『陽炎の夏 最終回』(2)
いささか強引に夏樹を連れ出した葵は、彼女をそのまま明口のスタンドまでつれてくると、制服姿の女子生徒たちの一団からわずかに外れた席に腰掛けた。
「とりあえず、ジュースでもどう? ペットボトルでよければ」
「……いただきます」
差し出されたレモンティーのペットボトルを受け取る。視線をどこに向ければいいのかわからず、夏樹はずっとペットボトルのキャップに印字されたメーカー印を睨みつけていた。
「そんな顔しないで。中国産じゃないから」
「そういうのは気にしませんから。毒なんてそうそう入ってませんよ」
「そうそうでなくても入ってるもんじゃないわよ。そんなことより、話したいことでもあるんじゃないの?」
「……誘ってきたのは、橘さんじゃないですか」
「理由もなく、ほいほいついてきたわけじゃないでしょう?」
その言い方はどうかと思ったが、反論しようにも言葉が思い浮かばず、ペットボトルを握る手に力を込めた。
試合開始を合図するサイレンが響く。バッターボックスに明口の先頭バッターが入り、最前列に陣取った応援団が歓声を振るった。
席を立とうとする夏樹の手首を、葵が押さえて席に座らせた。
「……止めたのは橘さんですよ?」
「きたばっかりで帰ることないじゃない。試合は二時間もあるんだし、ゆっくり話しましょうよ」
「コールド負けすれば、早く終わりますよ」
「そうはならないから、時間はたっぷりあるわ」
胸がちり、と痛んだ。
自信満々に言い切る葵の目には、疑いようのない彼への信頼が感じられて、夏樹は穏やかでない思いでそれを見返した。
「橘さん、北村さんの彼女なんじゃないんですか?」
「そうよ。でもあのヘタレが野球上手いのも知ってるからね」
「あの、さっきからヘタレって」
「ああ、今マウンドに立ってるあいつよ」
言って、葵はグラウンドを指差した。
視線でその行方を追う。
二人の視線の先、雪乃華のベンチを一瞥した竹井直樹は、マウンドの上でゆっくりと腕を振り上げたところだった。
遠い昔を、彼女は思い返す。
竹井直樹は幼稚園から小学校に入ったばかりの頃、ただ本が好きなだけの小さな子供だった。なにをするにも万事遅れていて、休み時間に校庭に出ることもせずに図書館にこもっていた。勉強は人並みに出来る方だったが、かといって秀才といえるほどでもなく、クラスでもほとんど印象に残らないような子供だった。
それは彼が野球を始めるようになってからも変わることはなく、図書館でおとなしくしていた少年が、昼休みの読書の場を教室に移しただけで、一見して、彼に何かしらの才能があるようには、誰にも見えなかった。だが、そんな彼がひとたびマウンドに立つと、時として相手を手玉に取る悪魔に、時として真っ向から戦いを挑む戦士へと豹変し、他のスポーツではレギュラーを張るようなクラスの仲間達をいいように玩ぶのだ。
かといって、それで彼がスポーツに目覚めるということは決してなく、相変わらず他のスポーツをやらせれば万事に遅れた運動音痴のままだった。
サッカーをやらせればドリブルしているボールに転んだし、バスケをやらせればシュートボールはリングのはるか手前で頭をたれた。
そんな彼が、なぜ野球に関してだけは他のスポーツが得意なクラスメイト達でも及びもつかないほど豹変するのか、未だに不思議でしょうがないが、それはもう天賦の才としか表現しようのないものだった。
一方の北村俊哉は、直樹とは正反対にスポーツ万能の少年だった。
直樹が野球にだけ天才であるのだとしたら、彼は運動そのものへの天才であったといってよかった。何をやらせても人より出来たし、スポーツでも格闘技でも、彼が人に劣っているところなど、葵は一度も見た事がなかった。
自分自身の才能を自覚していたし、それを吹聴することによって降りかかるプレッシャーも乗り越えることが出来る男だった。そんな彼のことだから、野球を始めたときも、直樹に勝つことなど、そう難しく考えていなかっただろう。
