『歓喜の魔王(終) SWASTIKA OPERA.』(funf)
■五節 聖餐式──Das Abendmahls schloss & Schloss Efxaristo.
お前はその解答に対して何と叫ぼうとしたのか。
否定か、驚愕か、ともかくそのリアクションは、空間を揺るがす突風に遮られた。空が、虚空がガラスのように砕け散り、虫の脱皮にも似た動きで別の世界が身をもたげる。荘厳な宗教画を描いたステンドグラスと、壮麗なゴシック様式の大聖堂。
「これは、騎士の聖堂!?」
最初にこの場所を思い出したオクターヴィアは風──空気ではなく空間を震わす波にさらわれ、聖堂の入り口へと流される。そのまま壁抜け男のように閉ざされた扉を透り抜け、この場から消えた。お前は首を巡らしてその姿を追うが、もうあの女はいない。
衣奈、我が娘。あれは捨て置け、ここはかつての我らが居城とその内部にあった礼拝所。だが物思い浸るには状況が許さぬ、意識を保て。
ヘルモルトが「失礼します」と一言断って服をめくり、いまだ血の止まらない傷口を露出させる。傍らには、湯飲みや拳銃のように、どこからともなく取り出された救急箱が置かれていた。トゥバルカインとマサク・マヴディルは己が得物を手に周囲を警戒するが、今は何の気配もしない。手当てするなら今の内だ。
少女のあどけない笑い声が、聖堂の奥から流れた。
いつの間にそこにいたのか。不意に出現した少女は、まるで紅い花のような佇まいを見せ、くすくすと小さく笑っていた。その声に嘲りやからかいの色はない、ただ笑いたいから笑っているという風に取れる。だがいくら無邪気に思えても、少女の正体を知る我々には忌々しく聞こえていた。
「ババアっ!」最初に嫌悪を込めてヘルモルトが反応した。
「母さん《ムッティ》──」トゥバルカインの声には未練が濃く混じり。
「……」マサク・マヴディルだけは何も言葉をかけない。
ブルート・シャルラッハ・シュテルン、血の紅きの星、紅天蛾。シャルラッハは傍らに立てかけていた銀の戦鎚を取り、高らかに揮った。
「サン・アンドレの十字架よ!」
天井を破り、真鍮の十字架がシャルラッハのすぐ横に突き刺さる。そこに磔られたニコラスの姿を見て、我々全員に驚愕が走った。
衣服の所々は破れ、その下の白い肌は引き裂かれたように無残な鞭の痕を残す。はだけられた胸元には、魔術的な刻印が焼きごてで付けられ、青白い顔は意識を失って深々とうなだれていた。銀に光る鎖で縛られた両の腕は、既に自重で脱臼してはいないだろうか。
何とも、まあこれは、笑えない。随分……好き勝手してくれる。
「ニ、コ……!?」
はっきりとした嘲りをお前に向けて、シャルラッハはもう一度鎚を揮った。
「初めまして、騎士団首領代行殿。そしてご覧あれ、白薔薇の断頭台!」
ニコラスの首に、木板の枷が嵌められた。枷の左右には柱がそそり立ち、その上には分厚く大きな刃。まるで窓から顔を出したような格好で、ニコラスは磔刑台と断頭台に同時に乗せられていた。血、血、血が欲しい。シャルラッハが熱に浮かされたように口ずさむ。
聖堂のそこかしこで、見えない何者かの輪唱が起こった。幾重にも、幾重にも。
──血、血、血が欲しい! ギロチンに注ごう、飲み物を。ギロチンの渇きを癒すために。欲しいのは、血、血、血!
