『陽炎の夏 最終回』(3)

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「いい話と悪い話がある。どっちから聞きたい?」
 投球練習を終えてマウンドに上がってきた山田は、まるでこの世の全ての苦悩を貼り付けたような顔をしていた。
「……いい話から頼む」
「信じられない話だが、あと三回をゼロに抑えれば、俺たちは日本一の高校に勝利することが出来る」
「そりゃいい話だ。……わざわざありがとよ。悪い話はなんだ?」
「さっきの本塁突入で、中村が肩を痛めた。ファーストは岡田と交代だ」
 つまり、控えのピッチャーはもういないということだろうか。
「なるほど。それもすばらしい話だな。クソッタレ」
「頑張れるか?」
「頑張らなきゃ、話にならんだろ。なんとかするさ」
「肘、痛んでるんじゃないのか?」
「ああ、そりゃもう大丈夫だ」
 ひらひらと手を振って、心配するなとかえしてやる。
 それで安心できるような単純な男でもないだろうが、これ以上どうしようもないベンチの事情があってか、苦しそうな顔で頭を下げてきた。
「やめろよ。試合で負けても、俺は頭を下げてやらんぞ」
「そんなことしなくていいんだ。俺は、本当に」
「気色悪い。それ以上言われると、歯も球も浮いちまうぞ」
 強引に話を打ち切って、直樹は山田のケツを蹴っ飛ばしてマウンドから落とした。
 山田はまだ何かを言いたそうだったが、それを飲み込んでとぼとぼと戻っていった。
 山田の心配は、半分当たっていた。だが、それは最初から覚悟していたことだ。
 違和感は最初からあった。序盤、相手の目を欺く為に多少無茶な投球をしたのがきっかけになったのだろう。
 五回の守りを切り抜けたときには、すでに腕の中で、何かが張って割れるような音がしていたし、六回を切り抜けたときには、すでに痛みが腕を駆け上がって脳髄にまで到っていた。らしくもなくコントロールが乱れてフォアボールを出してしまったが、〇点に抑えられたのは僥倖だった。
 あと三回。もう後ろがいないのだから、頑張れるかどうかは、この際問題ではない。やるしかないのだ。
 それに、肘の痛みが大丈夫だというのは、まんざら嘘でもなかった。
 もう感覚自体が消えうせているのだから、痛みが残っているなどという贅沢なことは、言えるはずもなかった。

 火の出るような当たりが、頭上を越えてセンター前に突き刺さる。
 前進守備をしていたセンターが前のめりになりながらもワンバウンドで捕球してくれたおかげで、ランナーは一塁で足を止めた。
 甘いコースではなかったのに、力で持っていかれた。
 右腕がゴムのようだった。神経もなにも通っていない絶縁体の塊が肩から垂れ下がっている。
 指先の細かい操作が出来ない。腕に頼って投げていてはどうにもならないと悟り、全身の運動にさらに意識を沈めていく。
 外角低目をついたはずのボールが、真ん中高めに浮いた。絶好球のボール。
 ホームランにならなかったのは、バントに構えていたバッターが、警戒してバットを引いてくれたからに他ならない。
「……情けねぇ」
 大丈夫だと大口叩いておきながら、早々にこのザマだ。いったいなにがどう大丈夫だというのか。
 こんなピンチは慣れっこのはずだった。だが、意識を内側に沈めることも出来なかった。もはやどうしようもない。
 打つ手がない。
 もはや打たれる覚悟でデタラメなボールを投げつけてやろうかと、山田のミットを睨みつけ、
 瞬間、意識の全てが瓦解した。
 蒼穹が鉛色に染まり、視界の全てが灰色のフィルターにかけられる。
 息を呑む。耳朶に、従兄の言葉がよみがえった。
 ──ど真ん中向かって投げてみろ。
 思い出すのは、十年前の冬の一幕。
 ──何も考えなくていいさ。気持ちだけぶつけてこい。
 朦朧とした意識が、真夏の陽炎の奥、ゆらいだ白昼夢を見せられる。
 グラウンドが消えた。
 観客が消える。
 雪で覆われた田園。
 コンクリートの道路。
 ミットを構えた、自分に野球を教えてくれた、従兄の姿。
 初めての投球を思い出す。
 記憶の中に、いつかブラウン管の中に見た、ピッチャーの姿を思い描きながら……

