らに置き、他の教科から始めた。遍が置いた数学の本を、祖父が取り上げた。ページを繰る祖父の手が止まったのは、中身を読み始めたからだ。遍は首をかしげた。
「ジイチャンは、これがわかるの?」
食器を拭いていた祖母が、笑い声をたてた。
「あれ遍はそんなことも知らんだか。ジイチャンはなにしろ、帝大を出て、殺人光線を研究しとったくらいやもの。わからんとこがあったら、ジイチャンに教えてもらい。借金の計算はできんけどなあ」
祖父が修正した。
「戦闘機迎撃用集光照射装置の開発や。今で云えば、レーザー砲というところかな」
第二次世界大戦中、日本上空にアメリカの爆撃機が飛来した。このB29を迎撃するため、強い光を上空に照射し、エンジンに電波障害を起こさせ、飛行機を墜落させる、という方法が考えられた。しかし当時の技術で光束集中装置を動かすためには、数十トン級の発電機が必要だった。そんな巨大な装置を、空襲のたびに飛行機の下へ持っていくことは、現実的には不可能だ。この装置を小型化する方法を祖父は研究し、ほぼできあがろうとした頃、終戦をみた。
終戦の午後、祖父は一そうの漁船を借り、完成間近の秘密兵器と機密書類を積んで、湾に漕ぎ出した。戦争協力した証である研究成果を全て海中に沈め、以来、妻の実家に引きこもり、今に至るまで、草深い田舎暮らしをひっそりと貫いている。
遍は身を乗り出した。
「行列式が、ちっともわからない。ジイチャン、行列ってわかる?」
祖父は答える。
「行列は、コンピュータの中身なんや。だからとっても大事で、生活に必要なことなんや」
学校で教えられる知識は、死んで乾ききった花束に思えたが、それが息を吹き返す場所、コンピュータ。遍は髪をかき上げた。
「コンピュータって、ジイチャンの時代からあったの? 行列の解き方が、わからなくって」
祖父は練習問題に目を通し、時間を費やして考え込んだ。遍は、ジイチャンは公式を全部忘れてしまっていて、思い出せないのかと危ぶんだ。おもむろに祖父はボールペンを取った。ちらつく蛍光灯の下、特価の赤い数字が透けた広告紙の裏に、ペン先が近づいた。祖父の手はかすかに震えていて、字を記すのにややこころもとなかった。一文字一文字、数字と記号が丁寧に書き現された。祖父の字は案外と丸っこかった。改行されて、また文字列が並んだ。
祖父の問いかけに、遍が間違った答えを返してしまっても、祖父は怒らずにまたじっくり考え、別の一行を書いて説明してくれた。しまいには、込み入っていたことがあっけないほど明快な形に解きほぐされた。
「なんだ、そういうことだったんだ。どうして授業では、こんなふうにやってくれないんだろう。ジイチャン、すごい」
遍には、魔法のように思えた。
祖父は声をたてずに、口だけで大きく笑った。孫の反応に満足げだった。
「今晩はここまで。続きはまた明日」
「ジイチャン、……ありがとう」
蒲団を敷いたら、祖母と並んで寝て、十一の時と同じように、お話をせがんだ。神隠し、そして霧田津比女の頓知話。
闇をひらひらと降ってくることばに目をこらした。天井に溜まっている闇は、こどもの時に感じたほど、もはや暗くはなかった。
座敷に掛かっている古い武具の話にもなった。それは鉄の槍だということだった。
「ほら左側が穂先や、見てごらん」
「うーん、そう云われれば、左が尖ってるみたい」
「今度、昼間によく見てごらん。なかなか見事な細工やに」
「もっと、何かお話して」
「何の話が聞きたい?」
祖父の詳しい経歴。祖父と祖母が結婚した経緯。娘時代の祖母が、女学校の寄宿舎で、お転婆な友達と築いた武勇伝の数々。結婚、出産、都会の空襲。姉の死と終戦、そして若い二人はこどもを連れて田舎に戻って母方の家督を相続した。やがて長男は出奔した。