だが、そうはならなかった。
白球が放たれる。
指先にかかるかすかな感触。稼動する右腕。始動から制止まで到る身体の動き。音が消えた白い世界で、自分の身体の隅々までが知覚される。
全ての意識がミットに注がれた。
自分とキャッチャーとの間に通る、透明なレールの中をボールが通っていく。そのコースを走っている限り、たとえ相手がメジャーリーガーだろうと、打たれる気はしない。
最初のバッターを三振に切り、二人目のバッターをカーブで打ち取った。
ここまでは、試合を思い通りにコントロールできていた。
コントロール無視の全力投球で意表をついた前半二回。下位打線を力技で抑え込んだ三回は、それまでの自分の投球スタイルを崩した奇襲だった。
名門・明口学園を相手に、いかに直樹といえども、試合を九回通して真っ当に勝負して勝つ自信はなかった。
最初の三回を奇襲で消化し、一試合を九回ではなく六回で乗り切ろうというさもしい作戦だったが、明らかな実力差が却ってこの作戦を容易にしていた。
明口は春に甲子園を制した、名実ともに日本一の高校だ。だが、その内実はあくまで直樹たちと同じ高校生に過ぎない。
圧倒的な実力差におぼれることもあれば、余裕から生まれた油断に足元をすくわれることもある。いつでも手が届くと思っている相手故に、手を緩めてしまうこともありえるだろう。
初球から積極的に攻めてくる相手からは、威圧よりも緩みが感じられた。
そんな相手に全力で意識を集中して、辛うじてかわしているだけの自分が情けなかった。だが、それが本来の実力差なのだ。にもかかわらず、日本一を相手にして、結果的に同点のまま三分の一を終了させた。出来すぎた結果だ。
前回の試合で戦った、平野の涙が思い出された。
あいつはきっと、俺のことをこの先一生怨んでいくに違いない。
それは直樹と平野だけに限ったことではない。敗者と勝者の間に横たわるそれは、戦いを終わらされた全ての選手達に同種の感情を抱かせる。
高校野球は美しくなどない。
なぜなら──
マウンドの土を足でならす。三人目のバッターがバットを振りながらボックスに入り、思い出したように審判に一礼した。
相手の目付きから、今までとはすでに違うことを思わされた。
──十一人か。思ったよりは誤魔化せた方かな。
さすがに日本一のクリーンナップともなると、精神的な熟練度が違う。おそらく、彼のバッティングを見た後の敵ナインはこれまでどおりとはいかなくなるだろう。
直樹は背筋を伸ばしながら、バックボードに目をやった。
赤いランプが二つ。
もう何度も見てきた光景だった。ここから取るたった一つのアウトに、どれほど苦労させられてきたことか。
深呼吸を一つ。嘆息が混じった。
相手を睨みすえ、構える。
外角すれすれに入ってきたボールは、すっと外に流れて、轟音を立てて振るわれたバットの下を潜り抜けた。
風が頬を叩いた。切り裂くようなスイングに、浮いた汗が冷たくなる。
「ストライク!」
主審がコールした。
その時、バットをベースに突き立てるように叩きつけ、自分を睨みつけてくる相手が、去年の河川敷の試合で対戦した二軍メンバーの一人だとはじめて気がついた。
そういえば、こいつは最初の打席からずいぶんと気張っていたな。
直樹はそのことを、単にホームランでも打とうとしているのだと思っていたが、実際には俊哉と同種のプライドの問題だったのだ。
「こういうヤツに遊び玉を投げるのは失礼だよな」
内角高めのコース。ボールは腕を折りたたんで流し打とうとした相手のさらに内側に抉りこんだ。
思い通りに打たれたボールがフェアラインを超えてフェンスに突き刺さる。
デッドボールまがいのボールに喰らいつこうとして、慌てて状態を崩したバッターの身体が倒れた。
ファール。カウント二-〇。
怒りに満ちた目で自分を睨みあげてくる。その感情を、直樹は冷然と受け止めた。
なぜなら──これが高校野球の本来の姿だからだ。
