『龍愛づる姫君』 (9)

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9 遍に龍がする物語


 深夜、遍は護符を捨てた。
 寝静まった屋敷を抜け出し、坂の上で、棚田の縁を流れる溝に護符を落とした。御札は銀の水流にさらわれ、闇に向かって流れていった。
 遍は坂の上に立つ。護りの札は暗がりを遠ざかって、川へと運ばれていきつつある。
 遍は両腕を挙げ、いまだ流血している胸に盆地の風景を抱くしぐさをした。国道を走る車の音も絶えている夜半過ぎ、向かいの山腹に明かりはない。こちら側には、常夜灯が軒先にぽつぽつと光っている。
 頭の後ろ側に、亀石の存在を感じる。向こう側には、美十狛の石積がある。こちらとあちらの間を、川が横切り隔てている。
 ――何の訓練もない自分ではある。昔は美十狛に忌みごもりなどして、少女は龍とつながる感覚を得ていた。けれど大古屋は、美十狛を龍王堂に渡すことで、水の祭事を手放す意思を表明した。
 美十狛の岩の端を掴んだ左手が、まだ焼けている。岩の意味はわからない。意味がわからなくても感覚はある。左手のひらは今や、こどもの頃と同じように、生々しい血の色を三枚の鱗の形に透かしている。
 それはずっとそこにあった。どこかに消えてまた現れたわけではなく、ずっと同じ位置にあった。遍が忘れていただけだ。
 ――もし宇暁が来なかったら、美十狛で自分は殺人者になっていただろう。
 しかしその危険を回避できた後も、感情は理屈とは離れた所で煮えたぎる。
 ――いつも助けが間に合うわけではない。だから自分は龍を使役し、ひとりでやっていく。
 自分が悪人だということは、こどもの時から自覚している。
 遍の腕は空中を、緩慢な舞のように動いた。誰も見ている人はいない。見物人に向けて、おどろおどろしいパフォーマンスを見せつける必要は全くない。自分が、自分のしたいように、すればいい。
 鋭く感性を尖らせた遍の指先は、風を掴んだ。細い糸となって、闇を龍の気が流れている。土地を縦横無尽に走る血管の中と向こうに、龍がいる。
 遍は順番にそれらに触れていった。最初は自分がしていることを意識し、驚くと同時にそれを覚えておきたいと思った。しかしすぐに夢中になり、己への感覚は消えた。頭ではない所が考え、行動に指令を発していた。
 一つずつの動作が、我慢強く繰り返され、準備を組み立てていく。トンネルをこの空間に開けるための。向こうとの境に近づくための。深夜の緑椀に満ちた闇と静寂。その変質。編む。動かす。触れる。その順番に意味がある。
 緻密な展開が、しだいに大気を変えていく。
 もしこの闇をついて見ている目があったなら、少女は坂のてっぺんで静かに舞っているとだけ、見えただろう。
 どれほどの時間がたったのか遍は把握していない。盆地はいつしか、ぐるりと雲に取り巻かれていた。山並の上に龍がとぐろを描き、盆地を巻き締めているようだった。闇夜に白い輪を作った雲は、しかし、そのままではまだ雲でしかない。
 込み入った道筋は、ずいぶんと整理された。細い脈は編まれて大きな管となる。その主要な線に繰り返し触れる。遍は原始の舞踏を続けていた。遍の中が、どんどん空っぽになっていく。
 風が近づいてくる。稲穂が順に揺れる。遍は風をやりすごし、振り返って、風の裏側を見送った。何ごともなかった。
 遍はすぐに風の裏側から風を潜り抜け、再び振り返った。風の裏側の裏側は、龍の鱗の予感できらめいていた。
 ここが扉だ。
 遍は両腕を挙げた。自分の口から何かことばが出ていくのはわかったが、何と云っているのかは自分でも知らなかった。遍は命じていた。
「龍よ。来れ」