 白球が放たれる。
 空気を切り裂いて抉りこんだ内角から、シュートボールはさらにその内側に切り込んだ。
 バットの根元に食いついたボールが頭上を越え、ショートの手前にバウンドする。
 6―4―3のダブルプレー。
 球場がざわついていた。その喧騒も、夏の陽光も、次の打席に入った打者の姿さえも、直樹の意識の外だった。
 意識が自分の中に潜っていく。遠い昔に思い描き、そして体現してきた理想のフォームを追求する。
 初球のストレートを見送られ、二球目の内角をファールにされた。
 三球目の外角はファールに粘られ、四球目のシンカーは再び見送られ、ボール。
 五球目はポールを切ってスタンドに飛び込み、六球目は真後ろのフェンスに突き刺さる。
 感覚はほとんどないままだった。
 グチグチと痛みを訴える、軟弱な肘を無視した。
 疲労でへばりそうになる身体を叱咤した。
 震える指先に檄を飛ばし、上がらない肩を引きずって廻した。
 全ての意識がミットに向かい、迎えた七球目。

 ──何も考えなくていい。ただ、気持ちを乗せて。

 ど真ん中に、素直に入っていったストレートが、危険な音を立てて打ち返される。
 自分に向かって一直線に襲い来るそれは、直樹はとっさに出した左のミットの中に飛び込んできた。

 黒沢夏樹が雪乃華にスタンドに駆けつけたとき、バックボードに刻まれた数字は、先ほどより〇を一つ足した状態だった。
 スタンドは彼女の想像以上のどよめきに包まれている。だがその中には、決して純粋な喜びだけではないことを読み取ってしまった。
 彼らの中には雪乃華の目前の勝利に悦ぶものと、地元民として、日本一の高校がこんなところで姿を消していいのかという、二つの複雑な感情に板ばさみにあっているのだ。
 そんなことは知ったことではない。
 夏樹はバックボードに改めて目をやった。
 黄色のランプが二つ。緑が一つ。赤いランプは、まだ点灯していなかった。
 全速力で駆けつけた甲斐があった。膝に手をついて、乱れる息をなんとか整えようとする。
 視線をグラウンドに向ければ、竹井直樹は先ほどよりも、いっそう深く帽子をかぶりなおしているところだった。
 ランナーはいない。直樹はバッターに向き合い、構えた。
 高めに浮いた球がいく。緑のランプがさらに一つ点灯。
 さらに続けざま、速いテンポでボールが投げ込まれた。
 かん高い金属音。回転がかかったボールが、フェンスを乗り越えて夏樹目掛けて飛んできた。
「……ふぇ!?」
 とっさに身を翻し、脳天目掛けて落ちてきたボールを避ける。
 跳ね上がったボールが昇降口に飛び込み、階段を飛び越えて通路に落ちた。その跳ね返り方を見るに、あやうくたんこぶではすまない怪我をするところだった。
 安堵のため息をつく。
 バックボードに点灯するライトに変化はない。
 マウンドの直樹は、審判から受け取った新しいボールを指に馴染ませていた。こっちのことなど、まるで気付いていない風だ。
 それが少しだけ残念で、胸のうちで少しだけ悪態をついた。
 ファールを打たれたばかりの直樹が、次の瞬間見違えるような快速球で三振を取ったのがいっそう腹立たしくさせた。
 それでも、マウンドで嬉しそうにガッツポーズをする彼を見ていると、やはり自分も嬉しい気持ちになってしまう。
 黄色と緑のランプが消え、赤いランプが一つ点灯した。
 試合はついに、終盤最初の一歩を踏み出した。

