『龍愛づる姫君』 (7)
7 夢
睡眠中にもつ幻覚。はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。空想的な願望。心のまよい。迷夢。将来実現したい願い。理想。 字形は、呪術を行う巫女の形と、夕とに従う。
祖父は遍から大古屋家の隠した黄金の話を聞くと、一笑した。――そんな金の延べ板など、畑にも庭にもどこにも埋っていないのは、この土地をくまなく耕している自分がよく知っている。土を掘ったら種を蒔くのが、確かでまっとうな方法だ。
一方、祖母の意見はこうだ。――自分から黄金を探しても無駄だ。そういう類の富は、時節が来るまで隠され、自ずと現れ出るものだ。
祖母は思い出したように膝を叩き、付け加えた。
「そういや豊彦叔父さんが、若い頃、龍金を探すんやというて、はりきって何やらごそごそしとったわ。ちょうど今の遍ぐらいの年頃やったな。だけど調べとるうちに、村人たちの間へ入り込んで、呪いや予言や何やと耳に吹き込まれて、怖うなったんか、ある時を境に、ぱたっと探すのをやめてもうた。大古屋の埋蔵金探しは、大古屋特有の、思春期の熱病の一種やな」
――それでも、この夏休みが終わるまでに、先祖が残したはずの金塊を見つけよう、とその夜、遍は心を決めた。
もし見つけられたらすごい。がんばる前から諦めることはない。
遍は額のかかった座敷に寝ていた。隣で祖母はもう寝入っていた。
遍は思った。――鉄彦が期待したように、わたしには、黄金の気配を感じられるのだろうか。
けれど、何も感じない。
――それは自分の能力が、御札で封じられているからだ、という答がふと沸いた。胸に提げた護符が龍の精気を吸収するから、黄金のことも感じ取ることができないのだろう。龍金というからには、何か龍に関係した金塊に違いない。
――もしかして、龍金というのだから、龍なら、龍金の由来や行方を知っているかもしれない。
遍は起き上がり、おそるおそる御札を外し、傍らに置いた。たとえ手放しても、水に流したり燃やしたりせず、まだ近くにあるなら、完全に護符の力が消えたことにはならないはずだ。
遍は蒲団を抜け出し、網戸を開けて庭石に降り、はだしのまま亀石の方へ進んだ。
――宇暁は、自分がこんなことをしていると知ったら、怒るだろう。けれど自分はもう十六歳、充分に護られ、充分に待った。護られすぎて、龍の実在を信じなくなるほどだった。そろそろ、自分の力を試してよい頃だと思う。
――龍を呼び、龍に喰らわれることなく、古代の姫がしていたように、龍を使役する。龍にさせる最初の仕事が、龍金探しだ。
――もしこれをうまく成し遂げたら、宇暁に少しでも認めてもらえるようになるだろうか。
――充分気をつけて事を行うから、と遍は思った。
遍は、暗がりで自分の左手に触れた。傷痕はすっかり消えて、凹凸のない滑らかな皮膚になっている。それでも、できるのだろうか。
信じるしかない。
遍は夜空を仰いで、息を深く吸い込んだ。空を仰ぐと、長い髪が背中の下の方にまで垂れた。焦ってはうまくいかない気がしたので、目を閉じ、時間をかけて龍を思い描き、その像にすっかり満たされた時、目を開けた。
「龍よ、来れ」
そんなことばが、自然と口をついて出た。
遍は待った。
変化の兆しはない。それは何の結果ももたらさない、単なる音節のつながりだった。
遍は再び呼びかけ、待った。長い間、待った。
――何が、違うの。声が、届かない。
暗い庭では虫が鳴き乱れる。しかしそれも深夜になればふっつりやんで、ただ月が空を渡っていくだけの静けさになる。黒い枝の隙を縫って落ちる光が、庭石の間の苔を、ぼうっと浮かび上がらせる。
