『龍愛づる姫君』 (8)

前章へ← / →次章へ


8 謀


はかり設けた方法。もくろみ。計略。
声符は某。某の初形は曰と木とに従い、木の枝に祝禱をつけて神意をとう形の字で、謀の初文。


 昼間に電話が鳴った。祖父母は日のあるうちは農作業に出るので、家の電話はたいてい夜に鳴る。昼間に掛かってくる電話は珍しい。昼食後の片付けに手間取って、遍はひとりで台所にいた。
 電話は、いとこからだった。
「すごいことがわかったんだ。誰にも秘密にして、出てきて。国道で待ってる」
 弾んだ声に、遍も興奮した。ミュールを突っかけて、外へ走り出た。
 坂を降りきると国道だ。バス停のあたりには、しかし誰もいなかった。
「こっち、こっち」
 鉄彦は、目立たない樹陰にバイクを止めていた。当然のそぶりで、ヘルメットを遍に渡す。
「これ、鉄彦くんの?」
「ああ、バイク? 見た目には原付に見えないだろ。免許取ったんだ。来る時、誰にも見られなかっただろうね?」
「うん。どこへ行くの?」
「すぐそこ」
「すぐそこって、どこ?」
 鉄彦はうつむいて、遍の手からヘルメットを取り上げた。それを遍の頭に被せながら云った。
「……美十狛の古墳だよ」
 鉄彦は自分ももう一つのヘルメットを被ると、サドルにまたがってエンジンをかけた。
「乗って。ここに、足を置いて」
 どくどくと響くエンジン音の中で、口早に指示された。遍は慣れないことに思わずぼうっとなって、云われるとおりにした。鉄彦の腰につかまると、二人のヘルメットがぶつかった。
「本当に誰にも見つからずに、秘密にして出て来られた?」
「うん」
 風が周りで巻き起こった。鉄彦のシャツはライムの香りがした。バイクから見る集落の風景は、めまぐるしく後ろへ飛び去り、これまでとまるで違って見えた。
 道なりにしばらく走って、十元岩や魂送りの滝よりさらに上流にあるらしい橋を渡り、国道を離れた。バイクのスピードで、すぐに遍が知っている領域を抜け出してしまった。何度か躯を傾けてカーブを曲がり、やがて舗装されていない細い道を上ったところで、鉄彦はバイクを止めた。
「ダートは走りにくいな。でもパパがもうすぐ、もっと立派な道を造ってくれるはず」
 二人は降り、鉄彦はバイクを薮の間に押し込んだ。
 鉄彦は林道に面した崖を、先に立って登り始めた。ぽろぽろとした崩れやすい土の斜面を、生えている木の幹を手がかりに登った。遍のミュールでは、特に登りにくかった。鉄彦はよく気を遣って、足を掛ける場所を教え、遍の腕を引っ張り上げた。崖を少し登ると、すぐに下の林道は見えなくなった。
「ここは大古屋氏の、代々の古墳があった場所なんだよ。この土地を龍王堂に譲ったなんて、龍の女はばかだ。黄金を隠したのが坂ノ上の地所内じゃないとしたら、きっとここだよ」
「ここが、美十狛なの? それだったら、龍王堂の森の裏側あたりに今いるのかな? ここは龍王堂の森の中だよね?」
 鉄彦が振り返った。
「龍王堂なんて関係ないよ。金を見つけたら、それは見つけた人のものだ」
 遍より数歩高いところにいる鉄彦は、空を背景に、黒い影に見えた。遍の足元で土が崩れ、遍は一歩下がっていた。
「どこを探すつもり?」
「もう少し先だよ。見て、遍。これもそれも、古墳なんだってさ。遍はここに来るの、初めてだろう? 見ておくべきだよ。龍の若姫が美十狛の森に来たことがないなんて、間違ってる。すごく勉強になるよ。この森は、元豪族だった大古屋の墓所なんだ」
 土地への好奇心のほうが優り、遍は鉄彦から慎重に数メートルの距離を置いたまま、もう少しだけ斜面を登った。
 崖のてっぺんに着いたが、木々に邪魔されてまだ景色は開けない。きつい上りは終わり、傾斜はゆるやかな下りに変わった。
 歩くうちに、木々の間に土の盛り上がりを幾つか見た。周囲の地面と同じように、草や落ち葉で覆われている。授業で習った天皇陵とは格段に小さな規模の、土饅頭に近いような塚だった。それでも、歳月の侵食に耐えてこれだけ残ったのなら、元はもっと大きな山だったのだろう。