ここでは何も生まれない。
トーナメントという戦いを潜り抜け、生まれてくるものはたった一人の勝者と、それ以外の敗者だ。
生まれてくる勝者は次の敗者にすぎない。
敗者は敗者の屍を乗り越えて、一つ先の敗者へとなる。誰もが心の底から勝者になれるとは思い切れないまま、その覚悟を持ってさえ、新たな敗者にしかなりえない戦い。
目の前の彼らは三ヶ月前、その全てを乗り越えたのだ。
「そんな目で見るなよ。おまえらは見られる側だろうが」
自分たちは、そこまでいくことは出来ないだろう。そう思ってしまうこと自体が、すでに勝者になる資格を失っている証明みたいなものだった。
「おまえみたいなやつが、そっちには何人いるんだ?」
闘争心の表れだろう。直前の内角に臆することなく、さらに内側に立つバッターからは、逃げることを許さないという気概が見て取れた。
「心配するな。今日だけだ」
日本一のおまえ達が、俺みたいなゴロツキを相手にしなきゃならないのは。だから、もう少し愛想笑いで付き合えよ。
相手の狙いが、外角を装った内角であることはわかりきっていた。その上で、山田に出したサインに、答えたのは、相手の気概に打たれたからではなく、全力の相手を押さえ込むことで、相手にこれまでとは違うということを分からせたかった。
コースは先ほどより、横に甘く、縦に厳しく。
バットを立てるようなスイングが、救い上げるように襲い掛かった。
コースがもう少し高ければ、ボールはライトスタンドまで飛んでいったかもしれない。だが、ボールは回転を抑えて落としたのだ。当たるはずがなかった。
体を前のめりに倒しながら、バットを前に出し、ボールを辛うじてすくい上げる。
真上に飛び上がったボールの行方を見るまでもなく、それが上手くいかないことはわかっていただろう。それでもバッターはエラーを期待して、全力で一塁まで駆けていく。
直樹はその場から一歩も動かず、頭に落ちて来るボールをグラブで取った。
主審がアウトとチェンジを宣告し、マウンドの主役が交代する。
ベンチから北村俊哉が駆け寄ってきた。
掲げるグラブにボールをトスしてやり、入れ替わりでマウンドを降りようとしたところで、背中に声をかけられた。
「ようやく本腰入れてきたな。三流速球派の真似事は止めたのか?」
「一流になれるなら続けたかったけどな」
「てめぇにゃ無理だ」
「知ってるよ、このクソッタレめ。だから俺も」
そういえばと、昨日はずいぶんと憂さ晴らしで好き勝手言ってくれたものだと思い出し、もう八年も黙っていた思いを口にした。
「てめぇのことが、大嫌いなんだよ」
北村俊哉にとって、自身が天才であること、それを証明することは宿命だった。
彼は幼い頃から、スポーツは万事に優れていて、それによって集まる期待に応え続けた少年だった。
何をやらせても人並み以上に優れていたし、たいして練習することなく、身体やボールを思い通りに操ることの出来る才能が彼にはあった。同い年の子供達から向けられる羨望の眼差しに応えることは苦ではなかったし、それを達成した時の快感は何にも代えがたい喜びがあった。
その喜びが、重圧になったのは果たしていつからだったのか。
きっかけは、些細なことだった。
子供の頃の純粋な恋心。はじめて好きになった子が、野球部のエースに夢中だという話を聞いて、それを台無しにしてやりたくなった。
そんなバカげたことで始めた野球だった。
マウンドの土を踏みつける。
手の中でボールを弾ませ、深呼吸を一つ。相手にはまだフォアボールを一つ与えただけだったが、すでにランナー出塁を許してしまっているだけで、負けている気分になる。
試合結果さえよければいいのだから、と納得しようとしても、どうしてもできない子供染みた嫉妬がある。
このこだわりを、いったいいつになったら捨てることができるのか。
「決まってるよな」
この試合に勝つことだ。それこそが、何よりもこの焼きつくような思いから解放される、唯一の手段なのだ。
