『陽炎の夏 最終回』

『陽炎の夏 最終回』

著/芹沢藤尾

原稿用紙換算枚数90枚
前回までのあらすじ
 雪乃華高校野球同好会の幽霊エース、竹井直樹は汗と涙の球児像とは程遠い毎日を送っていた。なにをするにも億劫で、退屈な日々の繰り返し。
 そんな彼の日常が、名門校からの練習試合申し込みをきっかけに、徐々に変化していく。
 美術部員の後輩とのいさかい、同好会設立者の熱血野球少年の強引な勧誘、幼なじみで中学時代の恋人との過去、手の届かない存在となったかつてのライバルとの確執と対決……
 新しい出会いと腐れ縁に振り回される日々が、彼の中で自ら止めていた時間を動かし始める。
 そして同好会が正式な部に認められた四月。
 雪乃華高校野球部にとってはじめての、そして直樹にとって最後の夏が始まる。
 初戦、二回戦と勝ち進み、沸き立つ雪乃華ナイン。だがそんな彼らの次の対戦相手は、昨年秋の準優勝校、強豪・青桐高校だった。

→第1回 →第2回 →第3回 →第4回 →第5回 →第6回 →第7回

各章へのショートカット
→(1) →(2) →(3)


 昨秋の準優勝校は、やはりそれまでの対戦校とは比べるべくもない圧倒的なオーラを放っていた。
 中村は先頭バッターに二塁打を打たれ、バントで三塁に進塁を許すと、三番の犠飛であっという間に一点を失ったが、続く四番を空振りの三振に仕留めた。だが、二回、三回は無失点に抑えたものの、耐球策にでた相手にそれぞれ二十球以上の球数を放らされ、四回の守りが始まったところで、山田は直樹に登板の準備を告げた。
 青桐のナインが、中村の球威が衰えたところで大攻勢に出ることは分かりきっていたので、その前に手を打とうと考えてのことだった。だがこの場合、問題はむしろ中村が四回を投げきることが出来るかということだった。
 初回に一点を楽に取った青桐と違い、雪乃華はこの試合未だ無得点。二回に藤岡が変化球をライトに流し打ったのが唯一のヒットという状態で、そこから犠打の一つも打てていないという現状では、次の一点を取られることは、すなわち敗北に等しかった。
 中村は四回の守りも十八球を投げさせられた。それでも二十球放らずに守りが終わったのは、相手の火の出るようなライナーが、突っ立っていたセカンドのグラブに自分から飛び込んできたからだった。
 その回の攻撃をきっちり三人で切り捨てられ、五回の守りに入る直前に、山田はピッチャーの交代を審判に告げようとして、背中から中村に肩をつかまれた。
「まだ、投げられます」
「バカいうな。見るからに死にそうな顔してるじゃねぇか」
「まだ大丈夫です」
 暑さと疲労で見るからに辛そうな中村の目は、それでも死んでいなかった。
 二年生の身で、全国レベルの、それも重量打線を武器とするチームと公式戦で初めてぶつかり、すでに百に近い球数を放っている。精神的にも肉体的にも辛いはずだろうに、それを執念で抑え込んでいる後輩の気迫に、直樹は素直に感心した。
 同じような状況に追い込まれ、それでもなおこれだけのことを言える投手は、そうはいない。
「投げさせてやれよ」
「竹井!? バカ抜かすな。今の状態で中村をマウンドに送ったら火達磨にされるぞ」
「されません!」
「お前は黙ってろ!」
 山田の恫喝がベンチに響いた。何事かと守備につこうとグラウンドに向かっていた選手達が振り返り、異変を感じた審判がこちらに向かって歩いてくる。
 山田は慌てて口を押さえたが、もう後の祭りだった。
「山田。さっさと主審のところにいって、何もないって言ってこい」
「竹井」
「中村のことは、俺に任せろ。この一回だけは持つようにしてやる」
 自信たっぷりに言い切って、未だ悩んでいる様子の山田のケツをせっついた。
 山田は明らかに困惑していたが、それでもどうにか平静の仮面を取り繕って、主審のところに向かった。
「さて、中村」
 直樹は恋女房の後姿にため息を一つついて、中村に向き直った。
「正直、辛いだろ?」
「……大丈夫ですよ」
「望月にいいところ見せたいか?」
 それまで強張っていた中村の顔が、一瞬で茹蛸のように沸騰した。
「な、とっ、ばっ、いっ、そっ、もっ、だ!?」
 たぶん、何突然バカなこと言ってんですか、そもそも望月って誰ですか、と言いたかったのだろう。
「誰もクソも、マネージャーの名前じゃねぇか。もうちょっとまともなとぼけかたしろ」
「いっ、だっ、そっ!?」
「いつ、誰から、そのことを?」
 茹蛸になったまま、さっきまで疲労で死に掛けていた様子はどこへやら、勢いよく首を縦に振る後輩に、苦笑いを浮かべた。
「そんなん見てりゃわかるよ」
「そっ、まっ、み?」
 それ、まさか、他のみんなも?
「心配するな。まだ気付かれていない。……次打たれたらバラすけどな」
 中村の茹蛸の赤ら顔が、一瞬で青白く染め直される。信号機でもなかなかこうはというほどに、それは見事な変わりようだった。
「もはや野球部の紅一点となったマネージャーを取られた上、滅多打ちにされて負けたとあっては、こりゃどんなひどい目に合わされるかわからんなぁ」
「……」
「若い身空だ。命は惜しいよな」
 もはやほとんどヤクザのようなセリフを口にしながら、直樹は優しく中村の肩に手を回す。
「死にたくなけりゃ、死ぬ気で抑えな。そしたらあとは、俺が引き継いでやる。秘密と一緒にな」
「……本当ですね?」
 探るような後輩の問いに、にんまりと微笑んで直樹は頷いた。
「必ず抑えます」
 先ほどまでとはまるで違う、悲壮な決意を固めた表情で、中村は頷いた。
 直樹は審判からの詰問から開放された山田に、親指を突き立てて合図を送る。
 何があったのかは知らないが、力強い足取りで胸を張り、マウンドに向かっていく中村の姿に、山田もようやく折れたようだった。
 と、気合たっぷりの足取りでマウンドを登った後輩に直樹は一つ、訊き忘れたことがあったのを思い出した。
「お~い、中村ぁ!」
 なぜかひどく怨みのこもった視線を返されたが、かまわず直樹は訊いてみた。
「ちなみにコトはもう済ませたのか?」
 可愛い後輩はその質問には耳も貸さず、親の仇でも見るような目で山田のキャッチャーミット目掛けて投球練習を始めた。
 その回を、彼はヒット一本の三振二つで失点することなく切り抜けた。