「遍も何年か前に会うたな、あのおじさん、豊彦おじさんはさ、お父さんつまりジイチャンと喧嘩して、家を飛び出してな。しばあらく、行方知れずやったんやけど、戻ってきたら利子さんたら奥さん連れてきて、鉄彦産まれて、まあぼちぼち仲直りした。だけどジイチャンとはやっぱり折り合い悪いし、稼《みのり》あんたのお母さんな、豊彦と稼は、こどもの頃からそりゃもう仲悪うてな。二人きりのきょうだいやのにな、はあ」
祖父母の幸せと不幸の荒波が、現在につながっている。
「でもええわ、こうやって遍だけでも来てくれた」
湿った夜気が畳の上を流れ、遍は隣に健康な寝息を聞いた。
よく晴れた昼過ぎ、遍は川南へ向かった。
坂下の国道には、真新しい歩道橋がついていた。バス停のそばのよろず屋は、改装されていた。
踏切とその先の道は、変わらなかった。遍は明るい田圃の中の一本道を歩き、なんなく川べりに至った。
古い石橋を渡った。橋を渡り始める時、両側は桜並木にこんもりと覆われていた。その枝が切れると、下の川原に白い石と柔らかな草の輪郭が見え始めた。やがて石の縁を水が嘗めた。
銀の川は、盛り上がり踊り、光を跳ねかし、一本のよく曲がる幹として低みを貫く、土地の大黒柱だ。
欄干の隙間から大きく身を乗り出していたことに気づいて、遍は慌てて退いた。垂れ下がった長い髪と、服の外にはみ出していた御守袋が、吹き上がってくる風の中で揺れた。しかし川の面は夏の陽光にきらめいているだけで、ただ一心に流れ続け、遍に関心を寄せるそぶりはなかった。
遍は、自分が川底で龍と会ったことを、都市で過ごした四年の歳月の間に、現実の出来事だったとは信じなくなっていた。――サンタクロースだって、本当にはいない。でも、皆で、いかにもそれが存在するかのようにふるまうのだ。
――川底での龍との出会い。あれは臨死体験中に見た夢だったと思う。夢は頭の中だけにある、自分の想像の産物に違いない。
――左手に三枚の鱗を受けたと思ったのは、川の中で岩にぶつかってできた傷だった。今では、医者が予測したよりも早く順調に薄くなって、痕はすっかり消えてしまった。
――空中を泳いできた魚は、保健室で教えてもらったとおり、孤独なこどもの幻覚だった。幻覚を現すのは、幻覚を見る人のはずだ。それは外部ではなく、内部に起因するものだ。たとえ自分を恐れることがあるとしても、龍という架空の生き物を恐れる必要はない。龍自体が、自分のイマジナリー・コンパニオンだったとも云えるのかも知れない。祖母から聞いた土地の伝承を利用して、自分の頭が作ったのだろう。
――初潮が来た時は、たまたま夢を見たのと重なって、龍に襲われたと勘違いした。強い護符をもらってから、龍の夢さえ見ない。この護符は、呪力なんてないはずだけれど、精神的な安堵をもたらすから効く。護符をつけて魚が消えたのは、安心感による効果だと思う。
――夢は現実ではない。夢に苦しめられたとしても、それは全部、自分のきもちの中だけの問題だ。醒めれば苦しくない。魔法は、たとえ夢の中で働くことがあっても、現実を侵せない。
――ただ、龍の幻想は、この土地で共有されてきた。この美しい場所で、人の想像力が働く。何百年も一つの幻想が語り継がれ、共有されてきた。共有された幻想は、きっと個人の無意識、個人の夢にも入り込むのだ。人が世界に関るには、何らかの幻想を信じる必要があるのかもしれない。祖父は科学を信奉する。でもその科学だって、魔法のように不思議なことには変わりない。
そう考えて、十六歳の遍は理性に満ちた目をあげた。どこまでもきらきらしく、陽光を溶かし跳ねかし、水の生命は走り続けていた。橋は川の上空をまっすぐに渡っていた。
橋をくぐって魚影が動く。一つ見えると、ほかも見える。気づくと、岩陰に魚の群れは幾つもあった。水面近くを鮮やかな羽の小さな鳥が飛び、その軌跡をまた別の鳥が交差する。川は多くの小さな鼓動を擁していた。見つめる遍の心臓も、川の流れと共に打っていた。
乙女岩と龍神淵は、湾曲していく川べりの向こうに臨めた。川岸の大岩と、赤い筋が稲妻のように入った滑らかな岩壁の淵。それらは恐ろしさではなく、懐かしさをかき立てるものになっていた。