フランス恐怖政治時代に、公開処刑を見物する群衆がいつも、断頭台の下で喚きたてたリフレイン。
「欲しいのは、血、血、血。これにて観客は勢ぞろい。さあ──“聖餐式”を始めましょう?」
脳裏のその奥で、お前を刺した星乃嬢と、十数年振りに見た母親の顔が弾けた。瞬間的な回想が、現実のニコラスの顔に重なる。
顔の下には既に首はなく、ただ弧を描く鮮血の帯があった。落ちてきたその首を受け止めて、シャルラッハはその唇を奪う。
「ぁ、あ……ああァァァァ──ッ!」
もはや言葉をなさないお前の声が空をつんざく。それでも我が騎士はお前の意思を理解して奔った。
限界まで見開いた瞼は傷口のように熱く痛み、血のように涙を吹き出させる。叫びに呼応して腹部の傷も潮を吐き、ヘルモルトは包帯を巻き直した。けれど、それが酷く遠い出来事のようにお前は思う。シャルラッハに打ちかかるカインとマサクの背中も、傷の痛みも、死の恐怖も、喪失の悲しみも。全てが遠い。意識と肉体が繋がらず、事象と意味が繋がらず。悲しいのか悲しくないのか、そもそも悲しいとは何だったのかという空虚な疑問が生まれた。
磔られたままのニコラスの体は、首の断面から生命と体温を噴き上げ、シャルラッハに血の雨を注いだ。ニコラスの五体──五引く一の肉体は四散し、それらも熱く甘い肉汁となって雨滴に混じり、柔らかく紅の魔女を包み込む。深く深く口づけた、舌を抜けば引かれる唾液の糸も深紅。
血の雨の中で、シャルラッハの幼い肢体がするすると伸び、成熟したフォルムを形作る。衣装もそれに合わせて、紅い夜会服に変わった。
「私は杯の中に血を見る。そは聖者の生命なるかな。今、我が杯が私の意志の下で、愛に満たされるように。見よ、我が塵を保持する壷よ。見よ、我が信頼を保持する杯よ」ニコラスの口端に残る唾液を舐め取り、今や妙齢の婦人と化したシャルラッハはまたも鎚を揮った。「苦悶の車輪よ!」
側面に人間を張りつけてもまだ余る、巨大な車輪が出現した。その外周部には実際に人間が張りつけられており、穴だらけでズタズタになった顔で、怨めしそうな視線を投げかけた。車輪の周囲にも、無残な傷口を晒す蒼白い人間が纏わりついている。
かつてこの拷問車輪で処刑され、今なお捕らわれる憐れな魂達だ。死してなお、彼らは磔にされ続け、その痛苦を味わう。だが、その口が訴えるのは、自らの責め苦に対する呻きでも、哀願でもない。ただ、替わってくれ、と。そう言っている。新しくまた一人この拷問具で殺されれば、捕らわれている魂が一体だけ解放される仕組み。シャルラッハに召喚されれば、彼らは主人の望むままに、次なる犠牲者に襲いかかるよう定められている。
「やっちゃえ、旦那ァ!」
ヘルモルトの声援に応えたわけでもなかろうが、奴の声と同時に車輪の一つを大鎌が刈り取った。大した耐久性もない車輪はバラバラになり、それに捕らわれた何十人もの魂が解放される。さりとてこの聖堂内はまだ魔女の腹の中であり、彼らは昇天する望みも得られないまま、渦に巻かれるようにシャルラッハに吸い込まれていった。
間を置かず鎚が揮われ、二つ目の車輪が現れた。今度は外周部に棘がつけられ、それが犠牲者の体を貫くという凶悪さの増した代物。いくら来ようと騎士の敵ではないと思われたが、撃っても落としても次々に車輪を繰り出される。それに憑く亡霊の全てが彼女の手による犠牲者だとしたら、この魔女はどれだけの血を流してきたのか。しかもシャルラッハの拷問魔術では、苦悶の車輪などコレクションのほんの一部に過ぎない。
「母さんに手を上げるの、坊や?」母に呼ばれて一瞬、トゥバルカインが震えた。「あらあら、母さんとても悲しいわ……。悲しみの聖母《ベトリュープニス・マリーア》よ!」
鎚に呼ばれて現れた聖母像が、トゥバルカインの上に落ちる。芸術的な優美さを損なわぬ流麗さで、前面の切れ目から左右に展開すると、棘の並んだ内部をさらけ出した。いわゆる鋼鉄の処女。棘の数だけ犠牲者の腕が伸び、カインの鎖をすり抜けてその体に掴みかかった。抵抗するが、主人であるシャルラッハが黄金の血肉を奪って力を増したためか、恐るべき膂力で像の内部へ引きずり込み、即座に扉が閉まる。
慈愛に満ちた聖母の顔を血の涙がつたった。ふむ、素晴らしい防音効果だ、音もなくカインは穴だらけになったか。
血の涙はやがて瀑布のごとく勢いを増し、固く閉められた扉の隙間からも漏洩する。赤き大河は幾重にも枝分かれし、空間に這う血管のように引力に逆らって宙へ伸びた。それはもはや血液などではなく、茨。早送りにされた植物の成長記録のように、膨張する茎で扉を内部からこじ開ける。
「なんて生意気な。貴方の茨のために鎖をあげたのは、誰だと思っているの!?」
憤懣やる方ないといった調子で頬を膨らませ、シャルラッハは胸元の薔薇から赤錆の浮いた鍵を取った。いかん……!