 攻守が入れ替わり、ゆっくりとした足取りでマウンドにあがる北村俊哉の前に、バックボードに刻まれた数字が、非情な現実を突きつけてくる。
 八回裏。最後になるかもしれないマウンドに立ちながら、北村俊哉は驚くほど冷静な気持ちでそれを見上げている自分に気付いた。
 これと同じ光景を、今まで何度も見てきた。
 竹井直樹と対戦した時、自分はいつだってこんな立場だった。
 それでも、これまでと違う気持ちでそれを見上げることが出来ている自分がいる。それがここに来るまでに潜り抜けてきた修羅場のためか、今までにない予感が自分を安心させているのかは分からなかった。
 あの頃。自分は独りでなんだって出来るつもりでいた。やることなすことが思い通りに出来たし、自分よりずっと長くそのスポーツをやっている者に対しても、決して臆することなどなかった。
 自分に与えられた才能に絶対の自信を持っていたし、それに付随する周囲の期待に応えることに、快感さえ覚えていた。
 竹井直樹は、そんな怖いもの知らずだった自分を、はじめてぶち壊した存在だった。
 小さい頃のあいつは、万事に劣っていて、ただ教室の隅で一人で本を読んでいるような、どこにでもいるさえないヤツだった。
 それなのに、あいつはマウンドに登った瞬間、なぜか別人に変身してしまうのだ。
 大胆にストレートをど真ん中にぶち込んできたかと思えば、繊細に変化球をコーナーに決めてくる。小学校の頃は変化球が認められていなかったから、ほとんど目立たなかった自分達の差は、中学になると、所属の学校の地力の違いもあって、あっさりと露見した。
 変化球もコントロールも、投球術でも俊哉は直樹に遠く及ばなかった。だから、唯一のアドバンテージである速球を必死になって磨いたのだ。
 直樹が俊哉の速球に嫉妬の念を送っていたように、俊哉もまた、直樹のピッチャーとしての完成度の高さに、羨望の眼差しを向けていた。
 そんなことはお互いに思いもよらないことだったが、結局のところ、彼らはお互いに分かり合っていたのだろう。だからこそ、決して相容れることが出来ないのだ。
 今だって、それは変わっていない。これから先も、彼は直樹を正面から認めることはないだろう。
 だけど、今の自分は、もうあの頃までの自分じゃない。
 一本指を突き上げ、仲間達と声を出す。
 まだ試合は途中だ。しかも負けている。それでも、どうしても感傷があった。
 ここに来るまでの、二年半という月日を思い返す。
 早朝のトレーニング。球が見えなくなる日没まで続けられた練習。夜の体育館でのマシーン打ち。
 日本中のどの学校にもひけをとらない練習をしてきた自負がある。それこそが日本一になったプレッシャーに負けない、明口ナインの力の源。自信と誇りだった。
 そしてここに今立っている自分が、決して一人の力によるものではないことを、今の俊哉は知っている。
 足を痛めていた時期。特待生で入りながら野球をしていない自分に、学校中が向けてきた憐憫と嘲りの視線。
 耐え切れずに野球を投げ出した。もうどうでもいいとヤケにもなった。そうなっても、自分を信じてくれた橘葵と、遠くから見守ってくれていた、今のチームメイトたちに、言葉では言い表せない感謝の気持ちがあった。
 彼らの期待に応えたい。かつての自分を乗り越える為に。そして……
 そして、自分を立ち直らせる最大のきっかけを与えてくれた、竹井直樹。
 思えば、自分は野球を始めたときから、これ以上ないライバルに恵まれていたのかもしれない。

 放たれたボールは、思い通りのコースをなぞり、キャッチャーの構えたミットの中に飛び込んだ。
 彼がいなければ、今これほどの制球力を手に入れられるほど、練習に腐心できただろうか。自分は確かに、竹井直樹の幻影に怯えてきた。だが、それが今の自分をこの高みに、慢心することなく引き上げてくれたものであることも疑っていなかった。
 その恐怖も今日超える。
 立て続けに二球。渾身のストレートを投げ込んだ。
 審判がアウトを宣告し、バッターがボックスから姿を消す。
 続く二人目のバッターをカーブで内野ゴロに打ち取り、三人目をストレートの三球で切り捨てた。
 その間、万が一にも打球を逃すまいと、かけらも気を緩めようとしないナインの気持ちが背中に伝わってきた。
 ──高校野球は、美しくなんかない。
 かつて橘葵に言ったその言葉を、取り下げるつもりはない。ここには確かに、美しいだけでは片付けられない出来事もある。試合に出る為に仲間達を蹴落とし、試合に勝つために相手校を蹴散らし、そのたびに流し流された嗚咽を、ただ青春の輝きだと美化することは出来ない。
 だがそれでも。
 マウンドを駆け下りる。
 その背を叩く仲間達の手が、かけられる声が、自分に諦めるなと言っていた。
 スタンドに詰め掛けた、関係者やファンの声援が、自分達を勇気付けてくれた。
 俺達は負けない。
 俊哉の胸の中で、その予感が今、確信へと変わった。
 言葉を取り下げるつもりはない。だがそれでも、
 ──ここはやはり、何よりも代えがたい。