 もし、ここで何か手がかりを見つけても、鉄彦には教えないようにしよう。その後、ひとりで来て金を掘り出そう、と遍は考えた。鉄彦は信用できないと思う。
 その間、鉄彦はしゃべり続けていた。
 ――下流の町での国分寺建設より数百年前の景行天皇の時代、大和を出発した幾人ものミコトが、土蜘蛛というくくりで、全国各地の豪族きょうだいや集団巫女を滅ぼしたこと。ヤマトタケルノミコトはそのひとりであること。重要な変化の時代であるのに、この頃は日本史に年表がない欠史で、謎に包まれていること。ヤマトタケルノミコトには、先祖のスサノオノミコトと似た行状があること。姉のアマテラスと弟のスサノオは諍いしたこと。
 ――ここの地方の豪族は、古墳時代には既にシャーマンだったこと。中央からの派兵とどう戦ったのか受け容れたのか、ともかくその時代を切り抜けた後、盆地を統べる大古屋の存続が認められたこと。中世から近世、大古屋の女たちは、傍系も含めて月に一度ここに忌みごもりし、地面に直に座って気を受けていたこと。そして『夢見』と呼ばれる、予知でもあり遠見でもあるような技が試みられていたこと。
 しばらく案内されて歩くうちに、遍は方角が分からなくなった。どこも、似たような斜面だった。鉄彦についてこんな所にまで来たことを、軽率だったと反省し始めていた。
「もう、帰る」
 そう遍は云ったが、ひとりでは既に帰れなくなっていた。
「じゃあ、もう一つだけ見て、今日のところは帰ろう。この古墳群の一番中心にあるやつ。ほら、それだよ。見える?」
 木が立ち並んで狭くなっている所で、鉄彦と遍は既にかなり近づいて立っていた。
「その先だよ。見てごらん」
 鉄彦が遍に場所を譲った。遍は鉄彦の前に立った。前方は開けた窪地で、窪地の中に塚らしい盛り上がりが一つあった。塚はこれまで見たものとあまり変わりなかった。背後から、手首を掴まれた。同時に、細い感触が手首を巻いた。遍は振り返り、ふりほどこうとし、目のあたりを拳で殴られた。遍は下りのゆるやかな斜面を転げ落ちた。傾斜のままに転がりながら、手首が後ろで、きつくはないが、縛られてしまっていることを知った。鉄彦が落ち葉を蹴散らして駆け下りてくる。遍は膝を使って起き上がり、焦りすぎてバランスを崩し、肩から転んだ。鉄彦の足が倒れた遍の顔の前に来ていた。遍は横向きに倒れたまま、背後の手首の束縛を、両方の指先で懸命に探った。
「人間って、びっくりすると、とっさに声が出ないものなんだよね。でも、叫んでも、このへん、誰もいない場所だから」
 鉄彦はベストを広げた。内側に、ずらりとポケットが並んでいる。鉄彦はポケットの一つから折り畳まれた布を取り出すと、両手の間で広げた。十センチくらいの幅の、細長い布だった。
「古典的だけどね、やっぱ昔から人に使われてるのは、よく考えられた道具だよね」
 遍の自由になるのは脚だ。遍は肩を軸に脚を回し、鉄彦を蹴飛ばした。
 どこに当たったのかわからない。それでも鉄彦が視界から消えた。遍は膝を引き寄せて上体を起こした。後ろ手の縛めはまだ解けていないが、それがゆるいことはわかっていた。遍は躯のバランスを取って立とうとした。横から衝撃があった。横に倒された。髪が地面に広がった。
 猛然と怒った顔の鉄彦が遍の肩を押さえ込んでいた。遍はもがいて、肘で上体の向きを変え、鉄彦の体重をまともに受けるのを逃れた。視野の端で、鉄彦が拳を大きく振りかざしていた。遍は脚を回して再び鉄彦を蹴った。自分に人を蹴ることができると思っていなかった。必死だった。迎え打つ躯と遍の脚が絡んで、空が地面になって、遍は、うまく膝をついて起き上がっていた。すぐ前に木の幹が並んでいた。――あの中に逃げ込む。
 遍はバランスを取りながら、すばやく立ち上がった。数歩走った。くぐもった唸り声と共に、鉄彦の気配が迫ってきた。体当たりされると思った。振り向いて避けようとして、腐葉土で足が滑った。肩に衝撃を感じた。遍はまた押し倒された。落ち葉が積もっているとはいえ、その下の地面は固かった。引き倒され、土の塚に頭をぶつけた。横に転がった。縛られた腕が背中の下敷きになった。押さえられた。長い髪が遍の顔に覆い被さり、目の前を隠した。