日本一になどなれなくてもいい。次の敗者になることが出来るなら、それ以上に、今の自分に何の価値があるというのだろう。
はじめて争った試合のことを、今でも思い出すことがある。
いや、思い出すなどという感傷的なことではない。あの日、はじめて完膚なきまでに叩きのめされた日の記憶は、今でも人生の歴史として、俊哉の中で深く刻まれているのだから。
河川敷のグランド。八年前の、今日と同じような夏だった。
五年生から入ったクラブで、すぐにエースで四番の座に着いた俊哉は、目的であった直樹との試合のマウンドに立った。
自信はあった。そもそも相手が学校では休み時間に教室にこもって本ばかり読んでいるような、運動音痴なのだ。そんなのがエースを張れるクラブなどたいしたことないと思っていたし、自分の才能への自信もあった。
負ける要素など何もなかったし、すぐにつく決着のはずだった。だが、そうはならなかった。
来るボールはことごとくバットをすり抜けていった。思い通りのコースに来たと思った次の瞬間には、ボールはバットの下をくぐって消える。かと思えば、その次のボールは、渾身のスイングのはるか上を我が物顔で通り過ぎていくのだ。
それまで自分が考えていた野球へのイメージが、ことごとく覆されていくようだった。そんなボールを投げるのは、クラブでは監督でもコーチでも出来ないことで、直樹の所属するチームが県内でダントツの強さを誇る名門だと知らされたのは、その試合で完敗し、その年最初の大会が近づいてすぐのことだった。
結局、小学校の二年間と中学の二年間を合わせた四年間、野球を始めてから今日に到るまでの八年もの間、俊哉は直樹に一度も勝つことが出来ないままだ。
剛球が空気の壁を貫いて、ど真ん中に構えたミットに飛び込んでいく。
球場全体に本物の速球派がどういうものかを思い知らせるような、自身と相手の格の違いを知らしめるような球だった。
三人を立て続けに高め速球のみで三振に切り捨て、四回の守りを早々に終わらせてしまった。
今夏ただ一人の甲子園優勝投手が魅せた、地方大会らしからぬ鬼気迫る投球に球場はざわつき、ボードで二列に並ぶ八つのゼロに、ようやく違和感を覚え始めた。
「やっとはじまった」
となりでレモンティーのペットボトルを飲みながら、それまで黙って試合を観戦していた葵が呟いた。
「はじまった?」
「試合よ。いままでどっちも狸の化かし合いみたいな真似してたのに、ようやく試合らしくなってきた」
「いま〇対〇ですけど、どっちに有利になりますか?」
「有利不利に動くなら、実力差でどうあってもこっちよ。そちらさんとは格が違うもの」
唇を噛んで抗議しつつも、やはり戦力差への自覚はあるのだろう。夏樹は黙って先を待った。
「あのヘタレは、全ての回を全力で勝負しようとしたら、途中どこかでガス欠になると思ったのよ。実際、あいつにとって一番怖いのは肘に負担がかかる長期戦だからね。だから、前半三回をさっさと終わらせるような投げ方をしたの」
「……どうやって?」
「うちが大好きな『そこそこ速い三流速球派』をやるのよ。コントロールが甘くて、普通よりもそこそこ速い程度の、田舎で小山の大将やってそうなピッチャー。うちの連中は、そういうのが大好物だから」
好相性のピッチャーだから、簡単に手を出す。コントロールもそこそこいいから、狙い玉も絞りやすい。だから、お望みのコースにボールがきたら、我慢が効かなくなってしまう。
実際には、それはコントロールされた変化球で、要所で芯を外されているのだから、アウトを取られるのは当然だ。
「耐球策に出られると、まずいからね。さっさと打ってもらわないと困るんだよ。あのヘタレは」
「橘さん」
「ん? なに?」
「その、先輩のこと、ヘタレって言うの、止めてくれませんか」
「名前で呼んでほしいの?」
「………」
「睨まないでよ。いいじゃない。ちょっとからかうくらい」
