『二人の記念日』

『二人の記念日』

著/守護雷帝

原稿用紙換算枚数30枚


※本作品はメールマガジン『雲上』に掲載された同名の作品を加筆修正したものです。


 冷房で二十六度に保たれているリビングは、彼にとって一番快適な環境だった。
 午前十一時。外は立っているだけで汗が滑り落ちてくるほど暑く、セミ達は嫌味なくらいに元気な合唱を響かせている。
 それに比べれば、リビングは天国のような空間だ。堕落とそしられようとも、彼は冷房こそ人類の発明の中で最も偉大なものだと信じて疑わなかった。
 その恩恵を最大限に受けつつ、彼は大きなソファーに仰向けに寝転がり、文庫本を読んでいた。
 足を伸ばしながら、柔らかいソファーに包まれて読書にふけるのは、彼にとってこの上ない贅沢だった。部屋にも冷房はあるが、このソファーがあると思うと足は自然とリビングに向き、半日近く動かない事もしょっちゅうだ。
 特に、今は夏休みである。両親が共働きということもあって、日がな一日、冷房に当たりながらソファーで読書をしているのも珍しくなかった。
「そろそろだな……」
 彼は、ちらりと時計を見てつぶやいた。
 午前十一時五分四十七秒……十一時くらい、という約束だったから、いつもの通りならもうそこまで来ているだろう。今まさに、チャイムを押そうとしているかもしれない。
 彼の恋人は、約束の時間に対して六分単位で動くという奇妙な癖を持っている。デートでは時間の六分前に到着するように現れ、何時くらいと言えばプラス六分でやってくるのだ。付き合い始めた当初こそ不思議に思ったものだが、一年も経つとそれが当たり前のようになっていた。
 出迎えてやるか――そう思い、本にしおりを挟んで起きあがる。
「実はもう来てたりして」
「うおっ!?」
 いきなり背後にわいた声に、彼は弾かれたように振り返り、危うくソファーから転げ落ちそうになった。鼓動が体を突き破りそうで、思わず胸を押さえる。
 そんな彼を見て笑っているのは、少女だ。ソファーの背もたれに顎を乗せて、とても意地の悪い笑みを浮かべている。微笑んでいればそれなりに愛嬌のある整った顔立ちをしているのに、これでは台無しだ。
 小憎らしい笑みを向けられて腹が立たない事もないが、爛漫な笑みを見ていると、その怒りはすーっと消えていってしまう。惚れた弱みだな、とは友人の言葉だが、彼自身、それを否定する事はできなかった。
 まだ跳ねている心臓を落ち着かせようと深呼吸し、彼は少しだけ少女を睨んだ。
「また勝手に入ってきたのか?」
「だって入ってきていいって言ったじゃん」
 少女はけろりとした表情でそうのたまった。彼は、小さくため息をつく。
「あのなぁ……いや、確かに言ったけど。まずはインターホン鳴らせよ。それで出てこなかったらって言っただろ」
「鳴らしたよ。でも出てこなかったじゃない」
「嘘だな」
 彼は、頬を膨らませた少女の抗議を一蹴した。
「また読書してて気づかなかっただけじゃないの?」
 読書に集中しすぎるのは、彼の悪い癖だった。ひどい時には、真横で鍋がひっくり返ってもまったく気づかないくらいだ。当然、インターホンに気づくはずもない。一度それでこっぴどく少女に叱られたことがあり、それからは少女が遊びに来る時に鍵を開けておく習慣がついていた。
 確かに、それからも何度か少女の来訪に気づかなかったことがある。そのたびに色々とイタズラを仕掛けられているが、そればっかりは彼としても強く怒れるものではない。少女の「彼女が来るっていうのに他のことに気を取られてる罰だもん」という言葉にも一理ある。
「いや。今日はそこまで本に入り込んでなかった」
 だが、今回は違う。本に没頭していたわけでもないし、記憶が飛んだ覚えもない。第一、時間に合わせて本をきちんと閉じたのだ。それなのに脅かされるのは、理不尽としか言いようがない。
 とはいえ、これがじゃれつきの一種であることを、彼はきちんと分かっていた。もし本当に気づかなかったのであれば、少女はもっと過激なイタズラを仕掛けてくるだろう。
 要するに彼の咎め立てているような態度は、仕返し……というか、じゃれ返しているようなものである。
「んー……ごめんね?」
 だから、少女は反省したそぶりもなく、上目遣いで小さく舌を出した。
 少女もそれくらいは承知なのだ。この程度で彼が怒るわけない――いや、怒れないのだと、見破っているのである。
(……分かっててやってるからタチ悪いんだよなぁ)
 彼は、根っこのところで少女に逆らうことができない。どんなことでも、最後には「しょうがない」と許してしまうのだ。もちろん、少女が無神経に一線を踏み越えないように気を配っているからである。付き合い始めの頃はぎくしゃくすることもあったが、もう加減が分かっているため、いい意味で容赦がない。
 それがまた心地よいと思ってしまう辺り、もう致命的に手遅れなのだろう。
「とりあえず座ってな」
 それでも、ささやかな抵抗とばかりに、少しぶっきらぼうに言って背を向ける。
「はーい」
 明らかに楽しんでいる声が返ってきた。キッチンに向かいながら、彼はこっそりと苦笑する。
 これがいつものパターンだった。少女が思うままにじゃれて、彼が苦笑して受け止める。
 一見して彼が振り回されているだけだが、これが少女なりの甘え方なのだ。それが分かるからこそ、彼はこの気安い関係を悪くないと心から思える。
 付き合い始めたばかりの、何をするのも恥ずかしくて手探りするような感覚も悪くはなかったが、彼は今のような地に足の着いた関係の方が好きだった。
(色々と突飛だったからなぁ)
 何をするにも彼の予想を裏切り、また少女自身がそれを楽しんでいる節もあって、最初の頃は、毎日気が抜けなかった。
 そうした日々の始まりとなったのは、告白の日だった。
 ちょうど一年前の八月三十一日。夏休み最後の日に、彼は少女に誘われて遊園地に遊びに行った。きちんとしたデートをするのは初めてで、ガチガチに緊張していたのを、彼は昨日の事のように思い出せる。
 少女がくるくると表情を変えるのを見ているのが楽しかった。時間が経つのも忘れていて、気づけば名物の花火大会が始まっていた。
 それからのことは、少女の言葉や自分の言葉、周りの状況なども鮮明に覚えている。それこそ、ふとした拍子に思い出してしまうほどに。