 突然立ち直り、その後ぐったりと死んだようにベンチに戻った中村の姿を見て、いったいどんな魔法を使ったのかと問い詰める山田に、直樹は完全に無視を決め込んだ。
 ベンチでタオルを頭からかぶったまま、視線だけでこっちを射抜いてくる後輩を見ていると、どうにも我慢ができない。ひょっとして自分はSなんではなかろうかと考えて、間抜けな思いに再度苦笑した。
 試合の最中だというのに、こんな場面でリラックスしていることが、直樹自身可笑しかった。
 試合のほうは未だ一対〇で負けている状態で、残された攻撃のチャンスはすでに半分を切っていたが、それでも悲観的な気持ちにならずに済んでいた。
 青桐は打撃をウリにしたチームではあるが、伊達に昨秋準優勝したチームではない。投手陣もそこいらの名門校がはだしで逃げ出すほどの厚い壁を誇っており、雪乃華の貧弱な打線では、打ち崩すのは至難の業だ。唯一まともにヒットを打っているのは五番の藤岡だけで、彼はその抜群のセンスで青桐のエース平野の変化球を、巧みに右方向へと流し打っていた。
「多分ですけど、平野は変化球を投げる時、心持ちアウトステップになります」
 二度目のヒットを打ったあと、ダブルプレーでベンチに帰ってきた藤岡は自信なさ気にそう言った。
 山田はすぐさま打席に立っている二年生にタイムを取らせ、平野の足の位置を確認することを伝え、ヒットを打たなくてもいいから、とにかく粘るよう指示した。
 その打席で、彼は信じられないほどの集中力を発揮して七球粘ったあと、八球目でキャッチャーフライを打ち上げた。
「全部の球がアウトステップになるわけじゃないようです。でも、チェンジアップの時だけはアウトステップになるみたいです」
 それは、夏前に発行された、今年の夏の有力選手を載せた雑誌には書かれていない球種だった。
「なるほど。覚えたての変化球でコントロールに不安があるんだな。それが無意識のうちに足を開かせるんだ」
 攻撃のチャンスを四回残し、雪乃華の作戦はチェンジアップを狙った耐球作戦に決定した。
「うちのエースにしてくれたこと、百倍にして返してやろうじゃねぇか」
「ういっす!」
 真っ黒な笑顔で腕を鳴らす山田と、彼に負けない黒さで頷くナインに、まったく本当に頼りがいのある連中だと、直樹は思った。
 そこから先は、まさに消耗戦と呼ぶにふさわしい戦いだった。
 打撃能力が高くない雪乃華の下位打線は、せめてツーストライクまではバットを振らないという作戦に出ても、三人で十五球と粘れなかったが、一番打者の佐伯は八球、二番打者の内海にいたっては、一人で十球も粘り、後ろで見ていた両チームを驚かせた。二人がそれほどのバットコントロールを持っていることを、ナインの誰もが気付いていなかったのだ。
 報復の報復とばかりに、青桐ナインも直樹のスタミナを奪いにきたが、直樹はそれに対し、初球に敢えて緩いボールを多投することで相手チームの打ち気をはやし立てた。
 投手と打者の双方の忍耐力を測る持久戦となったが、先に平常心を失ったのは、意外にも青桐のほうだった。粘ることを目的とした戦いをしていたとはいえ、八回になっても未だ一得点。六回に投手を変えられてからは、六つの三振を奪われ、逆に進塁できたのが四球一つと四番の単打一つという状況が、名門校に予想以上のプレッシャーをかけていたのかもしれない。
 直樹はどんなプレッシャーの中であっても、ひたすらに河川敷で続けていた、水とギアの投球イメージを保とうとしていた。