本来、トゥバルカインにシャルラッハを向けるのは避けるべきなのだ。かの魔女は養い子に常からいくつかの式を組んでおった。七百七十七分割した際に、そうした種は取り除いたが、どうしても排除出来なかった物がある。手枷と足枷と首枷、そしてそれらを繋ぐあの鎖だ。
これは本来、トゥバルカインの茨を抑え、制御するための代物。外してしまえば己が血潮《ヴィタエ》その物である茨を放出し尽くして、消耗死するのみ。
防音がなされたはずの聖母像の内部で、私は枷が弾け飛ぶ音が聞こえたように思えた。傷ついた生命を購おうと虚空に伸ばされた血の茨が、爆発的な勢いで噴出し、聖堂内を満たしていく。ヘルモルトはお前を抱えて出入り口近くまで退避し、マサクは縦横無尽に動き回ってそれら全てを避けた。
やがて、精緻な織物のように密集した赤錆色の茨によって、聖堂の天井が覆い隠された。それも僅かな間で、一瞬の後には力尽きて崩れ去る。砂上の楼閣のごとく塵に返り、後には血の涙を張りつける聖母像が残った。……枯れ落ちたな、トゥバルカイン。
中空を漂う塵の残滓と長椅子の列を蹴散らして、再び車輪が迫る。単身、大鎌を揮って迎え撃ちながら、マサクの顔がぎちりと音を立てて歪んだ。耳障りな亡者の怨嗟に対する、苛立ちと嫌悪。彼の歯軋りと共に、周囲の大気が腐ったように重みを増し、淀み始める。
淀んだ空気は正気を失ってのたうち、うねり、黒い体液をあたりに撒き散らした。腐乱死体を孕んだ濁流のようなそれに打たれて、拷問具の亡者達が動きを止める。凍てつきながらも粘性を失わないタールのような黒い風が、聖堂内の広大な空間に重圧と閉塞感をもたらした。
マサク・マヴディルに拷問具の怨霊達は却って逆効果。救いを求めてのたうち回る地獄の亡者に、苦悶を断ち切る死の先触れは既になされた。故に身代わりを請う必要もなく、ただ慈悲深い刃を待ち受ける。後は、動かぬ藁の束を刈るも同然だった。
ならば拷問具の怨霊ではない者をと、紅い妖婦は次の手駒を遣わせる。
「『彼の日こそ涙の日なるかな《Lacrimosa dies illa, 》。罪ある者は灰の中より甦らん、裁きを受けんがために《qua resurget ex favilla judicandus homo reus: 》。されば慈悲深き主よ、その時彼らを許し給へ《Huic ergo parce Deu122s. pie Jesu Domine, Dona eis requiem. 》。怒りの日、来たれり《Dies irae, dies illa. 》』──黙示獣“テリオン・アポカリュプセ”!」
シャルラッハの眼前で炎があがった。紅蓮を切り裂く黒い軍服が、白髪赤眼の少年となって飛び出す。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな! 主よ、彼らに永遠の安息を与え、絶えざる光もて照らしたまいますように!」
歌いながら、針金細工のような体躯で巨大鉈リージングメッサーを振り回し、マサクに迫る。先代の騎士聖堂第一位《エーアスト》、神曲の完成前に死したゆえ、正式な騎士の地位を得られなかった不遇の一人。教授のみならず、そんな者まで手駒にしていたか。
マサクが起こした黒い風は祓われ、巨大な鉈と鎌が打ち合い、刃が咬み合う。華奢な矮躯ながら、テリオンの五体に宿る七つの魔獣は怪力豪腕、マサク・マヴディルの相手としては申し分ない。過大な凶器と莫大な狂気を乗せて、黒と白の演者は斬と断の交響を競う。
「長靴《ブロドキン》!」
目の前の敵に集中した隙を突かれ、シャルラッハが繰り出した長靴にマサクは両足を取られた。金属製のそれは履いて歩くための物ではなく、付随したネジで締めあげるための拷問具。脛を、ふくらはぎを圧迫されて動きが鈍ったところへ、肩に鉈の厚い刃が喰い込んだ。
