『Voices』

『Voices』

著/星見月夜

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 僕らが最初に覚えたのは、嘘を吐くことだった。

 誰かを傷つけたり、騙したりするためじゃなかった。ただ、自分の中の一番大切なものを守りたかったのだと思う。十年が過ぎた今、こうして振り返ると良く分かる。僕らは、とてつもなく意地っ張りで、同時に臆病だったのだと。

 これは、そんな臆病で意地っ張りで嘘吐きな僕らが、それぞれの持ち場を見つけられるまでの話だ。
 僕らが青年期を迎える前の、ちょっとした猶予期間の話だ。

1.


 五月の連休も終わり、桜の花びらもあらかた散ってしまった頃。高校に上がったばかりの僕は、早くも友達を作ることを諦めていた。
 中学時代もそうだったが、どうやら僕は周りのみんなより少しだけ、本音を隠すのが下手だったらしい。もっとも、これは今現在の僕が過去を振り返ってそう思うことで、当時の僕はそんなことを気にするほど殊勝な男じゃあなかった。周りが全部馬鹿に見えたし、実際その通りだと信じて疑わなかった。誰にだってそんな時期がある。そう願いたい。
 そんな訳で、僕はいつもひとりだった。休み時間には本を読んでいたし、昼休みには図書室で本を探していた。
 その男が僕に声をかけてきたのは、昼休みが終わる間際のことだった。

 高校の図書室に静寂と平穏を求めてはいけない。昼休みにもなれば、行く場のない暇人たちが大挙して押し寄せてくるからだ。人が二人集まれば会話が始まるし、三人集まれば笑い声が上がる。そんな訳で、昼の図書室は静寂ではなく活気に満ちた空間になる。
 机と椅子が並んだ閲覧スペースは、談笑のための座席に変わる。そして、本来賑わうべき本棚と本棚の間は閑散としている。図書室でなく談話室のような使われ方に、僕はいつも苛立ちを噛み締めていた。
 いつもと同じように本棚から適当に三冊の本を選び、貸出カウンターへと足を向けたときのこと。後ろの方で、「あのさ」と無遠慮な声が聞こえた。
 まさか僕が呼ばれたとも思わず、黙って数歩進んだ。すると、声の主は僕の背中をやや強めに叩いて自分の存在をアピールした。
「お前さ、二組の石田だろ? ちょっと相談に乗って欲しいんだけどさ」
 僕は振り向いて、視線で非難しながら、相手のことを確認した。
 背は僕よりショート缶のコーヒー一本分くらい低い。癖っ毛を中途半端に伸ばしているせいで、どこか鈍臭そうに見える。顔は童顔。を通り越して明らかにガキっぽい。同学年だということは、上履きの色でも分かった。
 その男は、いたずらっ子のような笑顔を浮かべながら、妙に偉そうに胸を張って立ち、僕を見上げていた。
 知ってる顔じゃなかった。僕には友達なんてひとりもいなかったが、同じクラスの人間の顔くらいはさすがに覚える。つまり、違うクラスの人間だった。
「人違いだよ」
 面倒事は御免だ。
 僕はそう言って、あっさり立ち去ろうとした。でも、男は引き下がらなかった。
「そんなに警戒しないでくれよ。ちゃんと名札を確認して声かけてるんだしさ」
 どうして高校生にもなって名札をつけなくてはならないのか、校則を恨み、それを律儀に守っている自分を恨んだ。
 僕は溜め息をひとつ吐いて、正論を口にすることにした。
「相談なら、他の人にした方が良いと思うよ。どんな内容にしても」
 誰とも分からない相手に相談しても、問題が解決するとは思えない。まして、誰とも分からない相手の相談に乗れるほど、僕は人間が出来ていない。
「いや、石田しかいないんだ! 頼むよ!」
 周囲の視線が、僕ら二人に集中した。大声で叫ぶからだ。しかも、この男の声はやけに良く通る。
 僕はまた溜め息を吐いて、手早く本の貸出手続きを済ませ、図書室から出た。図書室は話をする場所でなく、静かに本を読む場所なのだ。他の人がどう使っているかは別として、せめて僕自身は図書室に敬意を払うべきだと考えていた。
 扉を閉めて、足早に歩き出す。男は、僕についてくる。
「俺さ、三組の海老原哲《えびはらてつ》っていうんだけど、相談に乗ってくれよ」
 身長差のせいか、やや小走りになりながらも僕に食い下がってくる海老原。僕は前を向いたままで答えた。
「進路の相談なら先生にしてよ。将来への不安があるなら、ついでに聞いてくれる」
 無遠慮な男に、親切にする道理もない。
「そんな下らないことじゃないんだって!」
 ここで「話を聞くだけなら」と仏心を出すほど、僕は人情味溢れる人間じゃなかった。というより、はっきり言って冷酷だった。
「僕よりも人生経験のある人に頼んでよ」
 海老原はまだついてくる。諦めずにあれこれと食い下がって来るが、僕は全てをばっさりと切り捨てた。
「そもそも、僕を選ぶ理由もないだろう?」
「でも、石田だったら頭も良いし、いつも本読んでるし、成績も良いしさ。それに、俺のクラスの連中じゃダメなんだって」
 どうしてこの男が僕の成績を知っているのか気になったが、それを問いかけるとなし崩しに相談事まで話が進みそうだったので、黙っておくことにした。世の中には探偵めいたことをするのが趣味の人間もいる。そういった、他人の詮索が好きなタイプなのだろう。
 あれこれと言い募る海老原を無視しながら階段を上がり、北校舎と南校舎を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった。
「理想の女がいるんだ!」
 その声は、南北二つの校舎全てに響き渡りそうなほど、大きな声だった。廊下を歩く人が動きを止め、僕らに注目した。
「助けてくれよ!」
 助けて欲しいのは、僕の方だった。
「分かったから、少し落ち着いてよ」
 震える眉間を手で抑えて、搾り出すようにそう言った。
「頼むって!」
 両の掌をぴったりと合わせ、僕を拝む。どうしてここまで必死になれるのか、知りたいとは思わなかった。
 けれど、面倒事からは逃げられそうもなかった。