 竹井直樹は、試合前になんとなく覚えていた予感を、いまや確信として抱いていた。
 腕によみがえる、鋭い痛み。右腕の先から昇ったそれは、肘、肩を伝って脳髄にまで響いてくる。
 黒板を引っかくような音が頭蓋骨の中でこだましていた。
 それでも、まだ降りるわけにはいかなかった。
 バッターボックスには、北村俊哉がいる。これが自分達の八年間に終止符を打つ打席なのだ。
 ならば、最後くらい、背中を見せずに向き合わなければならないだろう。
 彼が勝ちたいと手を伸ばし追い続け、その実逃げ続けてきただけの背中を、今こそ翻さなければならない。
 それに、まだ自分は見せきっていない。
 叶えたい約束があった。ここに来る前、ほんの先日交わしたばかりの誓いが。
 黒沢夏樹がこの球場に来ていることに、直樹は気付いていた。
 先ほどのファールボールの行方を追ったとき。
 立ったまま試合を見届けている黒沢夏樹が目に入った。
 ほんの偶然だった。だけど一瞬で彼女だと分かった。
 その瞬間、せっかく沈み込めていた意識が一瞬でわきあがったことに、我ながらゲンキンだと笑いが漏れた。
 本当、おかしな話だ。
 野球の最中に、ほかの事を考えたことなどなかったのに。
 帽子を目深にかぶり直し、指先でつばを叩いた。
 意識を中に沈めていく。だが、納まらない。
 この一年の記憶が、溢れ出してきて止まらなかった。
 きっと、この打席が最後だろう。投げられるか、そうでないかの問題ではなく、この打席が過ぎたら、もう今までの自分ではいられまい。
 アウト二つ。一塁のランナーは無視することに決めていた。牽制球を投げる余裕もない。
 だから、見るのはただ目の前だけ。
 パンパンに膨れた意識を、何とか中に沈めこむ。
 背筋を伸ばし、相手に向けて構えた直樹の脳裏に、従兄の声がそっとささやいた。
 ──なぁ、直樹。野球、楽しかっただろ?
 直樹はその問いに、心の中でこう答えてから、気持ちよく右腕を振りぬいた。
「悪くなかったよ。アニキ」
 澄んだ音が響く。真夏の蒼穹に、打ち上げられた白球が吸い込まれた。
 すべての歓声が止み、その思いが、気持ちが、すべてその存在に集められた。
 沈み込んでいた意識が膨れ上がる。
 マウンドに立ち尽くしたままの直樹は、静かな気持ちでバックボードに振り返った。
 視界の中に色が帰り、陽炎の揺らめきの奥で、十年前の冬が射光に消し飛ばされる。
 逆光の中に消えていくボールに、そっと目を閉じた。
 心の中で、何かがはがれていくのを感じながら、直樹はその行方を歓声の中に聞いていた。

 何もかもが許されていくような、そんな空の色だった。
 人気のない学校の屋上から見上げる空は底抜けの蒼に染まっていて、それは海から運ばれてくるかわいた潮騒もあいまって、どうしようもなく胸のすく思いにかられる。
 まったくいい加減な季節だと、直樹は苦笑した。
 ワイシャツの襟元で顔を仰ぎながら、ゆっくりと空の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
 夏休みに入った学校には人の気配は感じられず、無人のグラウンドでは風に吹かれたかすかな砂塵が舞った。
 降り注ぐ陽光に目を細め、耳元に置いた携帯電話の雑音に耳を澄ます。
 いったいどれほど眠っていたのか、それを確認するのは携帯のワンセグを終わらせれば済むはずだったが、そうする気にはならず、ひとつ大きく伸びをして、その場で半身を起こした。
 屋上の扉が開く音がして、振り返る。
 私服姿の山田が、ぷらぷらと携帯電話のアンテナの先を摘まんでいた。
「今八回が終わったところで、三対一だ」
 その数字の意味は聞き返すまでもなかった。
 今頃野球部の部室には、一人で試合の結果を見ることが出来なかった臆病者たちで溢れていることだろう。
「おまえまで来てるとは、思わなかったな」
 携帯電話を拾い上げながら、立ち上がる。山田はつまらなそうに鼻を鳴らして、自分の携帯電話をポケットにしまいこんだ。
「そういうおまえだって。わざわざこんなところにきてるんじゃねぇよ」
「時間を潰してただけだよ」
「ははぁん。待ちぼうけくらったのか。それで、一人でライバルの晴れ姿を見る勇気もなく、携帯をラジオ代わりにして試合を聞いていたと」
「うるせぇよ。いちいち全部当てるんじゃねぇ」
「じゃ、そろそろ行ってもいいんじゃないか? さっきそこで、黒沢さんと入れ違ったぞ」
「……なに?」
 睨む視線がどうしても厳しくなる。山田はもう、にやけるのを我慢することが出来ないといった感じで、口の端を震わせている。
「さっさと行ってこいよ、色男。デートの約束があるんだろ」
「そんなんじゃなぇよ。これのリハビリに病院いくだけだ」
 唇を尖らせて、肘を山田の鼻先に突きつける。
 山田はにやけ顔をそのままに、口の端をもう一度つり上げた。
「まだ続けるのか?」
「さぁ……?」
 それは、直樹自身にも分からない答えだったに違いない。だが、山田はそれ以上の答えを追及しなかった。
 彼は、それでもいいさと、呟いて直樹の背中をぽんと叩いた。
 それで話はお終いだった。
 塩の匂いのする風が吹き抜ける。直樹は襟元を正した。深呼吸をひとつ。
 いまだ気持ちの悪いにやけ面をしている山田を背に、直樹は屋上を後にした。
 ふと、一年前の今の季節を思い出す。
 あの頃よりも重くなった胸の内が、今は妙に心地よかった。
 投手でない野球に手を出すのもいいかもしれないと、そんなことを思わず考えてしまうほどに。