*  *  *


 夜空に溶けるように消えていく花火の残滓を、目が自然と追いかける。
「そういえば、知ってた?」
 ふと、呟きが彼の耳をくすぐった。
「何を?」
 彼は、怪訝そうに隣に立つ少女を見やる。イルミネーションに照らされた薄暗がりの中、ノースリーブから覗く肩の白さがやけに印象的に映えていた。
 少女は、首だけをゆっくりと彼に向ける。
「今日ね、あたしの誕生日なんだ」
 さらりと告げられ、彼は一瞬言葉を失った。意地の悪い笑みを浮かべながら、少女はじっと彼の様子をうかがっている。
 彼はしばし呆然としていたが、すぐに我を取り戻して目を見開いた。
「……え、マジで?」
 思わず確認する彼に、少女は無言で頷いた。
「う、わ……ちょ、え、俺、何も用意してな……」
 途端に狼狽し始める彼を、少女は無言のまま楽しそうに眺めている。そんな少女の視線に気づき、彼は取り繕うように咳払いをした。
「えっと……おめでとう」
「うん、ありがとう」
 少女の満面の笑みを見て、彼は自然と口元をほころばせた。だが、すぐにはっとなってその笑みを引っ込めた。
「でも、ごめん。その、プレゼント、用意してなくて……」
 誕生日だなんて知らなかった、という言葉は飲み込んだ。そんな言い訳じみた言葉を少女に言いたくはなかった。
 まるでそんな彼の内心を読み取ったように、少女はクスクスと笑う。
「いいよ。だって、あたしも言ってなかったし。でも、プレゼントは欲しいから……ねだってもいいかな?」
「ん、ああ、あんまり無茶を言われると困るけど……」
「無茶……かもしれないけど、ダメ?」
 少女は、小動物がするように、上目遣いで首を小さく傾げる。
 ドクン――と、何の前触れもなく彼の鼓動が跳ねた。
(ヤベ――)
 心臓の辺りから焼けそうな熱が吹き上がってきて、彼は軽い目眩を覚えた。
 今までに見た事のない仕草に、心臓が早鐘のように打って今にも爆発しそうだ。
(可愛い……)
 どこか潤んだような瞳や、整った眉、わずかに微笑を浮かべる唇――何気なく見ていた少女の顔が、やけに鮮明に映る。
 活発さや明るさからくる魅力では――彼がいつの間にか、何となく好きになった少女の顔ではない。
 目の前にいる少女が、自分にとっての「女の子」であることを、彼は、初めて意識した。
(うあ……)
 途端、急速に熱が顔まで上がってくる。まるで頭から熔けそうなくらい熱いのに、足下から浮きあがっていきそうだ。
 心地よさにくらくらする。それが少女の魅力に負けた証だと、彼はまだ気づいていない。
 彼は、知らずに胸元を押さえた。あふれ出しそうな感情をどうしたらいいのか、もてあますように。
 だが、彼の口は独りでに開き、言葉を紡ごうとする。まるで、彼とは違う彼が、どうすればいいのか知っているようだ。
「いや……まぁ、その……ダメってことはないけど……」
「ホント? ならね、あたし――」