 彼が言うには、理想の女性がいたらしい。
「それはさっき聞いたよ」
 大声を出さないこと、騒がないこと、目立つ行動をしないことを条件に、僕は話を聞くことにした。
「石田のクラスにさ、高城梓歩《たかしろしほ》って子がいるだろ?」
 高城という苗字の女子なら、確かにいた。下の名前までは覚えていないが、顔も一応は覚えている。色白で目の細い、背の高い女子だ。黒い髪を伸ばしているのは、背が高い女子共通の、コンプレックスの表れだろう。更に酷いと猫背になったりする。
「あの子とさ、付き合いたいんだよ」
「頼めば?」
 さっき僕にそうしたように、拝み倒せば良い。あのしつこさを余さず発揮すれば、きっと大抵の女子は折れるだろう。
「そんなみっともない真似出来るかよ!」
 溜め息しか出なかった。
「初恋、って訳じゃないけどよ、こんなに好きになったのは初めてなんだよ。ああいう子が彼女だったら、きっとずっと幸せでいられると思うんだよなあ」
 窓の外、どこか遠くを見詰めながらそう語る海老原は、間違いなく夢見る乙女の表情をしていたと思う。
「他に何もいらないくらい、幸せになれると思うんだ」
 随分と都合の良いことを言う男だな、というのがこのときの偽りない本心だった。
「じゃあ、そう言えば?」
 面倒になった僕は、突き放すようにそう言った。昼休みもあと数分で終わってしまう。次の授業は移動教室なので、出来れば予鈴が鳴る前に教室に戻りたかった。
「あのな、俺は本気であの子のことが好きで──」
「本気で好きなら、言えるだろ?」
 一度は声を荒げかけた海老原も、僕の言葉の意味が分かったのか、何度も黙って頷いた。ぶつぶつと独り言を言いながら。
「思ってもない嘘で気を引くより、ずっとマシだと思うけどね」
「そうだよな! 俺もそう思うよ!」
 予鈴が鳴ったので、僕はその場を立ち去ろうとした。
「陽司《ようじ》! 俺、やってみるわ!」
 何かを言い返す気力も湧かず、黙って背中越しに手を上げておいた。