あどけない少年の白貌が狂喜を浮かべ、鉈を捻って骨の連結を絶つ。巨人の包丁《リージングメッサー》は否応なく脇の下まで潜り込み、腕を外して脇腹へ。切断面がしぶくと同時、靴の隙間から高く血が吐き出された。圧殺される肉は少しでも嵩を減らそうとするように吐血の勢いを緩めない。斧を思わせる刃が肋骨を断ちながら侵入する間にも、更に締め付けは加えられ骨が軋んだ。黒衣の痩身が傾げ、無防備に刃の立った脇をさらす。その足元で、長靴が柔らかな脂肪を搾り出し、握り潰した骨に髄液を迸らせた。その上に生命の破局を示して、真紅の緞帳が降ろされる。真っ二つだ。
「旦那ァ! ──こ、この、ウサギ小僧がっ!」
ヘルモルトはお前を置いて走り出した。貴様が行ってどうにかなる相手か! シャルラッハもそれを分かって嘲りに笑んだ。
「受け取りなさい、闇の賜物を!」
床から生えた血塗れの杭がヘルモルトを貫き、走り出した姿勢のまま縫いとめた。下腹部を穿たれ、傾いた首のうなじからは頭頂とほぼ同じ高さまで杭の尖端を覗かせる。
処刑具にはやはり犠牲者の怨霊が付属し、壁抜け男の十八番を封じている。これではいつものように透り抜けられない、引き抜くしかない。ヘルモルトは片手で杭の尖端を掴み、体内に押し込むようにして抜こうとした。その下部は床と同化して固定されている。
「く、ぉ──のっ、世の中にゃあ、ね……、サしていい杭と悪い杭ってのがあん、の、よっ……!」
足をかけ、杭を登って体を引き上げようとするが、自分の血で滑り、却って深く刺さり直す。挑戦三度目で血痰を吐くような吃音をあげ、拳のような血の塊を吐き、ヘルモルトは息絶えた。口の端から血の糸が垂れる。液体ではなく糸屑に見えるそれは、強引に引き千切られた肺の毛細血管。
「まあ、さっぱりした。これが当然の結果、これが必然の決着、自明の帰結!」
念には念を入れて、テリオンにマサクの五体を潰させながら、シャルラッハは勝ち誇った。
視界が暗い。明るい陽光が降り注ぐ聖堂に居ながら、お前の目に映る世界は、嵐の前のような薄暗がり。不吉に映像が明滅する瞳を凝らし、お前は自らの騎士の姿を探した。佇む棺桶と化した聖母像。細切れになった黒衣の死神。串に縫いつけられた壁抜け男。テリオンの姿は既にない。
ゆらゆらと揺れる世界の中で、ふいにニコラスの顔が真正面に迫った。真珠色の肌は艶を失って青ざめ、自らの歯で噛み千切られた唇から一筋の血が流れている。それでも、眠るように閉じられた瞼には神秘的な面影が残り、その髪には変わらぬ麗しい輝きがあった。
「さて、狩りは上々。でも……まだ収まりが悪いわ。引っ込みなさい代替品、直接首領閣下と対決させて頂戴」
シャルラッハが我が盟友の首を抱え、お前に突きつけながら不遜に笑った。囁く侮蔑と冷罵の視線を内包した嘲りで、顔面を痙攣させる。トゥバルカインの脆さを、マサクの弱さを、ヘルモルトの愚かさを、傷つき動けないお前を、死して逆臣の糧となったニコラスを。私を。嘲笑しながら、お前に口づけた。
鉄錆を脂で溶いた味が、熱い唾液と舌に乗ってねじ込まれる。胸元に埋められる感触はニコラスの頭部。冷え冷えとした手が顎を掴み、異様に長い舌が霊妙なる血液を喉の奥へ押し込んだ。胸が騒ぎ、腹が痛みを忘れて温かくなるこの心地よさは、紛れもなく黄金の味。天上の蜜。
体の中心から崩壊するような衝撃が、刹那の陶酔を吹き飛ばした。シャルラッハに解放され、下を見れば、長大な剣が胸を貫いている。刃先が通過したのは柔らかな拳大の塊。剣が抜かれ、乳房の間から破裂した心臓が生命を賛美して飛び散った。襲い来る寒気と眠気の中で、お前の意識が途切れる。
命脈が断ち切られる。
それが、反逆者の施しによって繋げられていた。黒園衣奈ではなく魔王として、改められた命が四肢を踏みしめる。