 体全体を一つの水流のように、一体として球を投げながら、同時に腕の各関節を別個の存在として認識し、それらを組み合わせることで力を発揮する。
 全体運動の流動化と、個別運動の組み立て。それは、直樹の野球の師である従兄が教えてくれた、一つの感覚だった。
「投げきった瞬間にな、わかるんだよ。今自分の体がきれいに流れていることを。それと同時にがっちりと腕の中で歯車が噛み合って、応えるように力があふれてくるんだ」
 そう言っていた従兄も、何度もその感覚を覚えているわけではないらしい。じっくり体を調整しながら練習しているときに数度。実践の中ではそれこそ一度か二度、ある程度らしい。
 それはきっちりとした基礎固めをした投球フォームの中にあって、なお入り込むわずかな差異。それがすべてプラス方向に動いたときに発揮される、そのときの自分の最高のボール。
 ひじ関節の稼動域が広い直樹は、それを習得するために、感覚の意識をわずかに水に重くおいた。
 水とギア。未だ心底感覚として理解できたことはないが、それこそが直樹が自分のピッチングの基礎として心に置いた、一つの信念だった。
 九回を投げ終え、二死二塁のピンチを八つ目の三振で切り抜けた直樹は、マウンドを降りながら、観客席の中に黒沢夏樹の姿がないかを、その日初めて意識して探した。だが本当は、無意識のなかでずっと彼女の姿を探していたことにも気付いていた。
 雪乃華の最後の攻撃で、それまで沈黙していた打線がようやく火を噴いたのは、その直後だった。
 二番の内海が打った、なんてことのない内野ゴロを、前進していたサードが信じられないようなトンネルをしたのだ。エラーで出塁した内海を、三番の松岡が丁寧に送る。一死二塁の場面で、次のバッターは、この日ノーヒットの山田だった。
 山田はバットを万力のごとく握り締め、ゴルフのスイングを思わせる極端なアッパー気味の素振りをしながら打席に入ると、あっという間にツーナッシングに追い込まれた。だが、そのままで終わらないのが四番の四番たる所以なのか。
 彼はその後続けて襲い来る速球を、それまでのアッパースイングとはかけ離れた丁寧なバットコントロールでファールに粘り続けた。
 体勢を崩しながらも五球目の外角ストレートを流し打ち、その打球はライトのファールゾーンにあるベンチに凶悪なライナーとなって飛び込んできた。
 それを三振前の馬鹿当たりと取るか、平野のボールを捕らえてきた証明なのかと捉えるのは意見の分かれるところだろうが、青桐のバッテリーはそれを後者だと判断した。そして、それが彼らの命運を奪う結果となった。
 耐球戦で入った力みを抜こうとしたのだろう。平野はなにか変化球を投じようとし、それが運悪くすっぽ抜けた。
 真ん中高めという絶好のゾーンに何の警戒心も感じさせず入り込んできたその球は、山田の丁寧な、それでいて非常識なバットスイングの中に、力なく飲み込まれた。
 弾丸のような勢いで、自身の頭上を通り抜けたその打球の行方を見ようとせず、平野はその場に崩れ落ちた。平野だけではない。そのとき守備についていた青桐ナインのすべてが、球場に押しかけ、彼らの勝利を信じて疑わなかった両校の応援団が、ベンチにいる雪乃華野球部員と、二塁上で立ち尽くしている内海も、全員がバックスクリーンに突き刺さる、打球の行方を見守った。
 ただ一人、両腕を何度も突き出して、歓喜の悲鳴を上げる山田だけが、ゴムマリのように何度も跳ねながら一塁ベースをゆっくりと廻っていた。