 あの試合の結末を、彼女は今でも夢に見ることがある。
 蒼穹に高く飛び上がった一つのボール。
 何千人もの人間の想いが、そんなちっぽけなものに宿ることを不思議に思いながら、夏樹は歓声と悲鳴の入り混じる、あの独特の高揚感を思い返した。
 バックボードの向こうに消えた、人々の想い。
 全てを出し尽くし、バックボードを見上げていた彼の背中を眺め、夏樹はなぜか、彼が笑っているような気がした。
 球場の誰もが気付かなかった。きっとグラウンドで一緒に戦っていた選手達でさえ、気付かなかったに違いない。だが、その笑みを感じた瞬間、彼女は自分の中で、それまでの心にあったわだかまりが爆発したような衝撃を覚え、そこに新しく温かな感情が流れてくるのを感じたのだった。
 机の上に置かれた携帯電話を覗き見る。試合は決着をみせた。マウンドで高々と両腕を掲げているのは、もちろん北村俊哉だ。
 それを見る目に、多少の妬みが混じるのは仕方がない。だがそれ以上に誇らしい思いがあるのも事実だった。
 彼がこの日本一の投手にライバルと認められ、そしてそれに相応しい試合を見せた事。そして、彼がそれを自分に見てほしいと言ってくれたことが、一綴りの出来事として思い出された。
 ──お前に見届けてもらえたら、
 あの時の彼の言葉が、胸によみがえる。
 彼はいったい、どういう気持ちでそれを言ってくれたのか。
 都合のいい考えが浮かんでしまい、頬が熱くなった。
 紛らわすように鉛筆を取る。描けないことはわかっていた。それでも、手が自然に伸びただけでも、ずいぶんよくなった。
 大好きだった祖父との絆を、進学の為の道具に使ったことが、どこかで後ろめたく思っていて、ろくに絵が描けなくなってしまった一年前。
 あの日、今日のようにキャンバスの前に座っていた彼女のところに、彼が。
 ピピピッ! ピピピッ!
 そう、こんな電子音の携帯電話を鳴らせて現れたのだ。
「携帯電話は、学校に持ってきちゃいけないんですよ?」
 振り返る。美術室の入り口で、竹井直樹は携帯電話を操作しながら、扉に寄りかかって立っていた。
「おまえだって、持ってきてるじゃないか」
「私はいいんです。休日出勤ですから」
「俺だってそうさ」
「先輩はダメなんです。最上級生なんですから、示しをつけてください」
 彼は夏樹の無茶苦茶な物言いに、弱ったように頬をかいた。
「そろそろ、行こうか。おっさん待ってるだろ」
「ええ。そうですね」
 席を立ち、二人一緒に美術室を出た。
 セミの鳴く声が聞こえる。窓から差し込む真夏の陽光が、廊下を白く彩っていた。
 右隣を歩く、彼の姿。その左腕に、自分の手をそっと絡める。彼が少しこわばるのが分かって、それが嬉しくて、楽しかった。
「ねぇ、先輩」
 動揺を隠そうと、そっぽを向いてしまった彼をつつくように。
「私、先輩に聞いてほしいことがあるんです。先輩から聞きたいことも。いいですか?」
 返答には間があった。期待と不安の入り混じった空気が二人を包み込む。
 一瞬にも永遠にも感じられる一時のあと、彼はぶっきらぼうに呟いた。
「──―」
 その短い返答が、ひどく彼女の胸を温かくする。
 陽光が、二人を照らしていた。だから、彼女には彼の頬が何色に染まっているのか、はっきりとわかった。
 絡めていた腕を引く。
 よろめき、近づいた彼の頬に、夏樹はふれるようなキスをした。

《終わり》

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