月は順々に庭石を伝っていく。しっとりした緑の苔は月光の青を帯びて、水の中を思わせる深い色になった。そのままたゆたっていきそうな、不確かな色を持った。
龍とつながる感覚を思い出したのは、同じことを繰り返して三日目の晩、眠っている最中だった。
夢の夜に、一条の暁の赤が差し染めていた。
しかし夜はまだ深い。
――その一筋の赤は、暁の色ではない。闇に流れている血だ。闇を焼く炎だ。
雷。ばしんと生木の幹が踊り弾ける音がして、雨が遍の躯に降り注ぎ、心臓の鼓動を冷やしていく。空はひどく遠く近く、白く黒く、雲と地とが互いを侵食しあってうごめいていた。頭上から降り続ける雨はいつしか川の流れとなって坂を下り、盆地を一面の水で埋めた。見慣れた田畑は水中に没し、盆地を囲む山並がぐるりと椀の縁のように突き出すだけになった。
「昔な、台風で盆地が水浸しになって、そこらじゅう大きな湖みたいになって、何もかも水の底に沈んでしまったんや。そのときな、大古屋家は一番高いところに建っとるで、うちだけが浸水もなく助かったんや。大古屋家は村で一番古い家やで、一番いいとこに建っとんのや」
祖母の寝物語の続きは思い出せない。その夜は遍のほうが先に寝付いてしまったのかもしれない。
「それよりももっともっと大昔、ここは湖やったんやて。水が切通しから流れ出して、今の盆地ができた。だからここの守護神が龍神さんなんは、当然やろ」
盆地は水をたたえた大きな椀だった。遍は椀の縁に立っていた。椀の水は甘かった。龍の水を飲んでしまったのだから、龍は体内にいた。――人が龍から逃げないのは、当然だ。龍を殺せないのは、当然だ。龍は体内に既にいるのだから。
血中を流れる冷たい鱗の感触を自覚すると、龍はさらに力を得て、内側から遍の夢を喰い破った。左手のひらへ突き抜けた。
すっかり心の鎧を弾けさせて、飛ばされた鳳仙花の種のように、夜のただなかに遍は浮かんでいた。
闇は湿気を含んで重々しく、いたるところに生命の気配を充満させていた。内側から膨らんでいく稲穂、水を吸い通している葉脈、草の中を這っていく小動物、水路を泳ぐ幼虫、浮いては途切れる蛍の軌跡、そうした幾つもの小さな呼吸は闇に包まれ、全体として一つの呼吸を始めているかのような一体感を成していた。雨上がりの湿った土の匂いを遍は感じた。
四方は暗く沈んだまま、時折、蛍の短い曲線が明滅した。
夜の中を漂いながら、遍は村のどこかを、今まさに自分の魂がさまよっていると感じた。夢といえばいいのか、幽体離脱というものなのか、判然としないけれど、己の心が、肉体を伴っては行き得ない所に来ているという気がした。遅い夕立の後で、地上にあるものはどれもくまなく水滴に飾られていた。その重厚な装飾の上に、遍の心はむきだしで放たれていた。
足は地面についていない。田の上にいる。稲葉を順に傾けてころころと露を弾き落とし、闇に白珠を巻き散らす夜風となって遍は進んだ。
少し先の空中を魚が泳いでいる。遍はそれを追っている。黄金色だったり緑色に染まったり、地面の気脈の濃さを映して、魚の色はめまぐるしく変化した。金と銀のまだらに染まったかと思うと、ばしんと大きく跳ねて、棚田の縁へ遍を導いた。
田が終わる所は、段丘の崖際だ。赤い目をさそり座の尾星と遠い火星のように二つ並べて光らせ、理想の人の形を取った龍が待っていた。
遍は闇に左手を差し伸べた。手のひらから、龍に吸い寄せられていく。
遍の手は彼の胸に近づいた。その胸に欠けている三枚の鱗は、遍の手のひらに埋もれている。遍の髪は、彼の肩に引き寄せられている。