「久しいな、シャルラッハ。三騎士を相手に見事な立ち回りを演じてくれた。同じ流れる血ならば絢爛豪華盛大に、うむ、粋な見世物、大義であった」
「お褒めに預かり恐悦至極。最高のおもてなしを用意した甲斐がありますわ」
「ほほう、では真打ちにご登場を願おうか。希望は赤雀の即死、急死、致死、惨死で頼む」
「申し訳ありません、メインディッシュは閣下ご自身と決まってますの。狩らせてくださいな?」
欺瞞的な談笑の最後は凄惨な笑みで締め括られる。そして、シャルラッハは日本語で聞き取れば七文字、綴れば十文字の名前を口にした。
──ねえ、ヘイムスブペル《HEIMßBPELL》閣下──
ああ、それは私が捨てたはずの名だ。だが忌み名を封じさせる力も今はない。シャルラッハは長剣を一振りし、銀の戦鎚に戻すと、それを高々と掲げた。さて、今度はどんな拷問具が飛び出すやら。だが私にはそれに対処するすべはない。せいぜいが、僅かな黄金の血を解毒に用いるくらいだ。
紅の魔女に操られて星乃嬢が刺した短剣には、この女の呪いが込められている。それが私の全身を熱と痺れで苛み、戦闘能力を奪っていた。
■六節 嵐の魔王──Koenig Tempest.
「召しませ、血のワイン。リッサの鉄柩よ!」
銀の鎚が空を打ち据え、それに呼応して鉄の箱が現れる。人間が体を縮めてようやく入れる程度の器具は、中に押し込めた人間を押し潰し粉砕するための柩だ。魔王《アルベリヒ》を捕らえて封じるはずだったそれは、間一髪の処で避けられてしまった。だがシャルラッハは慌てない。二度、三度と鎚を揮い、行く先々に鉄柩を顕現させる。事前に仕込んだ呪毒の影響で、魔王の動きは精彩を欠いて滑稽だった。
よたよたと走り、転がり、右へ左へふらつきながら、顔面にはびっしりと汗が浮いて、必死になっている事がよく分かる。鉄柩が出現する寸前にそれを察知して、瞬間的に敏捷さを発揮するが、こちらがわざと手を抜いている事に気がついているかどうか。まったく、今まで見上げていた相手を追い詰めるのは何と心が躍るのだろう。無上の悦びと共に嬲り殺す興奮は、何にも替えがたい。
「捕まえましてよ、ハゲタカの娘!」
魔王の首に、両手に、足首に鉄枷が嵌められ、その動きを止める。枷は三角に並んだ棒で連結されており、無理な姿勢を取らせて自由を奪った。首は固定され、両手首は胸の前へ。折り曲げられた足は膝が胸に触れんばかりで、まるで身を丸めた胎児のような格好になる。
おお、何と無様で素敵な姿! ペンチを出すか焼きごてを出すか鋸にするか迷ってしまう。
「ああ、そうですわ。副首領閣下は“猫”がお好きでしたわね」
豊満な胸に抱え込んだニコラスの頬を撫で、数百本の房からなる鞭を手に取った。皮剥ぎ専門の『猫鞭』は、星型と呼ばれる尖った金属片で殺傷力を増し、塩と硫黄の溶液を滴らせる。短剣で黒い外套の背を破り、身動き出来ない魔王の体を強かに打って、柔らかな凶器の邪悪さを存分に発揮した。鞭の乱打に星型の痛打が追い討ちをかけ、皮と肉がたちまち崩れ爛れて、硫黄と塩に洗われる。
腹部に使えば肝臓や腸がたちまち剥き出しになる凶悪な拷問具にして処刑具。魔王は悲鳴と絶叫と狂号を噛み殺し、絶え間ない呻き声に変えてそれを耐えた。シャルラッハに不満は残るが、それでも痛々しさに満ちた喘ぎに愉悦を隠せない。何より苦悶に歪む表情がいい。
「痛い? いたい痛いイタイ痛苦《いたい》!? ああ、閣下、貴方にも痛覚が残ってらしたのね!」
鞭の手を休ませ、彼女はうっとりと自らの頬を撫でた。
「それはどんな痛苦なのかしら。血の舌を垂らす傷の口が味わう痛みとは? それは臓腑が焼けるような、体の芯が焦げつくような苦しみ? 地面の感覚が消え失せて、逆様になったような眩暈? 嗚呼──」