 左手から雷鳴が走った。突き上げた手が風を切り裂き、夢で何度も見たのと同じ、懐かしい青を溶かした孔が頭上に開いた。そこから銀の魚が泳ぎ出て、遍にまっすぐ向かってきた。遍は高く掲げた左手で魚を受け止めた。突然、遍の体内がいっぱいに満ちた。魚は一瞬で龍に変化し、遍は頭上に伸ばした左手に龍の胸を載せて立っていた。龍の巨躯の先は、空のはるか高みに達し、折れ曲がって盆地を一巡りし、余った二又の尾を空中に垂らしていた。
 このうえない空白から一瞬でまんまんと満ちた躯に、遍は倒れそうになりつつ、踏みこらえた。真っ白な滝が手の上にあった。一時ごとに全てが圧倒的に流れ落ち、流れ込み、同時に天上へ昇ろうとうごめいていた。左手も、子宮も、熱い命の塊と化している。突き抜けた快楽の重さが一瞬ごとに積まれ、遍はしだいに膝を折りそうになり、息を弾ませ奥歯を噛み、再び踏みこらえた。心臓がどくどく打っていた。
 遍は見上げた。
 星だけの空に、龍の銀の鱗が溶け込んでいる。遍は躯を満たす巨大な快楽の中で、手のひらに龍の鱗の尖りが突き刺さる小さな痛みを感じた。遍が体内に持っている鱗が立ち上り、龍と一体化している。頭上の鱗には長い髪を引かれている。
 直上に出現した龍のために、周囲一体も遍の躯も、深い影の下にあった。
 龍呼ぶ時、影よけの文、唱えるべし。
「影よ、去れ。去ね」
 まだくらくらとしたまま命じると、『影』はいっせいに飛び上がり、遍の躯と龍の躯を迂回したらせんを描き、どこかへ吸い込まれるように消えていった。
 龍の頭がゆらりと動き、遍の顔を赤い光が横切った。
〈しくじったな。願う前に影をよけて、何とする。影がなければ、龍の力は働かぬ。それでなくとも奴らにがんじがらめに縛られて、龍がこの場でできることは少ないというに。こうして呼び出されても、影がなければ何もできぬぞ。話くらいしかできぬ〉
 遍の顔に走った動揺を、龍は機敏に読んだ。
〈まあ、よい。それでも龍は、夢から現に現され、ここにいるのだからな。……なるほど姫は復讐を望むか。復讐は龍の望みと同じ。喜んで叶えてやれるぞ。ここでは話しかできぬが、龍の国へ来ればよい。姫が来れば、龍はひととき完全な躯になる。姫が復讐の卵を産めば、盆地を湖に戻し、下流の町までも溢れさせるなどたやすいことだ〉
「……断る。おまえに連れて行かれることは、わたしが贄になることを意味するのだろう。わたしの代わりに、いとこの鉄彦をやろう。男だから美味くはないだろうが、肉でも魂でも、好きなところを喰らえ」
 龍が再びゆらりとかしいだ。水の匂いがした。
〈ほう、姫には龍を使役する方法がわかってきたようだな。あのいとこは姫にごく近しい血の持ち主。あれがおまえであったかも知れぬくらい、二人は似ている。……だが今夜はどのみち、龍に影がない。姫との交換は、話と話だ。よいな〉
 遍は、ぐっと息を飲み込んだ。――鉄彦を贄にして、龍に黄金を出させようと思っていたのだが、『影』の災禍を恐れるあまりに、焦りすぎた。それでも情報だけでも役立つだろう。
 遍は云った。
「龍に聞きたいことがある。わたしの祖先が、龍金をどこへ隠したか、教えてほしい」
 龍は熱い息を細く吐いた。笑っているのかも知れない。
〈おまえの家内のそんなつまらぬことで、この龍を頼るのか。龍への願い事は、全て何かと交換だ。我は、与え、奪う。ではわたしがおまえに、龍金の在り処を話そう。その代わり、おまえはわたしの話を聞くのだぞ〉
 話を聞くぐらいなら、たいした負担ではない、と遍は考えた。
「わかった」
 遍は了承した。龍はちかりと笑った。
〈ではそれで、取引としよう。
 ……姫が探している龍金は、坂ノ上の屋敷内にある。金の延べ板は、じきにおまえの目の前に出てくるぞ、そう先のことではない。だがその時、おまえを愛する者が死ぬだろう。その時初めて、おまえはその者がおまえを愛していたこと、おまえがその者を愛していたことに気づくだろう。
 では、わたしの話を聞け〉
 龍は魚形に変化し、すいと泳ぎ始めた。遍も空を泳いで、その後を追った。風に乗って坂を飛び降りる。