遍は橋を渡りきり、川南の地面に足を置いた。遍は一年間使った御札を胸の谷間に提げて、龍王堂に向かっていた。
田圃の中の道は、等高線に沿って蛇行しながら、しだいに上り坂になった。
騒音と振動が暗く唸る高速道路の高架をくぐり、林の縁を歩いた。道なりに石段が始まった。
不揃いな石が斜め上空へ伸び上がっていく。天に向う細かな鱗の連なりのように、石の面はどこまでも並んでいる。遍はしっとりとした木々の影に骨の髄まで浸されながら、細い脚で一段ずつを踏みしめていった。川から遠ざかっているのに、川の気配はいっそう濃くなっている。
水が流れる音が近づく。上るにつれ、水音は大きくなる。
現れた木陰の清流は勢いよく白波を立て、樹木や道を黒い影の筋として溶かし込み、水際に生えた草を揺さぶっていた。奔流に、小さな木の橋が掛かっている。あの川に注ぎ込む支流の一本だ。
さらに石段を上ると、再びせせらぎが現れた。細くさらさらと静かに、落ち葉の中を流れている。さっき渡った沢の、さらに上流にあたる。掛け渡された石柱を遍は渡った。
三度小さな沢を横切ると、前方に質素な門が建っていた。桧皮拭きの屋根が木の柱に支えられていて、柱の間の板戸は閉じられていた。しかし、門は道を完全に塞いでいるわけではなく、左右の柱と森の間には広い空間が開いていて、門の横をすり抜けて通ろうと思ったら、簡単にそうできてしまう。門のあちら側にもまた同じような石段が続き、こちら側と同じように覆い被さる樹木でほの暗かった。
遍はしばらく道の先を見上げてから、門柱にかかっている青銅の呼び鈴に目を止めた。その脇にぶらさげられた木の棒を取り上げ、小さな鐘を叩くと、風鈴に似た涼やかな音がした。
薄い音の輪が広がり、波紋がさざなみだって森に吸い込まれた。音が消えた後は静けさが頭上の枝から滴り落ち、石段に沁み入る。遍はもう一度、鐘を叩いた。こんなに小さな鐘が、奥の方にも聞こえる音を出すのか不思議だった。静寂に再び襲われないように、続けて再度鳴らした。それは繰り返しその音を聞きたかったからでもある。遍の手元から生じた音は重なり合って殷々と互いを打ち合い、輪と輪の端を引っ掛けあってつながるようだった。
――もし誰も来てくれなかったら、門の横を通り抜けてよいか、誘惑と戦わなければいけないだろう。
幅広くなる一方で薄くなっていく透明な音の輪を、下駄がたてる堅い足音が突き破った。石段をひとりの男が駆け下りてきた。着物の裾を慣れたしぐさでさばき、すぐに門に到達すると、向こう側の桟を外して扉を開けた。
あの男ではなかった。装いはそっくり同じだが、もっと若く、髪も短い。
「龍の若姫さんですね?」
「はい」
「御札の交換ですね。どうぞ、お入りください」
招じ入れられて、遍は高い敷居をまたぎこし、門の内側に足を踏み入れた。
「暑かったでしょう、今日はほんとに」
若者は愛想よく話しながら遍を伴い、山門の内側の石段を上った。
少し上ると、道は下りに変わった。周囲をみっしりと塞いでいた樹が不意に途切れ、黒砂利が敷き詰められた広場につながった。
黒い石ばかりを集め砕いた楕円形の広場は、光を浴びていても、何か暗く感じられた。足を置くと、無数の歯で岩をはんでいるようにぎりぎり響いた。その足音が、山に小さくこだました。
音に呼び出されたかのように、森の中からあの男が出てきた。広場を囲む森の一端に、また板戸があった。その扉を開け閉めして、懐かしい姿形が現れ、懐かしい大股の歩き方で近づいてきた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
そう声をかけ、男はそれまでの案内者と交替した。ことばは慇懃でも、媚びは微塵もない。
遍は幅広い胸の上を見上げ、この男がけして近づきやすい人物ではなかったのを思い出した。――それなのにどうして、会いたいと思っていたのだろう。さっきの若い人のほうが、かんじがよかった。