 翌日、海老原はより一層の騒々しさで、僕の平穏を乱しに現れた。わざわざご苦労なことだった。
「陽司のおかげだよ!」
 僕は黙って本の貸出手続きを済ませて、逃げ出すように図書室を後にした。背中には、たくさんの迷惑そうな視線が突き刺さっているのが良く分かった。
「要するに、上手くいったんだね?」
「当たり前だって! お前が言った通りにやって、失敗するはずないだろ?」
 そこまで過信されても困るが、とにかくこれで僕と海老原との縁は切れるだろう。そう思えば、これまでの迷惑も水に流して忘れてしまえそうな気がした。
「それじゃ、僕は急ぐから」
 手を上げて、教室を目指して歩き出す。
「それでよ、やっぱり陽司にお礼しなきゃなんねーだろ?」
 話がおかしな方向へと向かい始めた。
 聞こえない振りをしつつ、足取りを速めてひたすら歩く。海老原は後ろを小走りについて来る。まあ、教室が隣なのだから仕方ないと言えば仕方ないかもしれないが。
「つっても俺、金ないしさ。頭も悪いし、気も利かないし。何をすれば陽司は喜んでくれるんだ?」
「僕は良いから、彼女に優しくしなよ」
 何をされても迷惑なだけだ。というより、放っておいてもらうのが一番有難い。どうしてこの男はそれが分からないのだろう。頭が悪いのだろうか。本人がそう言った通りに。
 教室の前に辿り着いた。僕は扉の前で足を止め、はっきり言ってやろうと息を吸った。でも、先に口を開いたのは海老原の方だった。
「とにかく、さ」と一度区切って、「俺、陽司に感謝してるんだよ。お前は恩人だし、恩はちゃんと返すから」とはっきり言い切った。
 その口振りは妙に力強くて、今まで僕に向けられたどんな感情よりも真っ直ぐで。
「あ、ああ……」
 思わず、曖昧に頷くしかなかった。

 そして、僕はその曖昧さを数時間後に後悔することになるのだった。

 僕らの通っていた高校は、長い坂の途中にあった。その坂道は、古くは江戸時代から街道として使われていた道で、今でも所々に史跡が遺されている。山の麓から山頂までを真っ直ぐに駆け上がる坂道。その道沿いには市役所や市民会館、それにちょっとしたスーパーがあったりして、この町に住む誰もが通らずには生活出来ないような坂道だ。
 登校時は上り。下校時は下り。自転車で通う気にもなれないほど長い坂道を、僕は歩いて通っていた。

 春にありがちな、暴力的に強い風。その風に顔をしかめながら、僕は追われるように坂道を下っていた。
「待ってくれよ!」
 追われるように、ではなく、実際に追われていたのだが。
「何でついて来るんだよ」
「何でって、寂しいこと言うなよ。ツレだろ?」
 声の主は、海老原。他に僕にちょっかいをかけてくるような奴はいない。いて欲しくもない。いや、海老原がいるからと言って嬉しくはないのだけれど。
 とにかく、僕は下校時の制服の波を縫うようにして、ひたすら坂道を駆け下りていた。
「何かしらお礼しないと、俺が納得出来ないんだって!」
 迷惑だ。はっきり言って。
「また後にしてくれないかな。出来れば十年後くらいに」
「そんな先まで待ってたら、利息で破産しちまうよ!」
 別に金利を取るつもりもない。
 信号が青になるのを見計らって、いつもは渡らない交差点を渡る。わざと遠回りをするための、苦肉の策だった。
「なあ、仲良くしようぜ? 別に俺がお前に迷惑かけてる訳じゃないんだしさ」
「仲良くする気もないし、迷惑かけてるのに少しは気付いてくれないかな?」
「あはは。陽司の冗談は面白いな」
 駄目だもう。何を言ってもどうせ聞いてくれやしないんだ。きっと。
 足取りを緩めて、大きく息を吐く。少し高鳴っている胸が落ち着くのを待って、仕方なしに呟いた。
「分かった。何もしないなら来ても良いよ」
 僕の部屋に、遊びに。

