『人を見送りひとりでかへるぬかるみ』

『人を見送りひとりでかへるぬかるみ』

著/赤井 都


※本作品はメールマガジン『雲上』に連載中の「赤井都超短編集」を初出とするアンソロジィです。



「ひらひら蝶はうたへない」

 開幕のベルが鳴る。木漏れ日の袖から草地に出てくる蝶の羽は白、それを見る倒れている旅人は、己の魂が既に我が身を離れてしまったのかと思う。いや違う、蝶はそこにいて自分の躯と自分の痛みはここにある。痛みがある限り自分はここにつなぎ止められている、草の先端の強張り、髪をなでる微風、蝶は一匹だけで緑の光に包まれかろやかに舞い続けている。痛みは重荷だ、背が鈍い、それを見られない、自分のどこがどう変わってしまったのかわからない。旅人は森の草地にうつ伏せに脚をながながと伸ばし、痛みがもたらす重みに押しひしがれている。頭を載せている腕が痺れている、そのように躯のあちこちに感じ取ることができない領域があって、そのまだらで不明瞭な斑点が全身に広がろうと隙を狙っている。旅人は痛みにしがみつく、それが自分と世界との残された接点であるという気がする。なにが起きたのだったか、鹿と間違われて射られたのか、それとも通り過ぎようとした魔女の家から呪いが走ってきたのか、なにが起きたのかどうしても思い出せないし、そもそもどうして自分がこの森を通りかかったのかだって今となってはもうわからない。なぜ自分が旅をしなければいけなかったのか、なにを携えてどこに行くつもりだったのか、違う、そうじゃない。ひらひら、蝶が舞っている。たった一人の観客の前で、ひらひら、蝶が舞っている。畏れずに旅人の手の甲に止まる。うっすら開いた斜めの視界で間近に蝶の細かな燐粉を感じて旅人は微笑む。はかないものを傷つけないよう、痛みに荒い息さえひそめようとするけれど、旅人と蝶と、どちらがはかないものだろう。旅人の視界に白い靄がかかってきて抗うことができない、痛むこの背から羽が生えるなら美しい白い蝶と共に木立の中に消えていくだろう。ゆっくりと羽を開いたり閉じたりするこの蝶を前から知っているような気がしてならない、魔法にかけられた姫、いいや妹、それともかつて仕えていた王子か、いや王子に仕えたことなんてないし係累も魔法も知らない、ずっと一人で歩いてきた。自分が大事な登場人物だということはわかっている、けれどなにをすればいいのかがわからない。蝶は話せない、ひたすらひらひらひらひら旅人の顔の周りを巡る。旅人の意識は次第に濁っていき、痛みが心から滑り落ちていく。

954文字




「夢電車」

 夢の国から帰らなくちゃ。もう夕焼け、ずいぶん遊んだ。くるりと振り返ると駅の階段。駆け上がろうとしたところに、上のほうから人が降りてきた。
 あ。T中先生。
 いつものグレイのスーツのすそを、ひざの動きではねあげるようにして、とんとんと階段の真中を降りてきた。
「T中先生」
 呼んだのは私ではない。太い柱の向こうから聞き覚えのある声。柱と姿が重なっていて呼んだ人は見えない、でも声が誰のものか判ったから柱を透かして見えた。T橋先生だ。もう何年ぶりだろう姿をはっきり見た。
 思い出せなかったし思い出さないようにしていた。
 T中先生もT橋先生も亡くなったと人づてに聞いた。もう既に何年も前に。
 二人とも互いに仲がよかった。だから駅前で待ち合わせて、二人で夜の街へ繰り出すんだ、ああいいなあ。
 でももう日が暮れる、太陽の端がビルの陰に落ちる。早く帰らなくちゃ。
 二人が街に出るのと入れ替わりに、私は階段を駆け上がって、電車に乗った。
 そうして帰ってきた、今ここに。
 ぱちんと目覚めて思った。
 二人で呑みに行けるなんていいなあ。私は二人の生徒だった、私がおとなになった今でも別世界の住人だ。私はここにいて、二人は夢の国で呑んでいる。それでも、T中先生とT橋先生が教えてくれた古文によると、夢に現れるのは、私がその人のことを思っているのではなく、その人が私のことを思っている証なのだから、呑みながらでもどういう形でもいい、見ていてくれるのだと受け取った。