「私はどっちもよくないです」
ムキになって突っかかってくる態度が面白くて、つい苦笑してしまう。
からかわれたと思い夏樹はさらに顔を険しくした。
「馬鹿にしてませんか?」
「ううん? かわいいからからかいたくなるだけ」
やはり馬鹿にされているのかと思うような返され方だが、夏樹はもう気にするのは止めることにした。どうも年上とは相性が悪いようだ。
「それじゃあ、今のところは先輩の思い通りに試合が展開されていると言うことですか?」
「そうね。まぁ、だから実際に耐球策に出られたらまずいんだけど、こっちはそれは出来ないし」
「できない? どうしてですか?」
「ここが今何回戦だと思う? 耐球策に出ると、多少の悪球にも手を出さなきゃならなくなるのよ。でも、そうするとせっかくのバッティングフォームが崩れかねない。こんな大会の序盤で、そんな目先の勝利を優先したりしないわ」
もちろん、このまま打ちあぐねる展開が終盤まで続くようなら話は別だろうが、そんなことはわざわざ言わなければならない道理もない。それに、夏樹は彼女の言葉をそのまま素直に受け入れているようだ。
──高校野球は、美しくなんかない。
かつて好きになった男と、今好きでいる男の言った言葉。お互いを嫌いだといがみ合っているはずの彼らは、ひょっとしたら、根底で似ているのではないかと、最近、葵はよく思うようになった。
昔は、対照的なあり方が不仲の原因だと思っていたが、実は彼らの間にあったのは、同族嫌悪なのではないだろうか?
竹井直樹がピッチャーとしてしか自身のプライドを保てなかったのと同じように、北村俊哉もまた、天才としての自分を証明し続けることによってしか、在り方を証明できなかったのではなかったのか。
──野球なんか出来なくていい。
かつて、二人はそれぞれの時期に、その言葉を口にした。
一人は投手というポジションへのこだわりから、もう一人は何でも出来るという強い自尊心から。
だとするなら彼が、北村俊哉が竹井直樹に勝てなかったのは、自らの場所への想いの強さから故だったのか。
北村俊哉にとって、自分がピッチャーであるということは、とても重要なものだったに違いない。だが、
竹井直樹にとっては、それこそが彼の全てだったのだ。
「あたしの隙間なんて、あるはずなかったのか」
「え?」
「あなたは頑張りなさいよ、って話」
「……?」
夏樹は言葉の真意を掴みかねて首を傾げる。
葵はそれ以上話すことはないとでも言うように、視線をグラウンドにもどした。
試合はまだ、中盤に差し掛かったばかりだった。
四回の裏の攻防は二つの三振、一つの内野フライと、あっけなく終了し、五回の攻防も俊哉はフォアボールを、直樹は明口に二つのヒットを許したものの、互いに無失点に抑え、辛うじて〇対〇を維持。
徐々に均衡は崩れ始めていたが、両校ともに決定打をもてないまま、試合はいよいよ後半戦に差し掛かった。
そして、誰もが明口へと流れが傾いてきたことを感じ始めた六回の裏、それは起こった。
ワンアウトランナーなしから、雪乃華の先頭打者、中村がフォアボールで出塁。続く二番の藤岡にまさかのデッドボール。
これで一死一、二塁。そして三番、前の青桐戦でさよならホームランを打った山田がバッターボックスに入った。
選択肢としては、ここで山田を歩かせて一死満塁にするという手段もあるはずだった。今日の試合で山田が三番に座っているのは、打順を少しでも多く回すための作戦であり、四番打者は彼より格下であることが明らかだったからだ。
だが、日本一のプライドがそれを許さない。それ以前に、そもそも逃げるという選択肢など浮かばなかったのかもしれないが。
球場は確信に満ちた思いで対決を見守る。
そして投げられた初球。高めに浮いた速球に、山田の豪打が火を噴いた。
打球は内野の頭を越えて深い守備をしていた外野の前に落ち、二塁ランナーの中村は迷わず三塁を廻る。だが、ライトはすでに返球体勢に入っていた。