 海老原が言うには、僕が喜ぶようなことをリサーチする必要があるとのことだった。そのためには親しくならなければならず、必然的に僕の部屋に遊びに行くという流れになるのだと。僕には良く分からない理屈だった。
 騒がないこと、荒らさないこと、暴れないこと。それと、夜遅くまで居座らないことを条件に、僕は渋々許可をしたのだった。
「お、やっぱり綺麗に片付いてるな」
 僕の部屋を見て、海老原はそう呟いた。当り前だ。自分の部屋すら綺麗に出来ずに、一人前とは言えない。
「それで、海老原は何をしたい訳?」
「お。良いオーディオがあるじゃん。これ高かっただろ?」
 部屋の隅にある木目調のオーディオセットに、海老原は興味津々だった。僕の話が耳に入らないほどに。
「知らないよ。父さんの趣味だから」
 元々僕の部屋は、父さんの趣味の物置部屋のような場所だった。それを、高校受験を機に明け渡してもらったのだ。なので、大きくて重い物はそのままにしてあった。
「天井のスピーカーから音出せるんだろ?」
「らしいね」
 僕は電源を入れたことすらなかったが。
「俺こんなの初めて見たよ。なあ、音出してみようぜ?」
「あのさ、海老原」
 少し強い口調で、僕は押し留めるように言った。
「何のためにわざわざ来たのさ?」
「ん? だから、陽司のことを良く知ってだな、恩返しをするためだって」
 恩返しとオーディオのどこに因果関係があるのか説明して欲しいものだ。
「別に恩とかそういうのは良いから。それより高城さんと付き合うことになったなら、そっちを大事にしなよ」
「ああ、それは大丈夫なんだ」
 海老原が言うには、高城さんは毎日習い事で忙しいらしく、決まった曜日にしか予定が空けられないのだそうだ。
「琴とか華道とか習ってる子って、本当にいるんだな」
「そういうことも調べずに告白した訳?」
 もっとも、僕も知らなかったのだが。
 とにかく、海老原は彼女が出来たのに暇なのだそうだ。
 僕はうんざりした気分で私服に着替え、階段を下りて台所から飲み物を持って来て、ガラスのテーブルを出してコップを置いた。
「なあなあ、何か面白いモンないのか?」
「海老原が面白がる物なんてないよ」
 これは嘘だった。
 実のところ、押入れを開ければ父さんの趣味の物が山のように積み上げられているし、収納スペースのほとんどは訳の分からないがらくたで飽和していた。僕にとっては鬱陶しいだけでも、海老原のような奴は喜んで家捜しを始めるだろう。そう、この部屋に入る条件のひとつを完全に無視して。
「じゃあさ、CDの一枚くらいあるだろ? 音出してみようぜ」
「ないんだ」
 これは半分本当だった。父さんのCDコレクションは隣の部屋だし、僕は実際のところ音楽に全く興味が持てなかった。CDを買うくらいだったら、文庫本の一冊でも買った方がマシだと思っていた。
「そうか、ないのか……」
 海老原は口調とは裏腹に、それほど残念そうな顔はしていなかった。
 その理由は、次の日に明らかになった。

「今日も頼むぜ、陽司!」
 放課後の教室でそう声をかけて来た海老原を、仕方なしに部屋まで連れて帰った。
「今日はCD持って来たんだ。なあ、流して良いよな?」
 にこにこと、まるでおもちゃを買ってもらった子供のような表情で、僕に詰め寄る。
「うるさくしないでくれよ」
 まるで大輪の花が開くような笑顔を浮かべて、海老原は何度も頷いた。これがかわいい女の子だったら好感も持てるのだろうが、背の低い鈍臭い男じゃあ正直嬉しくない。
 ともあれ、海老原はオーディオを遊び相手に選んでくれた。これで僕はゆっくりと読書に集中出来る。有難い限りだった。
 海老原はバッグをひっくり返して、大量のCDを床にばら撒いた。良くは分からないが、英語のタイトルばかりだった。流行の物らしいジャケットは見当たらなかった。
 主電源を入れて、CDをトレイに乗せる。再生ボタンを押して、デジタルの液晶が秒数をカウントし始める。
 最初に流れたのは、やたら早くてやたら擦れた音だった。正直、僕にはがちゃがちゃしてうるさいとしか思えなかった。
「くー! やっぱ最高だな! ウチのボロいラジカセとは大違いだ!」
「とりあえず音量は絞ってよ」
 実のところ、僕の部屋はちょっとした防音がされていた。窓ガラスは二重になっていたし、壁も床も少し厚い。なので、音漏れを気にする必要はない。でも、うるさいと読書に集中出来ないのは確かだった。
「これくらいなら大丈夫だろ? つか、これより小さいと聴こえねえよ」
 何故か不満そうな海老原。仕方なしに僕は許すことにした。あまりぶつぶつ文句を言われるのも迷惑だからだ。
 そんな訳で、僕は本を読み、海老原は独り言を言いながら音楽を聴くというスタイルが出来上がった。