宇暁は、ほつれた髪を顔の両側に垂らし、無骨な手の指先を躯の横で丸めている。杖は持っていなかった。
「日陰でひといき入れますか」
広場から数歩、森に入ったところへいざなわれた。そこに、高床に屋根だけを架けた、壁が全くない建物があった。
壁は森だった。少し高い位置に貼られた板間に上り、円座を敷いて座ると、四方はしんしんとした緑に囲まれる。
正面の植え込みの向こうに、黒砂利の反射が透けていた。その手前で、黒っぽい石組みを濡らして水が溢れていた。この湧き水が、参道につかず離れず下る沢になる。
宇暁は石の縁に伏せてあった木の椀を二つ取り、泉に両方ともを浸して、両手に一杯ずつの水を汲むと、濡れた二つの椀を板間に並べて置いた。宇暁は下駄を脱いで床に上がり、遍の真向かいに正座した。遍はつられて居ずまいを正した。
「どうぞ」
遍が椀の一つを取ると、両手は濡れ、膝に水がぽたぽたと滴った。
宇暁は残されたもう一つを取る。そのまま、着物の表に水が垂れるのもかまわず、大きな片手で無造作に椀を掴んで口元へ運び、水を飲んだ。
遍の両手の中にある椀は使い古され、細かな疵に覆われていた。覗き込むと、ろくろで削り出された飴色の木目が深い水の底に揺れていた。水の中にある赤い筋は、龍神淵の岩石に走る模様を思い出させた。遍は、川をこの両手のひらに載せているような感覚に襲われた。
遍は一口飲んで、再度、椀の中を覗き込んだ。それはやはりこの世界の小さな相似形だった。赤い筋を水が覆い、水面に木の枝先と自分の顔が映っていた。
水を少し揺らすと、湧き水は周囲の緑を溶かし込み、澄んだ抹茶の色になった。泡もなく溶いた粉もなく、しかし口に含むと、透明な抹茶のようにほろりと甘かった。
「この泉は、川の源泉の一つです」
川、と云うだけで、それは唯一無二の川を指した。
「水が、甘い」
「いい水です」
遍が空になった椀を床に置くと、宇暁はそれを取り上げて腰を浮かせた。宇暁は地面に降り、両手に再度、水を汲み上げて戻った。
二人はさらに一杯ずつ、今度はもっとゆっくりと味わって飲んだ。飲むにつれ、時間の流れも緩やかになっていくような心地が遍にはした。
水の粒子が内側から躯に広がり、銀の音を響かせている気がする。
躯の外側には暑い空気が満ち、刻々と緑が盛り上がっている。
葉はここに座っているこの間に、葉脈一本ぶん膨らんだ。樹はひび割れ一つぶん伸びて夏の成長を果たしつつ、思うさま緑の息を吐いている。その膨れ上がる緑の壁の中で、古い木の柱に囲まれて、宇暁と遍は向い合って座っていた。二人とも、手にした木椀に視線を落とした。
椀の中を覗き込むうち、遍はいつしか陶然とした心地に包み込まれていた。長い髪が肩の前に滑り落ちた。
遍は椀を静かに揺らして、半分ほど残った水が、エメラルドと銀を混ぜた渦巻になるのに見入った。単に椀を回しているだけなのに、万華鏡のような変化が絶えず、次の瞬間に新たな驚きがある。二つとして同じ模様は現れない。
「どうして、どんどん変わっていくんだろう。いつまでも」
「自然とは、そうしたものです」
「きれい」
「いい水です」
「どうして、こんなにきれいなんだろう」
「生きているからです」
宇暁は水を飲み干して立ち上がった。椀を抱えて見入っている遍を座敷に残して、広場を横切り、門の向こうへ消えた。
黒砂利を下駄で鳴らして戻ってきた時には、重そうな木箱を手にしていた。
幾重にもなった蓋を順番に開けていくと、中には新しい護符が入っていた。
遍は首に提げた御守袋の紐をたぐりよせ、胸の前で袋の口を開いた。古い紙片を取り出して床に置き、新しい護符を取り上げた。
宇暁の手によって、遍が一年間身につけていた御札が、広げられ、皺を伸ばされ、広くて深い平面にぽつんと入った。
四方を囲まれた板の底から、清浄な緑の呼気とは違う、甘いような匂いが立ち昇った。よく知っている匂い、自分の布団と同じ匂いだ。箱の中に、もうひとりの自分がいる、と遍は感じた。この一年間の自分が一枚の紙片となって分離し、そこに存在している。