しかし遍の手は空を掴んだ。一瞬のうちに彼の躯を突き抜けていた。手にも髪にも、何かに触れている触感はない。
「あ」
遍の顔が悲しみに歪んだ。
〈しかし姫よ、このように空しい夢で龍を伺い見て何とする。それ、その胸のことばのせいで、我らは触れ合えぬではないか〉
遍は自分の胸を見下ろした。ゆるやかな膨らみを持った胸に、とがった形の字が白く載っていた。それは遍の皮膚の下に入り込み、肌を透かしてぼうっと光っていた。四年間御札を持つうちに、その強力な呪句は、いつしか遍の内部に埋め込まれていた。この呪句は、龍の精気を吸着するものだろう。御札を完全に捨てなければ、たとえ夢で会えても、龍の気は全てこの胸の呪句に吸い取られてしまい、互いに直には触れられない。
遍は慄然とした。
――これを完全に除去するには、己の胸をえぐり取らなければならない。そんなことをしたら、死んでしまう。
赤い目が、文字の記された遍の胸に据えられた。
〈おまえは堕した。龍の一部を与えたにも関わらず、姫は自ら自身であることを偽る。おまえは、今のおまえを本当の自分だと、本気で信じているのか〉
遍は気圧された。しかし思うことを云った。
「だからわたしは、龍を使役しに来た」
龍は静かに笑った。その時、遍は、自分が龍を召喚するはずだったのに、自分のほうが龍に呼びつけられていることに気づいた。龍は遍の髪を束ねて掴んだ。遍は自分の髪が龍の手に束ねられているのを見た。遍の側からは触れられないが、『神』の側からは触れられるというのか。いや、単に風を操って髪を持ち上げているのか。
頭皮に鋭い痛みが感じられた。苛烈な赤い目に間近から覗き込まれ、ぞくりと恐怖が沸いた。
〈呼ばれたら龍は、願いを叶えてやろう。願いを叶える代償として、姫が龍の元に来ることになるまで。しかし、姫が龍の元に自らやってきたのなら、なぜ龍が願いを叶えてやらねばならぬことがあろう。愚かな姫よ〉
龍はその手に掴んだ髪をふと緩め、向こう側の山並を見やった。
〈堂は卑怯よ。我は与え、奪うもの。『坂ノ上』は贄を差し出す代わりに、わたしからの恵みを受けてきた。しかし堂は、龍の精だけを横からかすめ取る。奴らは、この龍の鬚に石を載せ、胴を箍で締め、わたしを飼い続ける。そんな輩に、おまえは組するな〉
「でも、龍王堂がしているのは、人の役に立つことだから」
〈いったい誰の役に立つことだ。おまえは薄情な輩に操られ、己を封じられているのに気づかぬのか。ならば我が半身よ、わたしが早々と喰らってやろうか、おまえの白い胚乳を〉
――呪句が胸に乗っている。だから龍は、手出しができないはずだ。
しかし遍は、掴まれている髪の痛みを再び感じ始めた。――もしや、痛みも幻覚なのだろうか。夢の中でも、匂いや音を感じることはある。
そう理性で考えても、恐怖がじわりと拡張するのを、抑えることができなかった。
――もし龍が、この数年の間に、龍王堂が作る護符以上の力をひそかにつけていたら。この夢が、醒めなかったら。夢が、夢でなかったら。
風が乱れた。遍の長い髪が揺れ、龍と遍の胸の間でよじれた。蛍が風に混じってふわふわと漂い、髪を飾った。よじれた長い髪が遍の首を巻き絞め始めた。首を巻いた黒い輪が徐々に小さくなる。息が苦しい。遍は水に落ちていくように、ひどく浅い呼吸を繰り返した。その呼吸すら閉ざされて――幻影だ。夢に過ぎない。
遍の本能が恐怖した。死が夢の中で、遍のすぐ前にいる。