*  *  *


 思い出を反芻しながら、彼は食器棚から少女専用のグラスを取り出した。何か形のある物も、と思って、少女がねだったプレゼントとは別にあげたものだ。
 そのグラスを見ながら、彼は思わず苦笑を漏らした。
(ホントに忘れられないな、あの日のことは)
 確かに少女がねだったプレゼントは無茶なものだった。彼がそれまでに渡したどんな誕生日プレゼントよりも。
 いや、モノとしては無茶ではない。高価なわけでも、入手が難しいものでもなかった。
 何が無茶かと言えば……とてつもなく恥ずかしい、この一言に尽きた。
(……キスしてくれ、だもんなぁ)
 もちろん、少女の事は好きだったし、告白するならその日がチャンスだとも思っていた。あるいは、少女の方から告白してくるかもと考えなかったわけではない。
 だが、どちらにしても思いを告げるという普通の形だと思っていたのだ。
 ところが、実際には誕生日プレゼントにキスをねだってきたのである。後になって少女から「絶対に忘れない告白でしょ?」と言われた時は、唖然としたものだった。
 それで、実際に忘れられないのだから、少女の策は見事としか言いようがない。
 始まりからして衝撃的だったためか、彼は少女と付き合っていて、飽きるということがなかった。
 例えば、付き合い始めた直後の体育祭。徒競走に出場した少女が一着になったご褒美は、お弁当を食べさせてくれ、というものだった。しかも、公衆の面前でだ。もちろん、その後に彼が食べさせられたのは言うまでもない。嬉しいとか恥ずかしいとかいう以前に、頭が真っ白で何も考えられなかったのはよく覚えている。
 例えば、クリスマス。雪の中でイルミネーションを見ていると、いきなりコートに潜り込んできて抱きしめさせられた。じんわりと染み込んでくる少女のぬくもりと、温かいと言って見上げてきた時の笑顔は、忘れようとも忘れられない。
 他にも数え上げればキリがないが……まるで推し量ったように、少女の言動は彼の心に響くのだ。少しばかり無茶をすることもあったが、そんな少女を見ているのが純粋に楽しくてたまらない一年だった。
 もう目を白黒させたり、慌てふためいたりするような驚きは少なくなってきたが、慣れとは恐ろしいもので、そういうイベントがないと物足りないとさえ思う。
 もし少女がここまで計算してあんな告白をしたのだとしたら……
(……ま、悪くはないか)
 彼は唇の端に笑みを刻む。考え方を変えれば、一年前の少女がそれだけ好きでいてくれたということだ。そして、今もまったく変わらず――いや、たぶんそれ以上に好きでいてくれているということなのだから。
 彼は、冷蔵庫を開けて、悩むことなく麦茶を手に取った。オレンジジュースやミネラルウォーターなどもあるが、少女の好みは麦茶だ。彼はなみなみと麦茶を注いだグラスを慎重に持ちながらキッチンを後にする。
 リビングに戻ると、少女がソファーにうつぶせに倒れていた。バッグが脇に投げ出され、収まりきらなかった手が、床を撫でるように垂れている。
「……はふぅ」
 少女が恍惚とため息を漏らす。
 少女も、このソファーの感触の虜だった。時折、このソファーが目的で遊びに来るのではないかと思わないでもないが、おかげで待ち合わせが自分の家になっているのも事実。このくそ暑い中、少しでも外にいる時間を短くできるのだから、あえて追及する事もないだろう。もっとも、彼氏の部屋よりリビングにいたがるのは、少しばかり複雑な気持ちになるが。