 顔を覆う髪のあちこちに、たくさんの落ち葉が引っ掛かっているのが見えた。腰から脚を、温かいもので、塚のなだらかな斜面にぴったりと押し付けられている感触があった。
 視野を覆う髪がするりと肩へ落ちると、躯の上に鉄彦がいた。
「抵抗するなんて、かわいくないなあ。遍はもっと、素直な女の子だと思ってた」
 口を手のひらでふさがれた。肌に吸い付く人間の体温に、遍は吐きそうになった。
「ぼく、考えたんだよ。遍が埋蔵金を見つけることに決められているんなら、遍を殺せばいい。遍が死ぬ前に、黄金が現れるはずだからね。だから、今すぐ、黄金が出てくるはずだね。ママが云うとおり、ぼくは頭がいいよ」
 もう片方の手で、鉄彦はベストの内側を探っていた。斜めになった鉄彦の胸から、蛇の絡んだ十字のペンダントが離れ、空中で揺れた。片手で遍の口を押さえたまま、もう片方の手でポケットを探りつつ、鉄彦は遍の目をまっすぐに見た。鉄彦の頬が紅潮している。
「だいじょうぶだよ、ママは知らないから。ママを泣かせたら死刑なんだ。ママは泣いて、自分の手首切っちゃうから、絶対に悲しませちゃいけない。あの子のことだって、ぼくは秘密にしてるんだ。云ったらママは喜ぶかもしれないけど、ぼくはママから独立してるから、自分だけの秘密も欲しいし」
 鉄彦は真剣な目で遍を見た。
「……大古屋は女系だから、本当は最初から、遍を殺さないといけなかったんだ。だけどぼくもママも、よくわかってなかったから、行彦が八十八代目だ、って勘違いしちゃってさ。八十八代目が黄金を見つけるって予言があるんだよ。遍にはこのこと教えてなかったけど。あの子が黄金を独り占めするなんて不公平だ、ってママは泣いてたよ。だからあの子が金を見つけられないよう殺してやったよ。……いろいろ間違いだったんだけど、ヘロデ王の幼児殺しみたいで、あれはあれでいいさ。月と太陽が、幼児の血に浸る。この世の中に、無駄なことなんて、一つもない」
 遍の両腕は不自然な角度で躯の下敷きになり、塚に押し付けられていた。躯の重みが掛かって動かない指もあったが、いとこがしゃべっている最中も、遍は休んでいなかった。懸命に指先を動かしていた。手首の紐をねじっているうちに、左手が下になり、手のひらが石に当たった。埋もれた古墳の入口なのか、それとも握って武器にできる石片なのか、指先で探ったが、それは動かなかった。紐はほどけそうでほどけない。口を押さえつける手のひらの温かさと、下半身を覆う生ぬるさがきもち悪くて、その体温に理性が侵食されそうになるのを必死でこらえていた。
 ベストに隠れていた鉄彦の手が、ゆっくりと外に出て来た。細く光を弾く鋭利な金属だ。
 回転するアーミーナイフの刃が、パチッ、と小さな音を立てて止まったその瞬間、遍の全ての思考が停止した。逃れようという気力が一気に萎えていく。残った感情は恐怖だけだ。
「怖がらないで。声を出さなければ刺さないよ。ちゃんと、きれいに死ねる苦しまない方法を考えてあるから、心配しないで。優しくしてあげる。遍、処女だろ? 遍んちのおばさんほど美人じゃないのが残念だけど、ぼくが妥協してやる。……遍は、自分ひとりが特別だって思ってるだろ。もうひとつ、秘密を教えてやるよ。ばかどもは知らない。ここにいるのは龍だ。おまえなんかただの女だ。……遍、結婚しろ。死ぬまでずっといっしょだ」
 鉄彦の手が、遍の口から離れた。その時、その手のひらに、自傷したような細い筋が何本もつけられ、薄赤く一つの三角形が模られているのが見えた。
 金属の堅い冷たさが遍の顎に触れ、首筋へ下がっていった。遍の目の前の景色が薄暗くなり遠のいた。貧血の前触れだ。湿った土の匂いに、ライムのコロンが混じっている。自分は今、ここでこうして死ぬのだと思った。信じがたいけれど現実だ。このまま気を失えば何も知らずに終われるかもしれない。
 ナイフの先が、ブラウスのボタンを一つずつ弾いていく。鎖骨が露出される。汗ばんだ胸の谷間に外気が触れる。レースの上を、刃先が小さな点になってぴちぴちとなでていく。いっそう目の前が暗くなる。静かに感覚が遠のいていく。遍は目を閉じた。