 茂った枝は、くろぐろと夜空を覆っていた。垣間見る空に星はなく、月はなく、ただ太古の始めのままに黒かった。遍は、河原の木陰に座っている。
 銀の魚は川に飛び込み、川となった。せせらぎが語る。

 見よ。夜の川は美しい。
 人の灯は消え、蛍の明滅も途絶えた。
 この緑椀の底で、限りある命のものたちは、静かに眠りに導かれ、暗闇に身を委ねている。魚はひっそりと岩陰に身を寄せ、鳥は樹間で胸に頭を埋めている。
 水だけが青白く、生き生きと、いつまでも飛び跳ね、流れ、変わり続け、同じであることをやめない。
 あの岩の上を流れてゆく水を見よ。青紫の闇を吸い込んで、紫紺と銀の糸を交互に編んでいる。
 その岩の横を見よ。永遠に回転する渦が、黒と藍とを溶かし込み、全ての時間を同じように回している。
 十三夜の月が淵から流し出されて砕け、細かく散り散りに沈んでまた水底に集まる。
 川は巨大な一個の宝石だ。その宝石が、今、人の娘を欲している。
 柔らかな髪ときつい瞳の持ち主よ。なぜ、龍は娘を欲しがるか、とおまえは聞くか。
 己に充足し得ているなら、人の娘よ、おまえのように小さなものは、わたしの巨きなものを映す目を、掠めもしなかったろう。
 龍のことを語ろう。聞け。
 かつて龍は、完全な生き物だった。
 両性具有であり、なにも己のほかに求めるものがなかった。
 そのことをおまえたち人間は、うすうす気づいているな。おまえたちは古代の物語や絵に、龍を女体として伝えたり、男体を持つものとして描いたりしている。女体、男体、どちらも正しいのだ。かつて全ての龍は、女と男の両方であったのだから。
 おまえたちは世界のあちこちで伝えている。ミッドガルドの蛇がトールと相討ちで葬れること、摩護羅伽は仏教に帰依したと、そしてイルルヤンカシュの龍は、女神と人間の男の共謀で滅ぼされた。
 龍の力は、この国においても、手付かずで放って置かれはしなかった。二千二百年前のことだった。成体の龍として完全な力を有するようになると同時に、わたしの躯は分かたれて、わたしは男になった。
 分かたれたわたしの女の部分は、珠にされ、地に降ろされた。龍の珠は、宇宙と人の力の凝集したもの。龍の珠はマニ宝石、錬金術の元となる賢者の石、そう人間は云っている。わたしを監視する天狗どもの首領も、元来わたしの子宮だった一つを手に持っている。
 かぐや姫という名でおまえたちの伝えるものが、龍の珠の一つを求婚者に求めさせたのは知っていよう。あれは地上の宝をかき集めると、月に帰ると称して姿をくらませたらしいな。おや、何も手に入れなかったと伝承しているのか。それならそう信じていろ。
 珠はそうして奪い去られ用いられ、一方のわたしは、零落した。残された半分の男の躯ですら、人には脅威だ。
 再度、わたしは謀られた。わたしは尾を二つに割かれて中の剣を取り出され、男としての力も減じられた。
 おまえが接している今のわたしは、龍本来の半分の半分である、不完全な存在にすぎない。わたしに残されたのは、矮小化された躯、ほかのものたちに使役され、弓矢と幾たりもの謀でもって追われ隠れるだけの、それでも巨大な体躯だ。
 この盆地にわたしはしつこい追っ手から逃れて潜んだ。この盆地で水と結びつき、独自に祀られた。
 わたしは呼び出されて人の願いを叶えるようになった。想われて神は息づき、崇められて神は強くなる。わたしの尾が再び一つに閉じる日が来るだろう。龍は何度でも再生する。それがまた、わたしが呼び出しに答え、人と関る理由でもあった。
 その危険に気づく者がいた。霧田津比女と云ったかな。賢しく、美しい女だった。三度め、謀と小細工が弄され、わたしは影を盗まれるようになった。神より分かたれた影は、神に返らぬのなら、人に災禍をもたらすというに、それよりも人は、龍が怖いか。