 次の金曜日のことだ。
 海老原がいつものように、昼休みの図書室で声をかけてきた。そしていつものように、僕の前で両手を合わせて拝みこんだ。
「放課後、ちょっと付き合ってくれ!」
 また面倒事を持って来た海老原に辟易しながらも、断ってもどうせ無駄だと分かり切っていた僕は、二つ返事で「分かったよ」と頷いた。溜め息も付け加えて。
 そんな訳で放課後。僕は海老原に付き合わされて、駅前のファミレスにいた。
「梓歩ちゃん、お待たせ。ごめんね、ちょっと遅れちゃって」
 緩み切った顔でそう言う海老原の前にいたのは、穏やかな笑顔の高城さんだった。
「これが俺の親友。石田陽司。同じクラスだし、顔は知ってるよね?」
 高城さんは黙って頷いた。
「じゃあ、入ろうか」
 やや硬い仕草で、先頭を切って店内へと入る海老原。その後ろを付き従う僕と高城さん。
 要するに──
 付き合い始めたのは良いが、二人きりでいると息が詰まると。そういうことらしかった。全く情けないことだ。
 そして、そんな恋人同士の間に挟みこまれる僕は、とても惨めなのだった。

 高城さんは、物静かな人だった。控え目に微笑み、控え目にカップを口に運び、控え目に質問をする。それでも口調はしっかりと聞き取りやすいので、陰気には思えない。前髪を人差し指でそっと除けるのが、数少ない癖のようだった。
 海老原はそんな彼女を前にして、ただ喜んでいるだけだった。まともな会話はほとんど成立していない。話の主導を握っていたのは彼女だったし、僕は海老原をフォローする気すらなかったからだ。
 そんなちぐはぐなお茶会も、何とか一時間が経過した頃。
「ごめん、俺ちょっとトイレ」
 海老原がそう言って席を立った。
 残された僕は、気になっていたことを彼女に訊いてみることにした。
「高城さんは、どうして海老原と付き合うことにしたの?」
 正直な話、彼女は人気が高かった。スタイルも良いし、物腰が穏やかで大人びている。そんなクラスメイトに目をつけていた男子は少なくなかったはずだ。僕は別としても、高城さんに好意を寄せているという話は、ちょくちょく耳に入って来ていた。
 そんな僕の問いに、高城さんは少し考えてから、嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。
「あのね、私のことを好きだって、言ってくれたから」
「ん……? そうなの?」
「そう。だって、好きになってくれるのって、嬉しいでしょう?」
 まあ、そういうものなのかもしれない。
「じゃあ、高城さんは海老原のこと、好きなのかな?」
 海老原は、高城さんさえいれば幸せだと言っていた。なら、高城さんは?
 この物静かなお嬢さんは、海老原がいることで少しでも幸せを感じているのだろうか?
 彼女はきょとんとした表情で固まり、慌てて口を開いた。まるで、理解出来ないことに直面したときのような反応だった。
「ああ、うん。そうだよね。付き合ってるんだし。もちろん、好きだよ」
 自分に言い聞かせるような、納得させるような口調だった。
 僕は、質問をしたことを後悔していた。

 トイレから戻って来た海老原は相変わらずご機嫌だった。高城さんも、変わらず控え目で穏やかなまま海老原の相手をしていた。
 僕だけが、胃の底に何か腐ったものが溜まったような気分で、薄いコーヒーを口に運び続けていた。