「おっとこの護符の紐は、切らないようにしなくちゃ。龍を呼ばれたら困る」
 ブラウスの両端が、腕の両側へするりと落ちた。そのとたん、胸を乱暴に掴み上げられた。痛みのあまり、反射的に遍は目を見開き、全身を跳ね上げていた。鉄彦の目は、とたんに虚ろになった。むきだしの刃の冷たさが、遍の頬に触れ、震えた。
「柔らかい!……」
 鉄彦の上体が、遍の胸に崩れ折れた。紐を解こうとしてねじったまま停止していた遍の手首に、二人分の重みがのしかかった。激痛に、遍は小さな悲鳴を咽で鳴らした。
 左手のひらが、石の角に押し付けられた。手のひらに焼けた熱が走った。
 それは懐かしい熱さだった。手首を引っ張る細い力が消えた。紐が解けた。けれど体重がかかっているので、腕を引き出すことができなかった。
 ナイフが、差し伸ばされた鉄彦の片手の中で、今にも遍の頬を傷つけそうな位置で震えていた。鉄彦の頭は胸に埋もれていた。胸に小さな痛みが次々に走った。そのたびに、遍の躯は、びく、びく、と律儀な反射反応を返していた。
 遍の目は遠くを見た。胸の上で動いている黒い頭の向こうに、輪になって周囲を取り巻く梢と、梢の中の青空と、立ち昇っていく一筋の雲を見た。
 痛みの余韻の中で、左手の感覚が戻ってきた。この土地の力が、体に入ってきたと遍は感じた。首の護符さえ外せば、今こそ現実に龍を呼べると信じた。腰から胸までを覆う生ぬるい人肌を、どんな生き物よりもその時、遍は嫌悪した。――殺す。殺すのは自分のほうだ。
 遍は鉄彦の隙をうかがった。胸の柔らかく敏感な肌の上に、次々と新たな痛みがつけられていく。しかしもはや恐怖はなく怒りだけだ。
「この中はどうなってるの?」
 鉄彦は柔らかな乳房に鋭く爪を立てて苛立った。ナイフが胸の方へ移る。胸が温かくなった、と思うと、細く血が伝っているのだった。遅れてこれまでとは違う、鋭く深い熱さが奥の方を刺していた。血の流れはすぐに太くなる。
 機会を伺いすぎた。もはや抵抗は手遅れになったかもしれない、と急激に痺れる痛みの中で遍は再び絶望した。遍は懸命に、体重を肩の方へかけて、躯の下敷きになっている腕を引き抜こうとした。
 ――胸にかかっている護符さえ、外せば。
 すぐ反撃に移るつもりだった。
「そこで、何をしている!」
 鋭い誰何の声が響いた。鉄彦は遍の胸を地面に押し付けたまま、全身をびくりと固まらせた。遍には、聞き覚えのある声だった。
「今すぐ、そこを降りろ! この場所から出ろ!」
 宇暁は激怒して、杖を躯の前にかざし、窪地へ駆け降りてくる。
「ちぇ」
 鉄彦はいたずらの途中で見つかったこどものような表情になり、それから少し困ったように遍を見た。
「これまでのこと、人に云ったら、殺す。何年後でも、どこまででも、追いかけていって、殺す」
 鉄彦が遍に囁いた。
「云わないと誓え。誓わなかったら、今、殺す。ぼくがどうなってもいいから本当に殺す」
 ナイフの先が、遍の耳の下に当たった。遍はいとこの目を見た。不思議なほど透明な目だった。
「わかった。云わない」
 鉄彦の躯の重みが離れた。
「ちくしょう偉そうに天狗男たちめ、いつかやっつけてやる」
 鉄彦は落ち葉を蹴散らし、走っていった。がさがさと足音が斜面を遠ざかっていった。
 遍は痺れた腕で、ゆっくりと躯を起こした。胸にまだ他人の手のひらの感触が残っていた。ナイフの傷から流れた血が腰へ伝っているが、まだ生きていた。手首だけでなく、脚や背や後頭部や、またほかのあちこちの箇所が鈍痛を発しているのが、ぼんやりと伝わってきた。
 宇暁は、遍に背を向けていた。
「早くこの場所から出なさい」
 怒りを含んだ声で云い置いて、足早に歩き去ろうとした。
「待って」
 宇暁は背を向けたまま、立ち止まった。黙っている宇暁は、怖かった。遍の声は、震えて咽を通った。
「帰り道が、わからない」
 宇暁の怒りは、膨らんだようだった。杖の根元で地面を打ち、先を傾けて方角を示した。
「あちらへ、降りていきなさい」
「待って。ひとりでは、行けない」
 ――もし、鉄彦が戻ってきたら、今度こそやられてしまう。