 わたしは珠を奪われ、尾の髄を奪われ、そして二つに割かれた尾を再生させる道すらも閉じられた。
 それでも、坂ノ上の姫たちが祭事を取り持っている間は、まだよかった。姫はもてなしを知っている。わたしは贄の甘い血に酔い、束の間の柔らかな肉をむさぼって憂さを忘れた。龍は一回の交尾に百年をかける。龍の愛に姫の寿命はついてこられない。しかし美しい女たちは人生に匹敵する快楽を求め、身を捧げるものよ。
 ところが天帝につながる天狗どもがやって来て、姫が祭事を譲ってしまうと、わたしは呪文で縛られ監視され、自由に出歩くことも、人の血の熱さを感じることも、容易には叶わなくなった。
 見渡せばどこの龍も、似たような、いやもっとひどい迫害を受けていた。すぐそこの出雲で、姫を喰らうからとスサノオが誅殺した大蛇は、頭が八つあり、躯は八つの谷と八つの峰に渡り、桧や杉が生い茂っていたとおまえたちは伝えている。しかし恋した姫の前で、切り刻まれ殺され、尾の中の男を奪われるとは。そして、それほどの大きさのものを、龍とは呼ばず、蛇と呼んで、貶めるとは。
 おまえはわたしに、殺人者を手引きせずにいてくれるだろうな。
 龍の姫よ、おまえは下界において、わたしの珠の近くにあり、わたしの珠の息吹をよく受け、わたしの女そのものだ。百年愛される覚悟はよいか。
 おまえの心の形を感じていると、忘れていたわたしを思い出す。かつてあったわたしを取り戻すことができるのではないかと、慣れ親しんだ諦念から脱してゆく。
 奴らに邪魔されることは予見している。
 だから今夜、龍は姫に、露頭の道をつけるぞ。いや、龍の計画の詳細は教えぬ。姫は半ば奴らの手先だ。だが龍と姫はこうして会い、復活を準備する。
 この小さな土地に縛られた個の限定を脱ぎ捨てて、かつてのように完全な存在として、自由に天を駆けり、地を巡るものとして。
 見よ。川が流れている。明け方が近づき、霧が川面を薄く覆っている。朧にかすむ瀬は踊り、淵は息をひそめ待っている。ひとりの花嫁が来るのを。
 おまえが属するみすぼらしい現実を抜ぎ捨てよ。
 もう目覚めなくともよい。
 流れが岩を叩く音に、全ての現と夢が吸い込まれる。時間がぽつんと停まる。薄れていく星明かりも、おまえの白い魂も、何もかも川面に映っている。
 指先を伸ばし、風を掴むがいい。きらめく龍の鱗は固く、おまえの指先から甘い香りが広がって、おまえは有明の霜のかけらに包まれる。
 おまえは風の裏側にいる。森の闇の中にいる。空いちめんに広がっている。深い淵の底にいる。太陽と月と星が回り、その裏側に闇が広がる。闇に落ち、闇をのぼり、水が、おまえの汚れを洗い流していく。
 来い。わたしはおまえを百年間愛そう。来たら、返礼に卵をやろう。何でも望みを云うがいい。卵はそのものとして孵るだろう。おまえは世俗の男と、みすぼらしい現実を味わうことはない。この龍と交わって龍の卵を産め。
 来い。

 遍は意識しないまま、自ら川に身を投げていた。水の中で目を閉じた。
 何もかもが消え、同時に何もかもが自分になる。ただ空間に、遍と龍だけがいる。

 薄明は眠りの薄布と化して遍の躯に被さり、現は再び夢につながる。
 風がある、と思った。
 半睡の中で、心の障壁が消え、遠くの星が動き、地がずれる。
 風が上空でとぐろを巻き、少しずつほどけては遍の躯の上を滑る。
 遍の髪が頬から静かに離され、平らに広がる。
 久しぶりに感じる水と風の快さに、遍はあおむけに腕をのばしていた。
 遍はあおむけに川面を流されていく。
 通り過ぎていったかに思えた風は、次に腕へ戻ってきた。挙げた腕の内を降り、胸へ移る。痛みを予感し、遍は身構えた。しかし、ただきもちよく通り過ぎただけだった。
 唾棄すべきことが起きているはずだった。しかし龍の鱗の冷たさと熱は、人間の肌の生暖かさとは異質なものだ。遍は接触をここちよく受け容れた。