 涙を浮かべる青桐と、未だ自分たちが勝ったことが信じられない雪乃華の両校が、ぞろぞろと鈍い足並みでホームの前に一列に並ぶ。
 礼をし終わった両校は握手をし、分かれた。青桐の平野はうつむき咽びながら、最後まで顔を上げることはなかった。
 彼のその姿に、しかたのないこととは思いながらも、直樹は胸が痛んだ。
 おそらくは、彼は自分などよりもはるかに強い想いで野球に打ち込んできたのであり、その想いが今日、断たれたのだということが、分かってしまったからだった。

 そんなことを思ってしまったばかりだったから、その日の夕方、美術室で中嶋と他愛もない雑談をしていた時に、俊哉が『水蓮』から電話をかけてきたのには驚いた。
 電話相手のことに気付かない中嶋が「女か?」と茶化したが、脳天に拳骨を喰らわせて黙らせた。
「高校球児がバーから電話とは穏やかじゃないな。バレたら出場停止もんだぜ」
「そんなことはどうでもいい。……いや、よくはないが、この際仕方がない。とりあえず店の前に来い。話したいことがある」
 俊哉はそれだけ告げると電話を切った。ただならぬものを感じて、中嶋が椅子から腰を浮かせた。
「心配するな。こんな時期だ。無茶はしないさ」
 中学からの知り合いである中嶋は、直樹と俊哉の確執を知って穏やかでいられないようだった。
「念のため、俺もついていく」
「大丈夫だよ。それに、それじゃ多分、あいつの用事が終わらない。人見知りするやつだからな。知らないやつがいると、緊張して言いたいことが言えなくなる」
 そういえば、去年は多分、それで殴り合いにならなかったんだろうなと、そのとき一緒にいた黒沢のことを思い返して、直樹は苦笑した。