絶頂にも似た歓喜の本流が背筋を駆け抜け、シャルラッハは天を仰いだ。
我を忘れそうな快楽があったのは一瞬、ふと正気に戻り、白けた気分が体を冷やす。
「……どれだけ傷つかない体になっても、老いない体になっても、痛苦は消えない。傷つけば傷ついただけ痛む、心の老いは苦悩を生み殖やす。でも──生きているってそういう事だわ。痛苦と辛酸の中でこそ、人は愛について深い洞察を得る事が出来るのよ。
死のない体から痛みまで取り上げたとしたら、ああ、それは、目も耳も肌も骨も肉も血も涙もない事と、いったい何が違うと言うの?」
だからお前など嫌いだよ、動く屍! オクターヴィアの顔を思い出し、シャルラッハは緋の柳眉をしかめた。
たとい肉を高め不死に近づこうと、永遠には程遠い。魂は、最初にこの世に生れ落ちた通りに、人としての寿命を超えて物質に留まろうとはしない。心は死に、魂は老いる! 魂は不滅でも『私』は不滅ではない! 百年や二百年ではまるで足りない。満たされない。私は何が欲しいのか、かつて手に入れたと思った真理は、あのおぞましい黄金が、水星が、灰かぶりの魔女が貶めた。畜生、化け物共め! お前達さえいなければ、この私こそが……っ。叡智を極め、至賢に登りつめたものを──、ああ、くだらない。それでも所詮、魔王さえこの程度だったのだ。今この男は私の足元に這いつくばっている。
もはや怯える必要などない。私は居もしない、お化けを恐れる子供であり続ける事をやめよう。
「さあ、愉しみましょう、閣下。この痛みを、生ける証を。私の胎の中で無限永劫に……ね」
魔王は、それを聞いて笑った。脂汗に溶け、痛苦に歪みひび割れたような顔を少しだけ引きつらせただけだったが、間違いようもない。
「罵迦を抜かせ」溜め息にも似た小さな声は、確かにそう言っていた。
『見よ』不意に、誰かがそう囁いた。『生きとし生ける諸人の息吹は光の剣だ《GIGPA-OLLOG-NAPZS-OLPRT》』
聞き覚えのある声は身震いするほど玲瓏。手にしていたニコラスの首が燃えあがり、黒い塵になって消える。声が、言葉を続けた。
──おお、死の剣よ、汝は我が血を突き刺す。語る事の出来ぬ死の闇よ、汝は我が息を隠す。死よ、汝は我が命を火の僕達へ与えた。
──おお、死よ、我にとりては勝利なし。生命から生命へ導かれ、光は我が上に降り注ぐ。我は死に対する大勝利であり、闇の中の道を用意する。ここにて我は我が生命を受け取るなり。ここにて我は我が息を受け取るなり。ここにて我は我が血を受け取るなり。ここにて我は我が体を受け取るなり。
「あ、あ、アアッ!? ──ァアアアアア──ア──ッ!!」
シャルラッハの両眼が血膿と化して眼窩から迸った。続いて、みちみちと筋と肉と血管を軋ませながら、比喩の意味もなく、妊婦のように腹を膨らませる。背をそらし、風船のようにたわわに膨張した腹を抱えあげたが、破滅的な変化は止まらない。赤黒く変色した顔面の中、白黒の反転した目を見開いて、舌を痙攣させ、涎を撒き散らす。血の筋の張った腹が深紅の夜会服を破ってはみ出し、限界まで皮膚が張り詰め、遂に──
「ッ!? は、はっ、……はぁっ、────ァッ、はふ、ひっぎィィィィ!」
シャルラッハの腹が破裂する。切り裂くように鋭利な絶叫と共に、肉片を飛び散らせ、輝くような赤子を産み落とした。
「我は我が神への内なる道を取り戻す、その神の秘密の名は“存在”なり《OLAP-LAMA-AMADO-PADO》」
シャルラッハの腹を突き破って生誕したのは、赤子と言うよりも少年。黄金と呼ぶほかない髪を持ち、真珠のように白く艶やかな肌をして、幼さにも関わらず四肢は恐ろしく均整が取れている。ソプラノの美声で祝詞を締め括ったのは、ニコラス=ヌンティウス=リリエンタールだった。
「やあ、ニコラス。健勝なようでまことに重畳」