 ファミレスから出て、高城さんを駅まで送り届けた後で、僕は海老原に訊いてみた。
「高城さんが、理想の女性なんだよね?」
「おうよ! 話せば話すほど好きになってくぜ!」
 興奮冷めやらぬ、といった感じだった。
「付き合えるだけで、俺は幸せ者だな! 今なら誰かに殴られても許せそうだ!」
 殴るかどうかは別として、ここまで言い切れるのなら、確かに幸せ者なのかもしれない。
 でも、僕の心の奥底には、何かがひっかかったままで残っていた。
 このときの僕は、男女の恋愛という微妙な感覚を理解し切れてはいなかったし、またそういうものに触れる機会もなかった。だからひっかかっている何かが一体何なのか、明確な答えを出せずにいた。
「あのさ、僕と一緒にいるより、もっと彼女と話をした方が良いんじゃないかな?」
 なので、ひどく退屈なアドバイスしか出来なかった。
「つっても、そうそう電話も出来ないし、梓歩ちゃんは忙しいしなあ……」
 ぶつぶつとあれこれ考え始める海老原。
「とにかく、相互理解は必要だと思うよ」

 海老原の気持ち。高城さんの言葉。その両方を知ってしまった僕は、もう本音を口に出すことは出来なくなっていた。
 どうしてだろう? 簡単だったはずだ。中学校時代のように「駄目だよ」「無理だよ」「止めた方が良い」と否定の言葉を並べれば、それで済んだはずだ。
 でも、それは出来なかった。
 このとき既に、僕は海老原のことを友達だと思ってしまっていたからかもしれない。
 そして休み明け。そのことを僕自身がはっきりと自覚してしまう出来事が起こった。