過去を預けてしまっているような、変な気がした。自分が時々に、勝手な夢想を抱いて手のひらに固く握り締めたり、胸で押しつぶしたりしていた物が、今や親指ほどの厚い板に囲まれ保管されている、という眺めが、遍の腰を落ち着かなくさせた。
箱を持っているのは、宇暁の大きな手だ。遍の頬から耳にかけて、強く朱が差した。うつむいた顔を、宇暁に見られている。
自分が恥ずかしがっていることを知られることも恥ずかしかった。だから遍は平気なそぶりで顎を上げた。そこに陥穽があった。
目を上げた先に、男の目があった。初めて会った時と同じ強さで、その目は遍の前にあり、遍を見ていた。たちまちに遍は裸に剥かれ、心を露出して、人の目の宇宙に吸い込まれていた。どこまでも深く、遠く、ほんのすぐ前にあるのに永遠の距離がある。宇暁は目をそらさず、遍も目をそらさなかった。
視線が真正面から重なり合って、無限遠の合わせ鏡になる。自分が感じているものを宇暁も感じているのだろうかと、遍は吸い込まれながらいぶかった。
――落ちていくのか自分が吹き寄せていくのか、その風が返すまで相手に向かって進んでいく鏡面の広さ、渡っていく時間は長い。まだ辿り着かない。凝視は続いた。遍は宇暁の目の中に映っている自分の像に、次々と新たな自分を発見していた。宇暁は鏡として前に立ちはだかり、同時に門として遍を通す。
ことばはなく、仕草もなかった。遍はこの状態を、思いがけない試練のように感じた。
二人の目の間に綱が編まれ、時間の経過によってそれが次第に太くなり、やがて二人の躯を結びつけ始める。すっぽりと、二人だけの別の空間に落ち込んでいく気がした。
宇暁は動こうとせず、遍の口は乾いた。宇暁の目は強い明るさと暗さが入り交じり、初めて会った時と同じように冷ややかで、ただ正面を動かない。――自分から目をそらせばいいのだろうが、今、目の前に広がるその人ひとりぶんの宇宙を、まだ見ていたいと遍は思った。これを欲望と云うのなら、それは目が合った瞬間に芽吹き、見つめ合ううちにみるみる幹を立てて枝を伸ばし、遍の躯を覆っていた。これが欲望なのだろうか。枝は垂れ下がり、葉は茂り重なり合い、空間を埋め尽くす。めりめりと空間を埋め、夏の大気を押し伸ばした。このような時間の先に何があるのか、怖れがふと湧いた。
ぱしゃん、と鋭い音を立て、水が泉で跳ねた。
宇暁の顔は一瞬で緊張し、その視線は泉に向かった。
視線を外されて、遍はひっそりと息をついた。
何ごともなかった。湧き水は石組みの間で、溢れこぼれ続けていた。水はさっきの一瞬、高まり盛り上がった。今、木漏れ日を浴びた水は、元の穏やかな膨らみに落ち着いていた。夏の午後の影が水の下側を彩り、共に踊っていた。何ごともなかった。
宇暁は、もう遍の目を見なかった。宇暁の視線は泉水から木箱へ移った。
遍も箱の中を見た。ぽつんとある御札は、遍の目には寂しい眺めに映った。遍はつとめて平静を装った声で云った。何か云わずにはいられなかった。
「この御札は、一枚きりで、こんな大きな箱に入っている」
「人は本来、天涯孤独です」
「あとで、ほかのたくさんの御札といっしょにするの?」
「いいえ。この御札は我が堂にとって特別なものですから、一つだけ分けておきます」
遍はとっさに反発していた。
「特別だなんてそんなのは、変」
宇暁は静かにことばを連ねた。
「ならば、個性と云えばよいか。……皆が平等だというのは、錯覚にすぎない。人は自分自身であり、ほかの誰とも同じではないのだから。あなたは、龍に身を捧げた大古屋霧田津比女の八十八番目の娘で、あなたの個性はその血に由来し、あなた自身で、新たな一回きりの個性を作りつつある。あなたが今、手にしているのは、道筋を惑わないようにする護符です」
遍は手の中の真新しい御札を見た。祖父が広告紙の裏に書く不思議な記号の意味は、ずいぶんとわかるようになったが、しかしここに書かれている字は、英語を習った後でも、まだ読めなかった。