 待ち合わせ場所である『水蓮』の前に行くと、俊哉はサングラスもかけずにマスターと並んで立っていた。甲子園のスターがこんな時間にこんな場所にいるとなったら、マスコミの格好のネタにされるだろうに、当人にそんな自覚がないのか、あるいはそうなってもマスターが事情を説明すると思っているのか、彼は十年来の友人を迎えるように、気さくな様子で手を上げた。
「気持ち悪い真似をするなよ。一杯やるために呼んだわけでもないだろ」
「当たり前だ。ついでに言えば、殴り合いをするつもりもねぇよ」
 浮かべていた気さくな笑みをさっと消して、その奥から闘犬の様な表情が覗いた。
「試合が終わったばかりだってのに、呼び出して悪かったな。明日の試合に勝つ前に、話しておきたいことがあったんだ」
「? いまさらなんだよ?」
「その前に、ちょっとキャッチボールでもしないか」
「……は?」
 わけも言わずに人を振り回し続ける昔馴染みに、直樹は本気で首をかしげた。

 俊哉につれられるままにきたのは、一年前、お互いが復帰戦として戦った、河川敷のグラウンドだった。ナイターも付いていていないグラウンドには、薄暗い外灯と、周囲の民家から漏れた灯りと、時折陸橋を通る電車の光だけがあった。
 二人がグランドの外野に立つと、俊哉が最初にボールを投げた。二人ともグローブはつけていなかったが、俊哉が持ってきたのは軟式のゴムボールのため、直樹も警戒せずに素手でそのボールを受け取る。
 練習のときのように自分の内側に意識を向けながら、薄明かりの中で陰になっている俊哉に向けてボールを返す。
 俊哉は動かずに、そのままボールを胸の前で受け取った。
 そのまましばらく、二人は特にこれといって話もせず、無言でキャッチボールを続けた。
 十分ぐらいそうしていた後、いい加減馬鹿らしくなって、直樹が言った。
「ったく、こんなことでいちいち呼び出すんじゃねぇよ」
「明日勝っちまったら、できないだろ。ベスト十六をかけて戦う両校のエースが、二人っきりで密談なんてよ」
「てめぇらが勝つことは確定済みかい?」
「俺たちが負けると思ってるのか?」
 自信満々に訊き返してくる俊哉に、それもそうだなと思いながら、なんとなく悔しくて、直樹は皮肉交じりに返した。
「千回やれば、一回くらいはまぐれで負けちまうかもしれないぜ」
「今日青桐がお前らに負けたみたいに、か?」
 若干強いボールが、顔に向かって返ってきた。
 仕返しに、少しだけ力を込めたボールを股間の辺りに返してやった。
「正直、驚いてたよ。青桐が負けるなんてな。俺たちでさえ、去年の秋には苦戦させられたのに」
「運がよかったのさ」
「ああ、運だよ。平野のバカが、最後の最後で失投なんかしなければ、俺は今頃、高笑いしながらベッドで気持ちよく眠れていたんだ」
 吐き捨てるようなセリフの後に、胸元に勢いよくボールが飛び込んできた。
 加減しろバカ、と毒づいて、ボールを返す。
「青桐と戦うことが確定して、何で高笑いで寝てられるんだよ、お前が」
「お前が俺と戦う前にくたばってくれるからさ!」
 明かりの薄いグランドの中で、声だけが返ってきた。
「高校に入って、強豪の中でもまれて、勝ってきた。チームメイトに、敵に、プレッシャーに。そして勝ち続けた。全国の強豪を相手に、唯の一つも負けることなく、完璧な成績で春のセンバツに挑んで、日本一にも輝いた。お前よりも強い投手なんか、腐るほど見てきたさ。お前よりも速いやつも、コントロールのいいやつも、度胸のあるやつも見てきた。だけどお前にだけは勝てないままだ!」
 叩きつけるような言葉が、直樹の胸を叩いた。それは橘葵が二人を繋いでいたときでさえ、彼が爆発させたことのない感情だった。
「今だってそうだ! 俺はお前が青桐に勝つなんて、欠片ほども思っちゃいなかった。いやな予感はしたが、そんなのは気のせいだって。だが勝ったのはお前らだ。千回やって一度勝てるかどうかもわからないお前らが、青桐を破っちまった。俺はまたお前と戦える。でもそれは明日の試合に勝てたらの話だ! 明日勝たなきゃ、俺はお前への挑戦権さえ手に入れることができない。春のセンバツ王者の俺たちがだ!」
 俊哉の中で押さえ込んでいた感情が爆発する。川沿いの道を歩いていた帰宅途中のサラリーマンが、何事かと目を向けたが、俊哉に睨まれると、彼はそのまま我関せずを決め込んで、そそくさと足早に去っていった。
「明日の試合、俺は何が何でも勝ってやる。何が何でも勝って、今度こそ、お前を叩き潰してやる」
 近づいてきた俊哉が、暗闇の中で直樹の胸を突いた、苦悩と怒りと混乱でごちゃ混ぜになった感情が、その拳から伝わってくる。
「貸しは返してもらうぞ。今日はそれが言いたかった」
「……つい最近まで、それでもかまわないと思っていたんだがな」
 胸の前に突き出された拳を握り、正面から、俊哉の目を見返した。
「最近、気が変わった。勝ち上がって来いよ日本一。お前を叩き潰して、借りは今度こそ真正面から踏み倒させてもらうぜ」
 掴んでいた手を振り払う。
 俊哉の横を通り過ぎて帰ろうとしたとき、闇夜に混ざって消えていく、彼の呟きを聞いた。
「俺は、お前が嫌いだ。葵のことだけじゃない。俺は、お前が大嫌いなんだよ」