619文字




「人を見送りひとりでかへるぬかるみ」

 ひまわり畠に衛夏は立っている。太陽の側から見れば、全部のひまわりが顔をこちらに向けている。裏側から見れば、全てが後ろ姿だ。
 ひまわり畠の上空に、白い軌跡が伸びていく。衛夏の隣で同じように空を見上げている母が呟く。
「棺桶が飛んでいく」
 衛夏の祖母は生きているときから、「飛んでるおばあちゃん」だった。新しい物好きで、何でも試して、食べ物も服装も、自分の年齢にこだわらずに自由に選んだ。畠いっぱいに育てていた豆も、遊びに行くたびに新しい品種に変わっていた。保守的な田舎で、そんな気性では暮らしにくかったと思う。それでも祖母はせいいっぱい祖母らしく生き、やがて体じゅうを黒色癌に蝕まれて、苦しんで苦しんで死んだ。そうした死に方はその村では平凡なものだった。どうして苦しまないと死ねないんだろう、と母は嘆いた。祖母は遺言を残した。ずっと地面に縛り付けられていたから、死んだら体を空に打ち上げてくれと。
 祖母が残した貯蓄に、祖母が耕していた土地をそっくり売り払って足して、大量の燃料と固い被膜を買う金額にようやく届いた。堅苦しい法律に縛られない国境の向こうで、祖母のむくろを大空葬にしてもらう。国境付近のひまわり畠で、衛夏と母は打ち上げを見守った。大地をゆるがす衝撃と共に、こわばった冷たい体は飛び立った。きっと、がくがくと衝撃で恐ろしげに揺れながら。
「うまく軌道に乗るのかしらね」
 地球を回る軌道にちょうど乗せるには計算が難しい。墜落してしまうことも、逆に宇宙空間に果てしなく飛び立ってしまうこともあるが、それも了承してもらえるかと担当技師に聞かれた。祖母はそこまで考えずに遺言したに違いない。地球を去って宇宙の闇に旅立つことまでは望んでいなかったと衛夏は思ったが、今さら問いただすわけにもいかない。失敗も承知のうえ、と母は同意書に署名した。
 棺桶は、もしうまく地球をめぐる軌道に乗ったら、ぐるぐると回る。地球の上を、何万周も回る。それからあるとき、勢いを失って地球の重力に引かれてまた落ちてくる。大気圏に突入するときに機体は燃えて、中にあった死骸も燃えて、地上からは流れ星として見えるものになる。それで終わり。落ちてくるのが何年後か、何十年後かはわからない。
「これから、おばあちゃんの棺桶にいつも空から見下ろされているなんて、ぞっとしないわね。死者の暴力だわ」
 母は憎まれ口をたたく。
「どの流れ星がおばあちゃんなのかが、わからないね」
 全ての流れ星が祖母に見えるかもしれない、と衛夏は思った。太陽の側から見れば、全部のひまわりが顔をこちらに向けている。裏側から見れば、全てが後ろ姿だ。