 風は眠りと遍の肌の間に入り込み、息を底まで吐かせる。深く吸って、その中に水の匂いを感じた。露に湿った深い森のような、暗く熱い匂い。眼を開けると、水の面を流されつつ、木陰にわだかまる闇を見た。
 鱗の端が動くと、ほのかな光が揺れる。
 龍の巻いたとぐろの中は暗く、細かな隙間には、星の明かりよりもずっと弱い、森の葉影からこぼれるような、薄い白みだけがある。その白い点がかすかに灯された空を横ぎり、遍の躯に真の闇を落として、龍がゆっくりと勃起していた。
 遍は目を閉じる。景色が瞼の裏をちらちら映る。
 ……春の雨上がりの早朝、濡れて鏡と化した路面に空と雲が映っている。浅い水面を揺らす何ものもなく、あたりはひんやりとした清冽な空気で満たされている。そのような情景。
 ……遠くで山々を囲んで、雲がたまっている。山脈に沿って低く垂れこめた帯状の雲は、ぐるりと平野を囲む、とぐろを巻いた龍になる。龍は、尾を自らの口にくわえようとして果たせない。尾が二つに割かれている。完全な円輪にはなれない。龍の悲しげな咆哮。
 雲は夕方の茜色に染まっていき、しだいに沈んだ青に変化し、やがて月が昇る。満月の下にかかる雲は、秋のすばやさで通り過ぎていく。
 ……岩陰に雪が溜まり、その対岸に、真夏の淵がある。
 同時に四季が偏在し、同時にさまざまな時間が過ぎる。
 昼であり同時に夜である、二つの光が混じり合う。
 ちらちらと下界の時は移り、空の色は、龍にも遍にも映る。
 遍と龍は空中に浮んでいる。遍の長い髪は既に鱗の間に巻き込まれ、頭は縫い留められたように動かない。腕の内側から胸に龍の躯を感じた。それが龍の尾なのか頭なのか、遍にはわからない。龍の舌先が腹を嘗めた。二つに分かれた舌の柔らかさと湿りが、遍の腰の血を静かに脈うたせる。心の芯が熱を帯びる。
 眼を瞑ると、躯の周囲にあるのは、やはり風でしかないように思われる。
 それはこの世にないのにそこにあるものの鱗で、闇の奥に眼を凝らしさえしなければ、明け方に訪れた風と思われる。それほどに静かに穏やかに、神は遍の肌を撫でていた。
 風は夏の森の湿りと熱を含んでいて、しかし少し流れるだけで、肌にふしぎな涼しさを呼び起こした。遍はその涼しさのせいで、溶ける感覚に落ち込む。撫でられる、接した面が移っていくのがもどかしくもあり、満たされるきもちでもある。
 再び景色が瞼の中を映る。
 ……遍は裸で山中の湖に浮んでいる。無風。四方で意思を持った波がちらちらと立ち上がる。ちらちらと移り、時に遍の肌の曲面に添って三角形の尖りが這い上がり嘗めていく。限りなく遠い空の下の、限りなく深い静かな湖だ。躯の下に広がる湖は、躯の上にある空と同じ深さがある。あちらとこちらの境に、ひとり浮んでいる。己の全てを水に預けて湖面に浮かんでいる。
 こどもの頃に感じた全能感が戻ってくる。
 遍が両腕を広げると、両腕に世界を掴めた。
 腕の中に世界の曲面は大魚の腹として収まり、尖った鱗が、静かに胸と腕の内側を擦っていく。
 頬がいっそう湿った柔らかい流れの下になっても、なおさら遍は、眼を開けることができなかった。
 濡れた冷たさは、森の空き地に届く月光のように睫から頬を移り、しゅう、とためいきの風を残して耳の下を突つく。埋もれた感覚が、脈のどこに隠されているか、掘り出そうとするように。
 遍の内部で、流れがしだいに沸き立ってくる。夏の大気よりも熱く、空の陽よりも煮えたものが、龍の息を移され、たぎり始める。
 何かが準備される。龍の露頭、龍の復活。
 しだいに鱗は隙なく遍の肌の上に降りてきて、どこもかしこも接し、きつく巻いてゆく。龍神に締められ喰われる、その時が来てしまった。全ての肌の表を風に焼かれる苦しみに遍はあえいだ。風の涼しさはうわべだけで、飲むほどにいっそう乾き、暑くなり、耐えがたい。熱の巣になった肌に、きし、きし、鱗の先が食い込んで、そして一斉に小さな多くの角が肌からずれ、遍は小さな声を漏らしてのけぞった。空に逆さに突き出してくる山の稜線。