送球が一直線にキャッチャーへと返ってくる。
ワンバウンドで返球はミットに収まった。
ランナーの中村はまだホームベースの手前だった。キャッチャーは脇を締めて重心を落とす。誰もが本塁死を覚悟した。しかし、中村は前進を止めなかった。
重心を落とし、ミットの下にもぐりこむように膝を沈め、肩を入れる。その後ろでは、藤岡が迷いなく駆けてくる。
双方のスタンドが総立ちした。中村の狙いは明らかだった。だが、彼は本来ピッチャーであり、雪乃華投手陣の台所事情を考えた場合、その作戦は絶対にありえないはずだった。だが、アウトが確実視されている本塁に躊躇なく突進する中村と、その後ろから追走する藤岡という状況からは、他の作戦は考えられなかった。
全力疾走する中村が、肩からキャッチャーに突進する。
まるで球場が爆発したかのような歓声が響いた。
怒号の渦がグランドで巻き起こり、そのなかで、巨漢の明口のキャッチャーの身体が浮いた。転がりながら本塁ベースを駆け抜ける中村。だが、体勢を崩しながらも意地の踏ん張りをみせるキャッチャーは、片足で全体重を支えていた。
藤岡は迷わなかった。
浮いた身体。空いた片足。そこに、低空を這うようなスライディングで飛びこむ。指先が、ホームベースに触れた。
審判の両腕が、大きく横に開かれる。
カバーに入っていた俊哉がキャッチャーからボールを奪うように掴み取り、抜け目なく三塁へ送球。二塁を廻ろうとしていた山田の足を止めた。
六回裏、ついに均衡が破られた。
先取点は、雪乃華。
「ふぅん。ずいぶん頑張るじゃない」
絶望感に打ちひしがれるスタンドの中で、相変わらず落ち着いている様子で、葵はペットボトルに口をつけた。
「余裕ですけど、ここにきて先取点を奪われたのは痛いんじゃないですか?」
「痛いっちゃ痛いけど、それはそっちも同じでしょ? 本塁突入した二年の子、肩抑えてるわよ」
葵が指差した先では、藤岡に肩を抱かれてベンチに引き上げていく、中村の姿があった。
「中村くん……」
「控えのピッチャーがいないくせに、あんな無茶するなんて。分からなくもないけどね」
たしかに、中村の突進がなければ、いくら藤岡の芸術的スライディングをもってしても得点にはならなかっただろう。だが、その代償としてこれはどれほどの対価となるのか。
「大丈夫ですよ」
不安におびえる内心を押し隠すように、夏樹は呟いた。
「先輩なら、大丈夫です」
「奇遇ね。わたしもそう思ってるのよ」
「……え?」
「俊哉なら、これぐらいの不安、すぐに打ち消してくれるはずだって」
その時、夏樹ははじめてペットボトルを握る葵の手が震えているのに気がついた。
彼女も不安なのだ。ただ、恋人への信頼感がそれを押さえ込んでいる。
なら自分も信じよう。
覚悟を決めるように深呼吸をして、マウンドで肩を廻す北村俊哉を睨みつけた。
その効果はまったくなく、俊哉は最後の打者を三球でさっさと切って捨てたが、夏樹にそれまでと違う覚悟で試合を追おうと決めさせるのに十分なものだった。
席を立つ。となりの葵が訝しげな目を向けてきた。
「どうしたの?」
「向こうで応援します。わたし、こう見えて雪乃華のマネージャーですから」
「そう」
口笛でも吹きそうな満面の笑みで頷かれた。
「なら、もう帰りなさい。あなたの居場所は決まったんでしょう」
「はい!」
言って、夏樹は通路の階段を駆け上がる。ここから雪乃華の応援席に移るには、一度球場を出て外を廻るしかない。
人波を掻き分けて階段を下りようと、入り口に差し掛かったところで、背中に声を掛けられた。
「黒沢さ~ん。あなた私がまだヘタレに惚れてんじゃないかとか心配してるかもしれないけど~! 私今はもう俊哉に夢中であんなヘタレどうでもいいから~! あなたも頑張りなさいね~!」
顔が爆発したかと思った。
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