 ひまわり畠に衛夏は立っている。隣に母はいない。母は川を流れていく。国境の向こうで焼いて、全てを細かな灰にして、川に流した。このまま海へ流れ出て、やがて雲となり、空から降り、また川を流れていく無限の循環に入るだろう。空には祖母がいて、今度から飲む水の全てに母がいる。
 衛夏はこどもを産まなかったから、隣に子は立っていない。やがて衛夏が逝くとき、衛夏は誰にも見送られないだろう。ひとりきりで苦しんだ後はどこに旅立とう。今、皆が後ろ姿を見せている。死ぬことは転換だ。衛夏は太陽の側に回る。すると全てのひまわりの顔がこちらを向く。
 流水葬にはほとんどお金がかからなかった。一人の体を焼くだけの、少しの燃料ですむからだ。燃焼技師たちが立ち去ったあとも、衛夏はひとりでゆっくりと母を見送った。やがて川岸の葦からも、転がった石からも、川向こうの大木からも、どの物からも影がなくなり、雨が降り始めた。衛夏はひまわり畠の中に身をかがめた。大きな葉が少しは雨滴をさえぎってくれる。雨脚は強く、乾いた地面はたちまちぬかるみになり、衛夏はその中に膝をついていた。母の体は濁流に飲まれて海へ走っていることだろう。皆が後ろ姿を向けている。ひまわり、こちらを向いて。しかしまだ衛夏は太陽ではない。

1627文字




「みがきにしんの夜」

 米沢街道と越後街道の拠点である山中の城下町ですから みがきにしんのさんしょうづけという食べ物があって 磨き鰊ではなく身欠き鰊で 光りはしていますが縦の皺だらけの小さな切り身です 盛り付ける器も昔から土地で焼いています 器というのは四角い灰皿のような形で 土の板を貼り合わせて緑色の釉薬を溶かし垂らしながら焼いたもので 角型のその鰊鉢に 四角い鰊の切れを並べれば収まりがよいのです 蕎麦屋にあったのでその小鉢を一つもらって三合呑みました 外に出ると雪がかちかちに凍って静かで 景観協定でつくられた昔風の家並みの格子戸から灯りが点々と漏れて 氷になった雪の表面を光らせています 内戦で焼かれた町ですから江戸の建物は残っていないのです 空襲されるほどはそれから発展しませんでした それでも今の通りには雪を載せた黒い軒が隙間なく並んでいて 暖簾が真下に垂れている奥には人の気配がします 風はなく 空には大きな帆布のような雲が音もなく航行していくばかりで 冴えた半月が鬼瓦の縁に掛かっていました 歩道の上は雪の板ががっちりと蓋していて 東軍墓地を過ぎた辺りの坂道はなおさらつるつる滑ります 酔っていたのでなおさらつるつるに滑ります もしか滑って転んでそのまま寝ていたら死にますから 酔いつつも凛とした月光を浴びて慎重に歩きました 負けた東軍の遺体は二月になるまで埋葬を許されなかったそうです 今は二月です 血の匂いが肩の後ろで凍っています 身欠き鰊の山椒漬けはおいしかったです また食べたいです

643文字




「フラスコ壜」

 Dr.野口というお酒がありまして 駅前の売店でもスーパーマーケットでも どこでもそこでも売っています 七日町から大町通りのほうへ歩いていた時 道に半ば迷っていたので今となってはどこの商店街かわかりませんが 祝野口英世 の手書きの貼り紙を見ました 反射のきついガラスの奥はすぐに暗くなって文房具屋か乾物屋かもわかりませんでしたが 祝われらが野口英世博士 祝新千円札に決定 という赤い文字が雪の反射で早々に焼けて ガラス戸の内側の何箇所かに並んでいました その軒の下で中年の男性が雪に埋もれた植木鉢の手入れにかがんでいました 断って貼り紙の写真を記念に撮らせてもらい その時にその人が女性であると思いましたがきちんと確かめたわけではありませんからやっぱり勘違いかもわかりません われらがというのは野口博士がこの町で書生をしていたからだそうです 私は大人になってから美談だけではない野口英世の伝記を読み直し 寄付で集まった渡米費用を見送り会ですっかり呑んでしまう人物だったと知っています ロックフェラー研究所に勤めてアメリカ人の娼婦と結婚し アフリカで研究していた伝染病にかかって死にました 町が出している観光パンフレットは堂々とこの辺りの人の気質を 頑固 実直 と言っています 私の友人はこれを 強情 愚直 と訂正したいと言っています 友人はまた 科学者が日本の紙幣に載るのは初めてでしょう とそのことに感慨深げでした 私は野口英世の死を賭した仕事が現代科学で否定された という記事を数年前に読んだ記憶がありますが それからこの町の人たちはお札に目をつけて運動したのでしょうか 今さら日本国の紙幣になるとは 不思議です 野口英世の千円札で買えば完結していますが現行の夏目漱石君二人に出て行ってもらい Dr.野口というお酒を買いました フラスコ壜の中に純米吟醸が入っています 今日撮ってきた町歩きの写真を見ながら呑みます 野口も漱石も七日町も大町通りも 文房具屋も乾物屋も 男性も女性も 呑んでしまえば皆同じになります