「……せめてスカートくらい気にしたらどうだ?」
 彼は少女とは反対に重いため息をついた。
 ソファーへ飛び込むように倒れ込んだのだろう。ミニスカートがまくれ、健康的に日焼けした太ももと、その上にある白い布地がわずかに見えていた。
「大丈夫、他の人には見せないから」
「……当たり前だろ」
 少し考えたが他に言葉が浮かばず、彼はそう言うことしかできなかった。
 話題を変えるように、テーブルへグラスを置く。すると、少女ががばっと起きあがった。
「ありがとー」
 少女は顔をほころばせて礼を言うと、麦茶を一気に飲み干した。
「はぁ……生き返る」
 息をついて、少女は肩の力を抜く。そんな少女の様子に微笑をこぼしながら、彼は向かいに座った。
「外、どんな感じだ?」
「もう太陽がギラギラして何がそんなに憎いのかってくらい暑いわよ」
 外の暑さを思い出したのか、少女はイヤそうに顔をしかめた。
 窓の外では、目を焼かんばかりに日差しが降り注いでいる。見ているだけで体感温度が上がりそうだ。
「……本当に暑そうだな」
 ちらりと目をやった彼もイヤそうに顔をしかめた。しかし、曇り空も色々と不都合なので遠慮したい。複雑な気分だった。
 今日は、二週間ぶりのデートだ。隣町の水族館に行った後、ショッピングモールで買い物をして、夜には少し離れた遊園地に行って花火を見る予定である。
 ほぼ毎日顔は合わせていたが、お互いにバイトが忙しくてここしばらく一緒に出かけていない。だが、少女の誕生日ということもあって、今日だけは是が非でもデートに行く、と決めていた。
 特に彼は、今年こそプレゼントを用意し、万全の体勢で少女の誕生日を祝うつもりでいる。そんな記念日に、陰気な空模様など盛り下がることこの上ない。
「まぁ、でも、これだけ晴れてれば花火も問題なさそうだな」
 彼は前向きにそう言って少女に同意を求める。だが、少女は気まずそうにそっぽを向いていた。
「……どうかしたか?」
「その……今日の事なんだけど……」
 少女が、少し言いにくそうにしながら、投げ捨ててあった鞄を手元に引っ張ってきた。そして、中から出した一冊のノートをめくってみせる。
「……おい」
 思わず彼は声を漏らした。
 その真っ白なノートは、夏休みの宿題だった。少女の一番苦手としている数学だが……それにしても、夏休み最後の日に一問も解いていないのは明らかに危険だ。
「ごめん……大幅に予定狂っちゃって」
 一応はすまなそうにしているものの、苦笑いしているところから見ると、最初から彼をアテにしているようだった。
「……まったく」
 呆れたように言いながらも、彼は立ちあがる。
 できれば外れてくれと思いながらも、どこかでこうなりそうな予感があった。小学生の習性みたいに宿題を忘れるのは、毎度のことである。
 今回は誕生日という記念日だけに、少しだけ期待していたが、そうそう都合よくはいかないようだった。
(水族館は諦めた方がよさそうだな……)
 そう思いながら、彼はリビングを出ようとして――
「あ、ねぇねぇ」
 少女に呼び止められ、首だけで振り返って一瞬、固まった。
「よろしく」
 満面の笑みを浮かべる少女は、トランプを広げるように扇状にノートを持っている。その数は、ちょうど宿題として出された教科の数と同じだった。