 さっきは夢中で、感じる暇さえなかった。今になって、先ほどの恐怖はようやく遍の躯にじわじわと伝わってきていた。立とうとするが、手も脚も痺れたようになって、ずいぶんと落ち葉の上を無駄に滑る。
 宇暁は憤然とした雰囲気で、黙って背を向けたまま、それでも待っていた。
 ずいぶんとあがいて、遍はようやく二本の脚で立つことができた。遍が寝ていたのは、塚の入口だった。地面に突き出した石の角は、入口を囲う枠の一部で、地中奥深くにつながっているようだった。入口は土で完全に塞がれていた。あたりの落ち葉は剥がれ、地面に幾筋もの引っかき傷が広がっていた。
「早くしなさい。あなたは、わかっているのか。女人禁制の場所を侵しているのだ」
 遍は、答えることができなかった。男なんて皆嫌い、と思ったとたん、涙がこぼれ落ちて、咽をふさいでしまった。
 宇暁が振り返りかけて、慌ててまた首を戻した。
「着衣の乱れを直してください。わたしはあなたを見ることができない」
 遍は目を見開いたまま、睫の先から丸い涙を弾きこぼしつつ、はだけられた胸の前を合わせた。胸には引っかき傷のようなものが縦横に赤くつき、歯型が散っていた。ボタンはなくなっていたが、皮肉にも落ち葉の間に落ちていた紐をボタンホールに引っ掛けて、なんとか体裁を整えることができた。紐は不思議なくっつきかたをする新素材だった。服についた土を、可能な限り払い落とし、両腕で胸を抱いた。
 遍が身動きしている間、宇暁はずっと背を向けていた。背を向けたまま、ゆっくりと云い始めた。
「どんな事情であれ、この場所に入って来てはいけません。あなたを置いてひとりで逃げた恋人にも、そう伝えておいてください」
 宇暁の声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。
 遍は、その誤解だけは厭だった。
「違います。あいつは……あれは……」
 ことばが詰まってしまって、出てこなかった。
 宇暁が、憤然と振り返った。さっき以上に怒った顔をしているので、遍は怯えて一歩下がった。
「何だと! 屑め!」
 宇暁がののしりのことばを吐き散らし、足で地面を踏みしめるのを、遍はあっけに取られて見つめた。驚いて涙は乾いた。
「あのまま返すのではなかった! 殴りつけて、殴りつけてもたりない!……」
 宇暁は拳を固め、空を切った。遍は、自分以上にその出来事に怒っている人がいることに、救われた気分になっていた。それと同時に、宇暁の拳を生理的に恐怖していた。
 しばらくして息を整えた宇暁は、顔を上げた。
「……警察に届けますか?」
 遍は、考えて、首を横に振った。
 宇暁は黙り込み、やがて悔しそうに云った。
「あの町会議員の息子は、以前、無免許で事故を起こしましたが、それでも免許を取得できた。バイクが最近、頻繁に山道に止まっているので、見回りを強化していたところです」
 宇暁は、痛ましそうに遍を見た。遍は宇暁をなだめようと云った。
「だいじょうぶです。まだ、ほとんど何も、なかったから」
 遍は歩き始め、自分がはだしであることに気づいた。足元を見て立ち止まった。少し離れた所に、ミュールの片方が落ちていた。遍はそちらへ歩いて行って、それを履いた。
 その間に宇暁がもう片方のミュールを探し出してくれていた。宇暁は、まるで壊れ物の靴を扱うかのように、土に汚れた小さな靴をそっと両手で抱えて戻ってくると、遍の前に膝をつき、それを地面に置いて立ち上がった。宇暁は数歩後ろに下がった。
「わたしは、女性に触れることができない」
 遍は前へ進み、ややふらつきながら、足をミュールに滑り込ませた。
「落ち葉が、……ついている」
 宇暁が目を細めて遍の髪を見た。遍は、自分の手で髪を払った。
 宇暁はさらに数歩離れてまた背を向け、先に立って歩き出した。
「ここを、降りましょう。お送りします」

前章へ← / →次章へ

この作品をはてなブックマークに追加この作品をはてなブックマークに追加


読み終えましたら、web拍手をお願いします。壁紙をプレゼントさせていただいております。

目次へ戻る