857文字




「狐」

 私を震撼させたことにはここにも三島由紀夫の足跡があるのでした 七日町の駅カフェから阿弥陀寺も過ぎて 渋川問屋に至ると 壁に説明板が貼り付けられていました 配線が全て壁と同じに黒茶に塗られている暗い建物です 景観保全の対象です 百年たった建物というのはそうたいそうに古いとは思いませんが 戊辰戦争でほとんど焼かれたこの町で珍しく昔の建物です 低い軒から垂れた暖簾が積もった雪に擦りそうです 案内板によるとこの建物の中には三島由紀夫が憂国の間と名づけた座敷があります その座敷で神童と近隣の誰もが認める長男が育ち やがて二二六事件に民間人として関わったそうです 遺体は菰でくるまれ荷物同然で運ばれてきたそうです 罪人ですから きっと強張った青い身体だったでしょう 貨物で町に戻ってきました それ以上のことは書かれていないのでわかりません 二二六事件は子供の時に習い それから二二六ではない三島を幾つか読んでおもしろいと思い それからもっと大人になって読み返して当時の流行作家だったのだと思いました それから読んでいません 今となってはそれほど好きでもありません ただ こうして町を歩いていてまた出会ってしまうと正直 神島にも蒲郡にもいてまたここにもいたのか と うんざりする気分を通り越してがっかりしたような次第です 建物の裏に回ると 暖簾の下から通り庭がこちらにまで突き抜けていて 暖簾の裏側から表通りが透けて見えました 風はないとはいえ雪が積もっているのに開け放しです 通り庭は背後の蔵の入口に続いています 棒鱈だの身欠き鰊だの 鯵の干物だの昆布だの 乾いて縮んだ海産物が往時は壁に添って詰まれていたのでしょう その隣の蔵は漆喰が剥がれ落ちて瓦も何枚か外れ 土に返ろうとしています その向こうに朱色の鳥居の側面が見えました 振り返るとこの庭にも小さな鳥居がありました 旅の安全や商売繁盛やそのほかにもさまざまなことを祈るのでしょう お狐様です

822文字




「箱」

 それから夢を見ました 夢の中でも雪は積もっていて町歩きは続いていました 長方形に囲まれた所にいました どこかから歩いてきてここに入ってどこかへ行く途中ですが どこへ行こうというあても特になく ここから出てもきっと同じような長方形の中に入って 歩行が続いていくでしょう 筋違いと言うのです 筋違いという町のつくりかたをされているのです 敵が攻めて来たときにまっすぐに進んでこられないように 曲がり曲がりして速度が出ないように そうして角の先に隠れて待ち伏せしていられるように そのように通りは直角に雁行していて 雁行と雁行の間に入ると 前も後ろも横も 家並みで蓋をされた長方形の空間にいるのです 固まった雪の上に立ってぐるりを見回しています 夜です 暗くてもう磐梯山は見えません スキー場の灯も見えません 暗い昔ながらの城下町がひっそりと低い軒を連ねているだけで 人がいても気配はうんと奥の方で表には私だけです 進めなくなってしまいました この町で私は敵です 私の生まれた町はここではない別の町です 私は直進できなくて留まる悪霊です 足の下で雪は冷たく冷たく 屋根の上を風が吹き抜けていって そうして身体は透明になってさくさくちぎれて 流れて外灯にまとわりついて じゅっと光りました ほんの一瞬

547文字

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