生まれ直した盟友の姿を認め、魔王は悠然と身を起こした。
「シャルラッハ。彼は呪ったのだよ、自らを欲するもの、彼を彼自身から奪おうとする者、ことごとく呪われ、災いあるようにとな。そして、私と盟約を交わした時に、彼はこうも言った。自らの血肉は全て主君のものと。それに手を出した貴様が──黄金の恩寵を受けられる訳がなかろう!?」
花弁のように裂け広がった胴体を掻き集めながら、シャルラッハは絶望を受け取った。先ほどまでの無抵抗が嘘のように、魔王は体を揺すって軽々と枷を外す。「汚れた上破けているが、許せよ」と一言付け加え、裂かれた外套をニコラスの裸身に纏わせた。
シャルラッハは、自身が魔王を追い詰めたつもりで、実際は何も出来なかった事に気がついた。この結末こそ彼には既知の範囲、多少の痛手こそあったものの、何の脅威にもならない。それでは自分がやった事は、いや、私がした事への報復は──?
「ああ首領様、偉大なる嵐様、歓喜寄すお方。貴方と、貴方の盟友達はいったい何物? どうして貴方達だけが、人の限界を超えてこの世に永く在るの!?」
盲い、下半身は裂けたが、今更許しなど請わない、請うものか。魔女が最後の意地として投げかけた問いを、魔王は笑い飛ばした。
「それを嵐《わたし》に訊くか。嵐がそれに答えると思うか!? 伏して知れ、貴様の上に降るのはただの暴風雨のみよ!」
この化け物め、化け物共め──何千何万遍呟いたか分からないその語がまた口にのぼる。二度とこいつらの名を口にしたくなどなかったのに、そのための反逆だったのに、またこうなるのか、自分は。嫉妬と憤怒に押し潰されそうになりながら、シャルラッハは自らへの裁きに慄いた。
◆ ◆ ◆
「何だ、もう出し物は終わりか? せっかく招待に応じて主賓が馳せ参じたというのに、いやはや、興ざめな事だ」
シャルラッハの手による呪毒は既に祓われた。ニコラスの復活を待ちながら解毒に専念したが、いやはや思ったより酷い目に遭ったものだ。さすがは元拷問吏。喜ぶべきは、こんな痛みを我が娘に負わせなくて済んだという事だな。清々しい思いで、私はシャルラッハを見下ろした。
「だが、まあ、良い良い。貴様の余興も中々のものだったぞ、私は今血に潤っている」
シャルラッハが黄金の毒に斃れ、聖堂は揺らいでいた。外部──学園から、無辜の民の魂が我々の元へ流れ込んでくる。シャルラッハは必死に魂を吸いあげて身の治癒を図ろうとするが、私はそれを許さず根こそぎ喰らった。鞭の傷が一瞬で癒える。
「我が君、逆臣が催した宴には、相応の褒賞を。丁度、Xの魂が贄を存分に蓄えた故、あれに任せるのが宜しいかと」
「ほう」それはいい事を聞いた。
ニコラスの進言に従い、私は第十の騎士の封印を解いた。先ほどテリオンに潰された屍体は青く炎をあげて消え、代わってそこから五体満足のマサク・マヴディルが現れる。相変わらずの無表情は、これまでのいっそ超然としたような静けさとは何かが異なっていた。その差異に初めに気づいたのは、串刺しのまま倒れる事も出来ないヘルモルトだ。……今起きたのか。
「ああ、カンナビヒ──カンナビヒの旦那!」
もはや名前を隠す必要すらない。これより彼は死者ではなく、神曲《プサルテリウム》にて新たな命得たる者。マサクは我が足元に歩み寄り、跪く。
「これまで手荒に扱ってすまなかったな。許すがよい。が、汝の忠誠しかと受け止めた。その忠義に称賛と栄誉を。汝は騎士、嵐の軍勢、鏖殺の歌声。騎士聖堂第十位《ツェーント》“マサク・マヴディル”。誉れ高きその名を唱えよ」
制帽を取り、深々と垂れる頭に私は掌を置いた。
「──アダム・カンナビヒ。我は使役、我は断罪、悪魔のアルカナ。我が名誉は忠誠なり、歓喜寄す方へこれを捧ぐ」