「このことばの、意味がわかりません」
「そのことばの作用は、龍があなたに寄せる気の流れを、吸着するようにしています」
科学では解けないことを、平然と自明のことのように云う宇暁に、遍はとまどった。遍が混乱の中で黙っていると、宇暁は静かに箱を閉じようとした。遍は、自分の過去一年のゆくえを追いたくなった。
「あとで、それ一つだけで、焼くんですか?」
宇暁はためらった。それから、否定した。
「いいえ。この御札は、焚き上げません」
「密教には御札を燃やす行事があるって、テレビで見たんだけど。じゃあ、それを、どうするんですか?」
宇暁は考えてから、答えた。
「この御札は、龍の精気を集め、封じ込めたものです。この一枚に、龍の一年分の精気が溜められていると云えます。これは強大な力を持っている。焚き上げることはしません。焚かなければいけないのは、不浄のものです。しかしこれはこのままで、浄化された炎の塊です。『影』は持たず、力はあります。雷電が眠っているとも云えます。これを焚く必要はありません」
「つまり、ずっと取っておくということ?」
「この堂で、我々は、これを人の役に立てます」
そう簡単に答え、宇暁は箱の蓋を閉めてしまった。
遍は、宇暁のしていることをもっと知りたいと思った。
「どんなふうにして? あの門の中でやっているんですね? 見に行ってもいいですか?」
遍は広場の向こう側を遮る板戸へ目を向けた。
「あの門の向こうは、女人禁制です」
宇暁は、すまながるそぶりも優越感もなく、事実を告げた。
遍は髪を肩の後ろへ払った。
「ずるい。……そうやって、隠してきたんだ。龍王堂は向こう側で、何か秘密のことをしているんだ」
宇暁は箱に両手を置き、説明する。
「あの中には、我々の寝起きする場と、修行の場があります。我々は、力を求めています。力を求めるのは、男のすることです。女性はもともと、力を内に秘めている、丹田の奥に。弱い男には、人工的な子宮が必要です。あなたたち女が直観で到達するところに、我々男は修行して到達する。地を一歩ずつ歩く者たちの場所に、羽で飛べる者に入ってきて欲しくはない。こんな説明で、納得していただけるか?」
宇暁は、やや自嘲ぎみに微笑んだ。
遍は、まだ不満だった。宇暁につられて、超自然的なことを口にしてもかまわない気になった。
「向こう側で、龍が怒ることをしているんだ。その龍の敵に、わたしは協力している。もし龍と会ったら、わたしは龍にどんなめにあわされるんだろう」
「二度と会わなければいいのです。人の側からだけ、考えるべきだと思います。我々は龍の気を集め、たわめ、利用する。しかし、角を結ばれることも、胴を締められることも、尾を割かれることも、龍にとっては束縛と恥辱でしかない。龍神は執念深い」
宇暁が顎を上げた。顎にまばらな無精鬚が生えているのに遍は気づいた。宇暁の視線は、見上げる遍の視線とは交わらず離れて、再び泉に注がれた。
「龍に流れている時間は、人間に流れている時間とは違う。こちらが押さえ込めたと安心した頃、龍は再び台頭する。人よりはるかに辛抱強く、待つことが苦にならない生き物だ」
宇暁が目を細めた。
「龍神は、執念深い」
遍も、顔に髪に、緑の風を受けた。濃密な生が匂っていた。森の幾千枚もの葉を順に揺らしてきた、甘い風だ。遍の艶のある長い髪が、ふわりと風に広がった。
「この風、水みたいな味がする」
「森の風です。森が川を育てる」
宇暁はしばらく、建物を囲む梢に視線をさまよわせていた。風はまだ、四方のあちこちの枝を揺らしていた。
――どんなに年を重ねても、宇暁と自分の間にある歳の差が縮まっていくことはない。親からこども扱いされるのと同じように、自分は宇暁にとってもいつまでもこどもだろうか、と遍は思った。常に自分より先を生きるおとなの男の目には、自分とは違うものが見えているだろうか。何が見えているのか、遍は知りたかった。
宇暁が遍を向いた。