「終わったぁ~」
 少女は、シャープペンを放り投げて歓声をあげた。ソファーに背中を預け、伸びをする。
「お疲れ」
 向かいで本を読んでいた彼は、しおりを挟んで少女にねぎらいの言葉をかけた。
 時間はもう午後の七時を回っており、すでに日は沈んでいる。ノートを写すだけとはいえ、ほとんど休憩も入れずに集中していたのだから、かなり疲れたはずだった。
「もういい時間だな……腹減らないか?」
 もう遊園地に行くような時間でもない。せめてデートらしく食事くらいはしにいこうと思っての提案だった。
 だが。
「ん、それより、出かけよ」
「は?」
 いきなり少女の口から飛び出てきた言葉に、彼はぽかんとした。だが、そんな彼の様子を見ているのかいないのか、少女はテーブルをぐるりと周り、彼の腕を引っ張る。
「ほら、早く」
「ちょ、おい、待てってば」
 引きずられるようにしながら、彼はリビングから出て行く羽目になった。


 少女に連れられて来たのは、彼の家の近くにある河原だった。
 治水工事に合わせて、ちょっとした広場のように整えられた場所だ。早朝や夕方には犬を散歩させる人の姿が多く見えるし、放課後には近くの小学生達がよく遊んでいる。
 しかし、日が沈んだ後ともなれば、わずかな街灯の光だけが照らし出す河原に人影はない。たまに自転車や歩行者が通り過ぎていくだけで、わざわざ広場にまで入っているのは彼らくらいのものだった。
「……いきなりこんなとこに連れ出してどうしたんだ?」
 名残のようにわだかまる熱気に辟易しながら、彼は傍らに立つ少女に、ほんの少し苛立たしげに問いかけた。
 少女が強引なのは、いつもの事だ。だが、今回は、少し突っ走りすぎに感じられた。まるで付き合い始めたばかりで加減が掴めてない頃のように。
 食事に行こうとする彼の心中が分からない少女ではないだろう。せめて彼女の誕生日くらいは花を持たせてくれてもいいじゃないか――そんな恨みがましい気持ちで少女を見る。
「ん? もう少し待って。後十五秒」
 だが、少女は彼の視線など気にした風でもなく腕時計を見ていた。
「十五秒……?」
 その一言が気になり、彼は眉をひそめながら携帯の液晶をのぞき込んだ。
「あ……」
 瞬間、彼は少女が何を望んでいるのか、理解した。これならば、少女が一度も休憩を取らずに宿題を写していたのも頷ける。
 そして、きっかり十五秒後、夜空に花が咲いた。この広場は、ちょうど高層マンションの隙間から花火が見える位置にあるのだ。
(……参ったな)
 どうやら勝手だったのは自分らしいと気づき、彼は小さくため息をついた。食事などよりも、予定を――そこに込められた願いを大事にするべきだったのだ。遊園地に行かなければ花火が見られないわけではないというのに、予定が狂った事ですっかり諦めてしまっていた。それなのに、少女に八つ当たりみたいなことをしてしまって……情けない事この上ない。
 だが、ここで謝ってしまうと、雰囲気そのものがぶち壊しになりそうだった。彼は心の中で「ごめん」と謝り、口からは別の言葉を紡ぐ。
「こんな場所、よく見つけたな」
「うん、たまたま通りかかったら、見えたんだ」
「へぇ……」
 二人は、歓声を上げるでもなく、ただ寄り添うように並んで花火を眺め続けていた。
 壮大に見えるわけでも、鮮やかに見えるわけでもない。それでも、二人で見ているというだけで、言葉がいらないほど綺麗な花火として映っていた。
 やがて、花火は一段落した。いつもの通りなら、少ししてからまたあがるはずだ。
「そうだ」
 彼は、少女に向き直り、意を決して口を開いた。ふと思いついたと言わんばかりの言葉だが、声の震えは隠せない。
「ん?」
「えっと……」
 少女の向けてくる好奇の眼差しを直視できなくて、彼は中空に視線をさまよわせてしまう。何もかも分かっているのに、あえて彼の言葉を待っているのではないか――そんな被害妄想じみた考えが浮かんできてしまった。
 振り払うように首を振り、彼は少女をまっすぐに見据える。