 翌日、明口の一方的な試合展開は、暴力的という言葉を通り越して、いっそ清々しいものがあった。
 打っては毎回得点の五回十四点、投げては四回まで三振十の完全試合ペース。運良く二回戦を勝ち上がった万年一回戦の公立高校は、トップバッターに放たれた俊哉の百五十キロの速球をグラウンドで見た瞬間に、すでに戦意を喪失していた。
 試合前の段階で公立高校の勝算など、すでに銀河の果てで彷徨っている星屑みたいなものだったのに、いざ試合が始まれば、それはもはや宇宙の彼方にまで消し飛んでしまった。
 予選での、参考記録の完全試合などに興味があるわけでもなかろうが、明口は最後の守りでも、俊哉をマウンドに投入した。彼は最初のバッターには意外にも力を抜いて(それでも百四十キロ台は軽く出ていたはずだが)投げていたので、まだ余力は存分にある様子だった。
 公立高校のバッターが身を縮めてバッターボックスに入るのを見て、直樹はスタンドの席を立った。こんなところでいちいち俊哉の晴れ姿を見るのが馬鹿らしく思えたからだ。最前列の席でテレビカメラを持った望月と中村がなにやら試合そっちのけで語り合っていたようだが、今日は気分でなかったので茶化すのはやめておいた。
 試合の結果は球場の門をくぐるころには、高鳴った歓声が教えてくれた。

「明日の試合の相手が決まった」
 美術室で真っ白なキャンバスを前に筆をいじくっていた黒沢夏樹は、その声に無反応を決め込んでいた。半年以上顔を合わせることも避けていたので、直樹も今更ながらにバツが悪く感じていた。
「お前のこと、ヤブ医者から聞いたよ」
 彼女の華奢な肩が、小さく震えた気がした。
「そのことで、どうこう俺は言えない。力になるなんて、おこがましいことも、無関心を決め込むつもりもない。だから」
 せめて、できることがあったら、言ってくれ。そう言って、美術室を後にしようとした直樹の背に、
「先輩」
 無感情な質問が飛んできた。
「先輩は、今度はいつ、野球を辞めるんですか?」
 それは、本当は誰に対して向けられた質問だったのか。
 真っ白なキャンバスに向いたままの黒沢に、直樹は穏やかな思いで答えた。
「きっと、次の試合かな。だから、お前に見届けてもらえたら、きっと嬉しいだろうよ」
「……そうですか」