 叫びたい声を咽で殺し、巨きな龍の胴が、柔肌を幾重にも巻くのにぐったりと身を任せる。脚の付け根を押さえられ、腰のくぼみから胸の膨らみのすぐ下をきつく締められ、首を、髪を、捉えられている。左手のひらに鱗の角が食い込み、牙でさらに強く押し付けられる。髪が引かれ、その一束が落ちてきてばさりとむきだしの肩を打つ。髪の一筋が濡れた唇の端に引っ掛かる。
 熱くなった快楽の分泌を脚の間に滑り込んできた鬚で探られる。動き回る透明な異物の感触に、遍は浅い息を繰り返し、それでも取れない胸苦しさに、口を半ば開き、眉を寄せる。心臓の鼓動。限定の中で渇望が沸き起こる。濡れ溶けた感触が広がり、そこをゆっくりと擦られるたび、遍の苦しみは深くなった。心の痛みに似て、しかし全く異なる類の、浅いのか深いのかよく判らない、発している所も定かでない痛みに息を乱し、その変な震えによって、どんどん哀しくなっていき、揺れうごめく光の中で、心は誰も見た事のない山の奥の湖にも劣らず澄み渡り、龍の鱗の一つ一つを、まるでたいせつな物であるかのように、透き通った面に映した。
 龍がもう少し力を込めたら、遍の骨は砕けるだろう。もどかしさと静けさは、躯の外と内とで、それぞれ堪え難い所にまで達している。全てが鋭敏になって待つ。どく、どく、心臓が大きく動いている。高まった熱い血が巡る。その脈動が躯全体を同じリズムで打たせる。その脈が蜜を押し出し、流れ出した香は低い方へと肌の上を伝っていく。
 もう少し風が強くなったら、遍の心が自ずと弾けて死ぬ。
 ひどく長い、そのもう少しの時、森の苔を煮つめたような強い匂いは、龍の息からだけでなく、龍の鱗を受け止めた遍の肌からも発している。指も肩も、意のままにできない、不思議に粘る躯で、溶けた眠りのただなかに腰を支点にぶらさがっている。
 自分がこれほどまでに満たされるほど、空っぽだったとは。遍の中に静かに世界が入ってくる。
 数百年数千年分の時間は、きらきらと輝く水晶と翡翠のように、遍の中に降り続ける。水晶の雨、影の翡翠、春の慈雨、凝縮された時。影のある雨は、遍の滑らかな肌の内部を滑り落ち、世界中に流れ落ちていく。
 遍は、目の前に垂れている龍の尾を、両手で掴んだ。その尾を小さな両手で近づけ、一つに合わせる。龍の頭が近づいてきて、遍の脚から噛んでくるくると丸め、口中の珠となし、一つの輪になった。
 ……そうした愛撫に始まる交わりは百年間続く。
 龍のとぐろの間で女は年を取り、やがて老いた肌は腐り落ち、産み落とされた卵は光りながら下界に放たれていく。龍は白骨を抱いたまま、じっと動かないでいる。……

「目覚めよ」
 杖で打たれて、遍は飛び起きた。
 同じような薄明だった。
 遍は夜露にしとどに濡れ、木立の間に座っていた。
 近くで川の流れる音がする。
 河原にいた。
 そばに立っているのは、萎びた小柄な老人だった。頭巾に隠された顔は半ば影になっていて、よく見えなかった。衣が宇暁のものよりずいぶんと立派な飾り物でごわごわと膨らみ、銀糸が光っているのはわかった。
 ――夢は現に、現は夢に。
 自然はいつも繰り返す。
「この盆地で、かようなことをして、龍王堂が気づかぬとでもお思いか。立ちなされ。帰りなされ。龍はああして娘をかどわかし、己の国へ連れて行くつもりなのじゃ。龍との取引などとんでもない。昔の姫は、龍と対等に渡り合ったという。じゃがあんたの前の数代は力がなく、あんたを知識と経験で導ける姫はおらぬ。取引をするつもりで、あんたは龍に魅入られて己の全てを捧げてしまい、帰ってこられなくなるところじゃった。しかし、あんたに寄せられた龍の精気は、全てこの呪符が、横から吸い取った」
 老人は、手元の大きな札を見せた。