「誕生日、おめでとう」
「……あたし、てっきり怒らせちゃったかと思ってた」
「へ?」
 いきなりの言葉に、彼は目をしばたたかせた。少女は、少しだけ唇をとがらせる。
「だって、全然言ってくれないんだもん。今日の予定つぶしちゃって怒ったのかなぁってずっと心配してたんだから」
「あ……ごめん」
「ううん。言ってくれたからいい」
 少女は、そう言って本当に嬉しそうに笑った。それが嬉しくて、彼も思わず笑みを浮かべてしまう。
「あ、そうそう……今年はきちんと用意したよ」
 彼は、ポケットから手の平に乗るくらいの小さな箱を取り出して少女に差し出した。
「え……これって……」
 そっと箱を手に取った少女が、目を丸くする。
 宝箱を模したような青い箱。その中に何が入っているかは、容易に想像できるはずだった。箱を開けようとする少女の指先が、かすかに震えている。
「指輪だ……」
 箱の中を見た少女が、吐息のようにつぶやいて今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる。
「ありがとう……すごく嬉しい」
 宝物を抱くように胸元に抱きしめ、少女はそっと目を伏せた。そして、指輪を手に取り、ごく自然に左手の薬指へはめた。
 それを見た彼の顔が瞬時に真っ赤になった。
(ひ、左手ですか……)
 まさか当たり前のように左手にはめるとは思ってもみなかった。いや、左手にはめた姿を想像しなかったといえば嘘になるが……何となく右手にはめるのではないかと思っていたのだ。
 少女は、左手を透かすように空へ向ける。そして、納得したように頷いて胸元に引き寄せ、
「どうかな?」
 はにかみながら彼にそう尋ねた。
「う、うん……似合ってる」
「よかった」
 安堵したようにこぼす笑みが、彼の心を掴んで離さない。
 意味深すぎるかもと心配していたのは、杞憂だった。彼は、緊張にこわばっていた心をほぐすように息を吐いた。
「あ、そうだ」
 直後、少女が声を上げた。
「え? な、何? どうかした?」
「はい、私からもプレゼント」
 少女が、箱を差し出してきた。それは、彼が先ほどプレゼントしたのとまったく同じ箱だ。
 だが、彼がプレゼントした箱は、まだ少女の手の中にある。
「え……?」
 事態が掴めず、彼は固まってしまう。少女は、彼がプレゼントした箱をポケットにしまい、自分の差し出した箱を彼の手の中に納めた。
「開けてみて」
 少女に促され、彼は恐る恐る蓋を開ける。中に入っていたのは、デザインこそ違うものの、少女に贈ったものに似た指輪だった。
「これ……いや、だって、誕生日なのは……」
「うん、でも、二人の記念日でしょ?」
「え……?」
 彼は言葉に含まれた意味が分からず、ぽかんと少女を見返した。
「確かにあたしの誕生日だけど……付き合って一年の記念日だもん。あたしからもプレゼントしたいなって」
「……ひょっとして、バイトが忙しかったのって」
「うん」
 少女は自慢げに頷く。
「じゃぁ、宿題が終わらなかったのも……」
「あはは」
 これは笑ってごまかすつもりらしい。
 彼は、大きくため息をついた。まさか、こんな不意打ちがあるとは思ってもみなかった。
「なんか……変な気分だな」
 彼は指輪を取り出し、一瞬だけ考えるように動きを止めた。
 だが、すぐに左手の薬指にはめた。少女の顔がほころぶ。
「ありがと」
 妙に照れくさくて、彼はそう言うのが精一杯だった。少女は何も言わず、ただ笑っているだけだ。
 心地よい沈黙が二人の間に漂う。だが、その沈黙はすぐに再開した花火に散らされた。
「ねぇ」
 少女が甘えるように呼びかけてくる。彼は、視線だけを少女に向けた。
「来年も再来年も……こうして、二人で花火を見ようね」
 そう言って笑う少女の横顔を、花火が照らし出す。
 彩り鮮やかに浮かび上がる少女の笑顔は、太陽の下で見るよりも、何倍もキレイだった。

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