「では命じよう。その断罪の権能《ベシュトラーフェン》をもって、我が盟友を穢し、我が娘を辱めた愚者を片付けて参れ」
誓ってそのように《Testament. 》──そう応えて、カンナビヒは立ちあがった。大鎌を取り、見据えるは半身がずたずたに裂けて伏すシャルラッハ。
「あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするために、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるがゆえに、あがなうことができるからである。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう」
黒く重い風を纏って、カンナビヒはシャルラッハに向かって歩みだした。悪意なるその風は、触れるものに自死自壊の誘惑を与えるが、今は吹くだけであらゆる者を死滅させる深淵の息吹。かろうじて動く両の腕をのたのたと動かして、シャルラッハは少しでも遠ざかろうと足掻く。
「死にたくないのか、ダールグリュン《シャルラッハ》。逃げるという事はそういう事だろう?」
カンナビヒは足を止めて問うた。酷く純粋な疑問に満ちた透明な声。
「なぜ貴女はそうするのだろう。死は恐怖ではない。ただ、終わるだけだ。己が完結し、人生は完成する。その先には何もない、天国も地獄もヴァルハラも。ただ我らが首領の元へ馳せ参じるだけだ。何を恐れるものがある? あるいは……なぜ、今の生に執着する必要がある? 教えてくれ、ダールグリュン。私は知りたいのだよ、なぜ人はみな死に瀕した時同じ事を言うのだろう。何ゆえ人は生きようとするのだろう。私はそれが知りたい。人が生きる理由、人が死なない理由、ただそれだけの問いなのに、誰も答えられない。私はいつも満足する答えを得られない。ダールグリュン、ヨハンナ・ダールグリュン。それともジャンヌ・ド・ミラマールと呼ぼうか? 紅の魔女よ、入団以前から既にして人の寿命を越えていたもの。貴女ならば今までの凡愚とは違う答えをもてるのではないか? さあ教えてくれ、教えてくれ、この愚かな死神に真理を示してくれ。貴女は何ゆえに死にたくないと叫ぶのか? さあ、さあ、さ、あ。教えてくれ!」
教えられる訳がない。この男はどんな答えを聞いても納得しない。だからこその狂気であり、だからこその死神なのだ。そんな男に、一体誰が、何を答えられると言うのだろう。死にたくないという思いは生物として当然の欲求。だが、彼はその事実をそのままに受け止めはしないのだ。
マサク・マヴディルは命乞いを嫌う。断末魔を嫌う。苦悶の呻きを嫌う。およそ拷問や嬲り殺しには向かぬ男。だが、それは善性から来る性質ではなく、生きとし生けるもの全てに速やかな死を欲する殺人衝動ゆえだ。苦悶に醜くのたうつ者を見るくらいなら、即刻殺してしまいたい、と。彼に命乞いをするとは、早く殺してくれと頼んでいるに等しい。だから下手な事は言えない。シャルラッハが悩んでいると、その沈黙を答えと受け取ってカンナビヒは失望を露わにした。
「貴様もか。やはり貴様でも駄目なのか。貴様だから無理なのか。ああ、もういい、喋るな歩くな嘆くな笑うな生きるな死ぬな消えろ、消えてしまえ」
シャルラッハは破滅を悟って、泣き笑いのような表情を浮かべた。死神が己を象徴する大鎌を掲げる。
「──人は意味なくして生まれ、意味なくして生き、意味なくして死ぬ。人は死してゴミになるものなれば、生まれた時からすべからくゴミなのだ。土は土に、塵は塵に、ゴミはゴミ箱へ。“神の屑箱《マサク・マヴディル》”へ還るが良い」
断罪の一振りが、二百と数十年を生き抜いた魔女の魂を刈り取った。
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