 そのときの言葉を、かすかな期待とともに思い返したのは、明口との試合でホーム前に整列し、戦意に満ちた北村俊哉の顔を見たときだった。
 今大会、初めて先発としてマウンドの土を踏んだ直樹は、これが自分の最後の試合になるという確信にも似た予感を改めて抱き、祈りにも似た思いを込めて、スタンドに一度だけ目を向けた。
 そこに探し人を見つけることなく、主審がプレイと声を上げる。
 夏の陽光が球場を埋めていた。
 明口のバッターがボックスに入り、構える。
 直樹は意識を切り替えて、山田の構えるミット目掛け、最初の一球を放った。

 球場の空気は、どこか潮騒を思わせる雰囲気に満ちていた。
 双方のスタンドにはそれぞれの学校の応援団が詰め掛け、平日でもないのに学校指定の制服を着た人間達で溢れ、彼女のように私服姿の人間はむしろ珍しい方だった。
 勝てばベスト十六が決定し、県下の強豪に名を連ねられるとあって、雪乃華の応援団にも、それまでにない数の関係者が詰め掛けていたが、相手校の応援の気合の入れようは、まるで甲子園の決勝かと思うほどの力の入れようで、夏樹ははじめて高校野球というものの人気の高さを思い知らされた。
 野球部が同好会の頃から雇われマネージャーとして野球に携わってきたが、こうしてグラウンドの外から野球を見るのは初めてだった。
 考えてみればそれもおかしな話だと、今更ながらに呆れてしまった。
 試合開始まではまだ時間があり、シートの空きはむしろ雪乃華の方が散見されたが、あえてどちらよりでもなく、黒沢夏樹はバックネット裏の中央席に腰を下ろした。
 グラウンドで戦う選手達には厳しい、夏らしい気候だった。
 白い太陽が、じりじりとグラウンドを照らしている。
 両手の中に握ったスポーツ飲料をじっと眺めていると、肩に手を置かれた。
 振り返ると、照りつける太陽を思わせる笑顔で、見覚えのある少女が立っていた。
 同い年くらいだろうか。明口の制服を着いた彼女は、ひさしぶりと気安く声を掛けてきた。
「どこかで、お会いしましたか?」
「うん。去年のイヴに。デートのお邪魔をしちゃったわ」
「………」
「怖い顔しないで。さすがに今は邪魔しないわ」
「あれはデートじゃないです」
「あいつもそう言ってたわね。ヘタレすぎて愛想も尽きた?」
「詳しいんですか? 先輩のこと」
「まあね、昔ちょっと付き合ってたし」
 多分、本当のことなのだろう。こちらを挑発するような言葉に、自然、眉根が寄ってしまう。
「球場に来るのは、はじめて?」
「ええ。先輩から来てくれと言われて」
 挑発に乗ってしまうのは悔しかったが、言葉の方が先に出てきてしまった。
 彼女は愉快そうに口元に手をやり、堪えられないように笑いを漏らした。
 子供じみた怒りがすっと引いていき、代わりに自分の態度への恥ずかしさに頬が熱くなる。
 誤魔化すように顔をグラウンドに向け、ぶっきらぼうに口を尖らせた。
「なまえ」
「え?」
「名前、教えてもらえませんか?」
 背中の少女の目が、きょとんと見開かれるのが分かった。からからと、鈴の音のような声がこぼれてきて、夏樹は頭を沈めた。
 同じ高校生のはずなのに、どうしてこうも自分は子供なのか。
「たちばな。橘葵っていうの。あなたは?」
「……黒沢夏樹です」
「よろしく黒沢さん。ねぇ、席を向こうに移さない? ここだとマウンドの連中から簡単に見つかっちゃうのよ」
「隠れてるんですか?」
「ううん。探させてやってるの。うちのヘタレが、ベンチから見守られてるより、どこかで見ていてもらうのを探すほうが力になるんだって」
 振り返る。自分とそう変わらない、子供のような、
「あなたも探させてやったら?」
 思い知らされる笑顔だった。

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