――弟は一歳を待たずに死んだ。誰もがいつか死ぬ。自分もいつか死ぬ。人の命を持たない『神』と、人とが何かを分かちあえるはずがない。『神』に命は理解できない。人は『神』を自分に引き寄せてしか理解できない。そして『神』は人に死を引き寄せる。
髪がいっそう強く首を絞める。遍の首がのけぞる。闇夜に蛍が流れる。湿った土の匂い。伸びていく稲葉。こぼれる露。
一面に散り敷いた、貫かれていないばらばらの珠。
一つずつが揺れ、こぼれ、水面に吸い込まれる。大きな水といっしょになる。
――こんなにも苦しければ、そのうち目が覚めるはず。
その時、自分は田の畦に立っているのだろうか、それとも蒲団の中で目覚めるのだろうか。それとも、夢の中で死んで、龍の爪先で新たに目覚めるのだろうか。
それ以上の絶望が遍を襲う。――何を感じても、どこで起きても、夢から覚めたら、今の鮮烈な思いを忘れてしまうかもしれない。しょせんは夢だから。
庭で目覚めた。遍は亀石に覆いかぶさって首を不自然な形に曲げていた。明け方の白さの中で、亀石は夜露をつけていた。身を起こすと、広げた腕の形に乾いた石面が現れた。地にめりこんでいる黒々とした闇の塊に手をつき、遍は立ち上がった。躯が冷え切っている。夜雨が降ったのかもしれない。服がしっとり濡れそぼっている。首が痛い。
天頂には、一筋の茜色の雲が縦に走っていた。地は闇に満ちていても空は既に明るく、雲はまぶしい橙に染まっていた。赤い雲は、龍が空に駆け上っているような形をしていた。遍は庭木の影から出てそれを仰いだ。
身動きした拍子に、右手が亀石に触わり、ざらりとこすれた。遍は慌てて手を引いた。
――亀石は死者の霊を集める。だから盆に、ろうそくで供養した。
手のすぐ横にある大きな石の塊が、名もなく地を這う霊たちの凝集した物に見えた。全ての影と禍が亀石に吸い寄せられる。
こんな石に覆い被さって眠っていたなんて、自分は闇の中で神経がおかしくなっていたに違いない。
両腕を開いた躯の跡が、亀の背にくっきりとついている。
急いで遍は向きを変え、家の中に戻った。
薄暗い室内で、祖母は安らかに眠っている。夜じゅう遍が寝床を抜け出していたことには気づいていない。
台所の方で、祖父が起き出したような物音がしている。
龍とは夢で会っただけだから、『影』は動き出さない。
遍は露で湿った服を脱ぎ、裸で蒲団にもぐりこんだ。シーツが肌の表にひやりと擦れて吸い付いた。枕元の護符に守られた安心感で、遍はふっと力をゆるめて目を閉じ、すぐにまたぱっちりと目を開いた。
御札を手に握って仰向けに寝返りを打つと、霧田津比女の額が自ずと目に入る。朝の白々とした光が文字を浮かび上がらせている。
そのことばの中にある。
「三、龍呼ぶ時、影よけの文、唱えるべし」
――『影よけ』の文で、『影』をどこへ「よける」のだろう。いったいどこへ?
御札を握った腕を遍は横にぱたりと倒した。むきだしの腕に、冷えた髪が触れた。
少し寝直してしまった蒲団の中に、二度目の朝が来る。隣の祖母の蒲団は既に空だ。遍は自分の匂いのする白い洞穴を抜け出し、顔を洗う。台所には温められた味噌と醤油の香りが漂っている。朝食は玉子御飯にゆかりをふりかけて。
庭はまだ家や木々の薄い影に浸され、その中に幾つもの朝顔がぷかぷかと浮かび上がっている。
夜半の甘美な悪夢は薄く引き延ばされ、暗さを失い、風に四散していく。
――幻想は、自分の頭が作るものだと思っていた。けれどあれが、全部自分の中にあったものだろうか? 昨夜の夢は、自分の頭が作り出したものではなかったのではないか。どこからか、来たものだ。
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