 帰りのホームルームも終わり、クラスのみんながそれぞれ思い思いの行動に移り始める。僕は読み終えた本を返しに図書室へ向かおうかどうしようか思案していた。
 と、教室の入り口に見知った顔が立っていた。海老原だ。
 僕に気付いた海老原は、堂々と教室に入り、僕の前までやって来た。
「陽司、行こうぜ。今日は新譜持って来たから、楽しみにしてたんだ」
 相変わらずの子供じみた笑顔でそう言った。
「まあ、良いけどね」
 僕は苦笑いしながら席を立った。図書室は明日の昼休みにしよう。そう考えて。
 教室の中には、もう人がまばらになっていた。僕はホームルームが終わってからしばらくは教室に残るようにしていた。下駄箱やら廊下やらが混雑するのが嫌だったからだ。
「やっぱさ、陽司の部屋くらい音響が良いと、CD買っても惜しくないよな」
 そんなことを語る海老原に、僕は肩を並べようとして──
 その視線に、気付いた。
「あの……っ!」
 高城さんだ。
 海老原は語り続けていて、気付かない。不味い、と思って、僕は海老原を肘で小突いた。
「んだよ……? あ、梓歩ちゃん!」
 あまりにも間の抜けた声に、僕は頭を抱えそうになった。この間抜けは、僕と高城さんが同じクラスだということすら忘れていたのだろうか? それに、僕と高城さんの二人を天秤にかければ、どちらが重いか考えるまでもないというのに。
「梓歩ちゃん! あー、その、今日はゆっくりなんだね?」
 慌ててそう取り繕い歩み寄っても、高城さんの表情は晴れなかった。当たり前だ。彼女にしてみれば、恋人である自分を無視して、ただの友達の僕のところへと真っ直ぐ向かい、尚且つ自分の存在に気付かず出て行こうとしていたのだ。面白いはずもない。
 海老原もその危うさに気付いたのか、あれこれと彼女の気を引くために言葉を並べた。が、その大半は彼女の耳を素通りしているようだった。
 修羅場。そんな言葉が僕の頭に浮かんだ。
「哲くん、本当は私のことなんて、どうでも良いの?」
 本の中で何度も目にした台詞。実際に耳にすると、とんでもない緊張感だ。
「いや、そうじゃなくてさ! 今日はたまたま俺のテンションがおかしくて、なんつーか、その……」
「私のこと好きだって言ってくれたのに、私よりも石田君の方が好きなの?」
 妙に芝居じみた言い回しに、僕は眉根を寄せた。
「たまにしか逢いに来てくれないし、放課後はいつもいないし、お昼だって……。せっかく付き合ってるのに、不安だよ」
「だから、その、梓歩ちゃんは忙しいみたいだし、負担かけても迷惑かなって……」
 聞いていられない。出来ればこのまま黙って教室を出て行きたい。実際、僕ら三人を除いた他のクラスメイトは、さっさと教室から退散してしまっていた。
「もっと私のことを考えて欲しいのに」
「考えてる! 毎日毎日眠れないくらい考えてるって!」
 あまりにも嘘臭い言い分だが、それを判断する冷静さを海老原に求めるのは酷だった。
「じゃあ、どうしていつも帰りに誘ってくれないの?」
「いや、そのさ、実はそれには訳があってですね……」
 訳も何も、いつも僕の部屋に入り浸ってギターががちゃがちゃうるさい音楽を聴いてるだけじゃないか。鼻歌混じりに。
「ば、バイト! 始めたんだ!」
「アルバイト……? どうして?」
 どうして。僕もそう思った。どうしてそんな嘘を吐くのだろうか。この馬鹿は。
「その、金貯めてさ、先になるかもだけど、二人で旅行とか行けたらなーって」
 海老原の苦しい言い訳に、高城さんは疑わしげな顔を浮かべていた。さすがに通らないだろう、そんな出任せ。
「な! 陽司! お前とはバイト先まで一緒に帰ってるだけだよな!」
 おい! 僕に振るなよ!
 そう思った途端に、高城さんの目が僕に向けられた。半分泣きそうなくらいに潤んだ、いつもよりも更に細くなった目。
 このとき、僕は不意に理解してしまった。高城さんが、何を思って哲を問い詰めたのか。その訳を。
 彼女は結局のところ、自分が大切で仕方ないのだ。だから、自分を大切にしてくれそうな人とは簡単に付き合うし、大切にしてくれないなら糾弾する。相手なんて誰だって良いのだろう。ただ、優しくされていればそれで構わないのだ、と。
 もしかしたら、それは多分に悪意に満ちたものの捕らえ方なのかもしれない。でも、一度そう思ってしまえば、全てに合点がいった。いつかのファミレスでの会話にも、ついさっきまでの芝居じみた台詞回しにも。
 僕は、海老原にそのことを伝えようと思った。この女は、ただ悲劇のヒロインを気取っているだけなんだ、と。お姫様体質の、下らない女なんだ、と。
 お前のような男には、似合わないと。
「陽司」
 その声で、僕は現実に引き戻された。
 高城さんの、潤んだ瞳が視界に映っていた。震えていた。きっと海老原も震えている。僕の言葉ひとつ、声ひとつで、二人の関係が変わってしまうことに怯えている。
 海老原が望んでいること。僕にのみ、望んでいること。それは、誰かを傷つけることじゃなかった。
 僕は溜め息を吐いて、作り笑いを浮かべた。
「そう。海老原は、高城さんのために、バイトをしてるんだよ」
 僕がそう言うと、高城さんは海老原の顔を見た。ここからは見えないが、多分海老原はあらん限りの力を使って真剣な表情をしているのだろう。
「そうなの……?」
 ぶんぶんと、滑稽なまでに何度も首を振り、頷いている。首がムチウチ症にならないだろうかと本気で心配になった。
「お、俺は! いつでも梓歩ちゃんのことを大事に思ってるよ! 一番だよ!」
 二番がいるのか、と突っ込まれればまた修羅場に逆戻りしてしまう言い訳も、何とか咎められずに済んだようだった。高城さんは目尻をそっと指で拭って、笑顔を浮かべた。
「ごめんね。私、少し焦ってたみたい」
「いや、良いんだよ! 秘密にしてた俺が悪いんだから!」
 何とか誤魔化し通せたらしい。二人は顔を綻ばせながら、旅行の計画についてあれこれと話を始めた。
 僕はただ、二人の話が終わるまで教室の出口にぼんやりと立ち尽くしていた。そして、考えていた。ひょっとしたら、僕が間違っていたのかもしれない、と。幸せそうに語り合う二人には、醜い感情の欠片すら見えない。きっと誰が見ても、理想の恋人同士に見えるだろう。
 僕は、二人を傷つけるところだった。
 海老原の声が、それを留めた。それが悔しかったし、同時にひどく安堵をもした。
 海老原の笑い声が、廊下にまで響いていた。