「油断しないように。龍はずるがしこい生き物です。龍は近づいたら、姫に取引を持ちかけるでしょう。何でも願いを叶える代わりに、何かをよこせと要求する。その取引は対等のように思えて、いつも龍に有利に働きます。龍を手玉に取った姫は、古代の話です。護符をけして離さないように」
――けれど、宇暁が親切そうに提供するこの御札は、自分の身を損なうものだ、と遍は知っている。いつかこれを手放し、自分の力を試してみたい、と遍は思った。そうすれば、宇暁も自分を認めてくれるだろうか。今だって、なすすべもなく川に落ちた十一歳の自分とは、もうまるで違うはずだ。
しかし宇暁が見守る前で、遍は素直に護符を畳んだ。手の中にある使い古した御守袋が、色褪せ歪んでいることに気がつき、また恥ずかしくなった。急いで御守袋に護符を入れ、服の内側に落とし込んだ。
「水をもう一杯、いかがですか?」
遍は首を横に振った。体内は森と水の気で、既に満杯だった。
「それでは、橋の向こうまで、お送りしましょう。支度をしてまいりますので、しばらくお待ち下さい」
云い置いて宇暁は古い御札を納めた木箱を抱え、大股で門の向こうへ消えた。遍は建物の端に座り、足をぶらぶらさせて白い葉裏を見上げた。その時、ふと思った。
――もし、自分が十一の時、呼ばれるままあちら側の世界へ行ってしまっていたら、今日の日は来なかった。
遍は風に乱された髪を手ですいた。再び戻ってきた宇暁は、黒い頭巾を被り、杖を持っていた。
二人は並んで山を下った。里に向かって、平らな稲葉の間を並んで歩いた。隣を歩く人と同じ速度で風景は展開し、視線の高さを違えて同じ物を見る。遍は二人で歩くことに不思議な満足感を味わった。おとなと、男と、何か分かちあえるなど、期待したこともなかった。細い幅の田舎道を、歩調を合わせて、路肩の左右をそれぞれに踏んで下っていく。
若い稲田には真緑の葉ばかりが立ち並び、そこに穂の曲線は加わっていなかった。緑の畦道を蛙が跳ねていった。幾層もの緑が織り成す光は、一色からつくられた風景とは思えない、重厚な調和を作り出していた。
夏季が始まったばかりの暑さは、まだ底が浅い。午後の日射しは強烈だが、地を水のような爽やかさが這っていた。その水めいた薄い風の流れを、龍の気脈だと宇暁は教えた。この地には、龍の血管が縦横に走っている。その恩恵を受けて稲が実り、香り立つ茶の葉が茂る。気を一番に溶かし込むのは水で、その水を通じて人間の体内にも龍の気が入ってくる。
高速道路の高架は、無言でくぐった。幾千もの怪物が軋みを立ててうごめいているような騒音の下では、何を云っても自分にすら聞こえない。高架を過ぎると勾配は緩やかになり、なだらかに川岸に続いた。
車一台がようやく通れる橋を、二人で並んで渡った。橋を渡る間も、現実の水は二人を襲わなかった。川は、ただひたすらに流れ続けていた。水面からとんぼが飛翔した。鳥が川岸の薮で鳴き立てた。
――物質と夢は、どのように結びついているのだろう。人が何百年も思い続けると、人は『神』や『影』を、実在させてしまうことができるのだろうか。それともそれはどこか別の世界に棲んでいて、こちら側へ訪れるものか。
きもちのよい風を感じるだけで、答は充分のようにも思った。ほかはどうであれ、今ここに龍がいる証があると思った。
――理詰めで魔法の理由は探せる。現状を解釈できる。しかし、今起きているこの現象を感じている自分の感覚。これは割っても割り切れなくて、きっと一番それをよく推し量れるのは直観で。自分には龍はいる。宇暁にも龍はいる。けれど龍を現せない人にとって、龍はいない。幻想は、どこまで共有できるのだろう。そしてたとえ共有したとしても、宇暁は龍の敵だ。
考え込む間に、遍たちは橋を渡りきった。
それでは、と、簡単なことばで宇暁は川南へ引き返した。
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