「龍は非情で愚かよ。執念深くはあるが、今となっては、この程度しか使い道がない。それにしても今夜はよく精気が集まった。これだけあれば我らが目的には叶う」
 老人は護符を着物の合わせにしまった。
「あなたが、龍王堂主。宇暁……さんの先生?」
「そうじゃ」
「……ずっと、見ていたのですか?」
「さあ、立ちなされ。待っていても宇暁は来んぞ。修行の足りぬ者には到底見ていられん光景じゃった」
 遍はこの老人を、好きにはなれない気がした。
 感覚の痺れた両脚を前に投げ出して座ったまま、遍は聞いた。
「その御札を、どうするのですか? 何に使うのですか?」
 老人はあっさりと明かした。
「杖に貼り付けて使う。雷電が出るのじゃ。見世物にはせん。悪いようにはせん、心配するな。我らは神通力を獲得し、その力で衆生済度を憧憬しておる」
「……でも龍は、あなたが思うほど、愚かな生き物じゃない。きっと、龍の今の敗北は、計算されている」
 老人は、遍をまっすぐに見た。
「それが龍の姫の直観か。……だが、我々にとって大事なことは、今のこの時を切り抜ける、ということではないかな? 千年先に龍が勝とうと、今、我々が龍に勝つことのほうが、我々にとっては意味があるのではないかな? であるからして、我々は今、龍の牧人じゃ」
 老人はことばを続ける。
「護符をあっさりと捨ててしもうて。さあ、これがあんたの新しい護符じゃ。人死にを見たくなくば、護符をちゃんと持っておれ。
 あんたは今宵、自分の力で『影』をよけられた、とお思いか? 我が呪句が、横からひそかに入ったのよ。龍雲が出た時から姫の動きは監視しておった。わしらがおらぬところで、あんたは、ひとりで龍を呼んではならん」
 老人は遍を置いて行きかけ、立ち止まって、振り向いた。
「じゃが惜しいの。あんたは、自力でここまでやってきた。あの封印を自ら解いたとは、恐ろしい資質よ。訓練を積めば、自在に龍を使役させられる力の持ち主と見た。
 しかし、とうに姫の時代ではない。あんたは、なぜ坂ノ上が我らに龍を譲るに至ったか、知らぬわけではあるまいな。あんたの地所にある亀石、あれにあんたがたは、龍から出る『影』を寄せていた。坂ノ上で龍を呼び出せば、『影』は亀石に自ずと吸い寄せられるようになっておる。しかしあの亀石は、もう満杯じゃ。あれに換わる石を造る技術を古代から近世に至る間に失っていたために、あんたがたは、龍から手を引いた。
 今度あれに『影』を寄せたら、あの石は満ちすぎて割れる。割れたら、千四百年間溜められた『影』が、いっせいに溢れ出す。それほど大量の『影』は、我々の手にも余る。ひとりでは、龍をいっさい呼ばぬことじゃ」
 老人は去った。
 朝はしらじらと梢のほうから訪れる。
 青味を増した闇は、夜の深まりの一部のようでありながら、次第に色を変換する影響力を拡大し、夜を内側からすっかり喰い尽くしてしまう。しかし、朝は夜を駆逐してしまったわけではない。朝は夜の内側から出てきたものであり、明るくても夜そのものだ。蛇は抜殻を残して、何度でも繰り返し生まれ出る。
 ――現は夢に。
 遍はまだ痺れた躯で、その場に座り続けていて気づく。朝が来てもしかし朝は夜であること、目覚めてもこの一日の中に、この自分の中に、過ぎた夜が形を変えて在りつづけること。
 左手のひらを開くと、鮮やかな銀の三角形が三枚、肌に張り付いている。剥がそうとしても剥がれない。皮膚の表面に、未知の力でインプラントされたかのようだ。
 これが龍の秘密裏の計画の一端なのかはわからない。こどもの時に受け取った鱗は、今、また新たな意味を獲得し、いっそうはっきりとした形を取って、現の中にあった。
 ――自分と龍はつながれている。それを、もう否定はしない。けれど再び、龍の誘惑に負けたことも否定しない。もっと訓練を積みたい、と遍は思う。

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