 自分の部屋に入ると、鞄を投げ出して、ベッドに身を投げた。海老原も、へなへなとその場に膝をついた。教室を出てから今まで、お互いに一言も口を開いていない。
「疲れた」
 僕がやっとの思いでそう口にすると、海老原も同じことを口にした。「疲れた」と。
「お前のせいで、僕まで嘘吐きになった」
 何がバイトだ。僕の部屋でごろごろしているだけの癖に。
「いや、俺が上手くやるから。陽司を嘘吐きにしたんじゃ、俺の気が済まない」
「どうするのさ?」
 海老原は長い間考えていた。考えて考えて、答えが出たのか出ないのかはっきりしないまま、オーディオの電源を入れた。
 結局のところ、この男は何も考えていないのだ。
 それにしても、と僕は思った。
 とっさのこととはいえ、どうしてあそこで本当のことを言わなかったのだろうか、と。わざわざ嘘を吐いてまでこの男を助ける必要はあったのだろうか。そこまでする理由が、僕にあったのだろうか。
 カーペットの上に寝転んで音楽に耳を傾ける海老原。さっきまでの冴えない表情も、少しずついつもの調子に戻りつつある。全く、気楽なものだ。
「陽司、ありがとな」
「別に良いよ」
 やっぱり、僕にとってこの男は友達なのだろう。そうとしか言えなくなってしまったのだから、仕方ない。
「で、どうするのさ?」
「大丈夫だって」
 説得力のない言い分に苦笑しながらも、何とかなりそうな気がしてきたのだった。

 翌日に海老原が持ち込んだのは、アルバイトの情報誌だった。
「嘘も突き通せば本当になるだろ?」
「順番がおかしいけどね」
 要するに、「吐いた嘘は本当にしてしまおう」ということらしい。まあ、なかなか悪くない。この男にしてはマシな案だろう。
 あれこれ独り言を言いながら、ページをめくっている。そもそも、高校生でも大丈夫なところなんてそうそうあるのだろうか。
「本当に高城さんと旅行に行くつもり?」
「まあ、無理じゃないか? 梓歩ちゃんの家、いろいろ厳しいみたいだし」
「じゃあ、金稼いでどうするのさ?」
「それもちゃんと考えてある」
 妙に自信に満ちた口調で言った。目は情報誌に向けられている。表情まではうかがえない。
「遊ぶ金欲しさ、って訳じゃないから安心してくれ」
 親御さんに言っても信じてはもらえないような言い訳に、僕はとりあえず騙されておくことにした。

 CDを二度替え、麦茶の作り置きを終わらせた頃、ひとつの店が候補に上がった。
「ここ、良いと思わないか?」
 海老原が指差したのは、楽器店だった。
「専門的な知識とか必要じゃないの?」
 言いながら目を走らせると、「興味のある方、募集!」と書いてあった。それ以外は連絡先と時給、それに店の名前だけだ。実に簡素で怪しい、出来れば避けたいような求人。でも、海老原は目を輝かせてそこに赤ペンで丸印をつけた。薄く質の悪い紙が、ぐしゃぐしゃに歪むくらいに強く。
「働きながら覚えりゃ良いんだろ? やってやるって!」
 妙にやる気を出して、鞄の中から大判の封筒を取り出した。
「それは?」
「履歴書。必要だろ?」
 ご丁寧なことに、いつ撮ったのか証明写真までも用意されていた。気の早い男だ。
「すぐ書いてすぐ電話して、すぐ行くから」
 ガラスのテーブルの上で、ボールペンを小気味良く走らせる。意外と字が綺麗なことに少しショックを受けた。
 僕はそんな海老原を放置して、アルバイト情報誌を手に取った。「フォー・シャープ」というのが店名らしかった。良くは分からないが、とにかく高そうだ。値段も。
「今日からだって働いてやるぜ」
 息巻く海老原。僕はカレンダーに目を向ける。五月十六日、火曜日。この時期にある重大なイベントを、この男は忘れている。
「よし書けた! 陽司、電話貸して!」
「あのさ、言い辛いんだけど」
 僕は立ち上がり、カレンダーに指を当てた。来週の月曜日、二十二日から横に指を三日分滑らせて、
「中間テスト」
 とだけ端的に告げたのだった。

 結局、海老原は履歴書とアルバイト情報誌を鞄に仕舞い、電話はテスト明けにすると言った。成績やら進路やらはともかく、テストの結果次第では補修も有り得る。僕がそのことをゆっくり分かりやすく丁寧に説明すると、さすがの海老原も納得してくれた。
「一緒に勉強する?」
「いや、何とかなるだろ」
 僕の仏心はあっさりと受け流され、しゃがれた雑音みたいな音楽を背景にして、僕はテスト勉強をすることになったのだった。


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