『Voices』(2)

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2.


 僕にとっては無事に、そして僕の友達にとっては何とか安全に、中間テストは終わった。そして、海老原は「フォー・シャープ」でアルバイトを始めることになった。
「面接って、意外と簡単なんだな」
 そう言いながら笑ってはいたが、どう考えてもまともな受け答えが出来たとは思えなかった。
 ともかく、海老原はバイトを始めた。週に二度、月曜日と木曜日だ。おかげで僕は週に二日間は確実に穏やかな時間を約束された訳で、その点だけをとって見れば「フォー・シャープ」の店長に感謝をしたいくらいだった。

 海老原が僕の部屋に出入りするようになって、だいたい一月が経った頃。この頃から僕は、海老原のことを下の名前で呼ぶようになっていた。どんな心境の変化があったのかは分からない。もしかしたら、僕が海老原のことを友達だと認めたときから、いつかはそうしようと決めていたのかもしれない。良くは覚えていないが。

「哲」
 いつものように、僕の部屋に二人。それぞれに思う通りの過ごし方をしているとき。ふと気になったことを口に出してみた。文庫本から顔を上げずに。
「バイトして、お金貯めて、どうする気?」
 哲はうつ伏せで歌詞カードと睨み合ったまま、うめくような声で返事をした。
「家に入れたりするの?」
「まさか」
 今日のBGMは、何とかというイギリスかどこかのロックバンドのものらしい。あれこれと一生懸命説明してくれたが、未知の単語は覚えるのに時間がかかるし、覚えておいても役に立ちそうもない知識だったので右から左に受け流しておいた。
「俺さ、なりたいモンがあるんだよ」
 ぼそぼそと、ギターの音に負けそうなほど弱々しい声。相変わらず、英語ばかりの歌詞カードと奮戦しているのだろう。その努力の何分の一かを勉強に向ければ、補修すれすれなんていう綱渡りなテスト結果は残さなかったに違いないのに。
「ギタリストになりたいんだ。ジミー・ペイジとか、ジミ・ヘンドリックスみたいなさ。今は確かに古臭く聴こえるかもしれないけど、ああいう人たちが今の音楽の根っこを作ったんだぜ? そういうの、憧れないか?」
「どうだろうね」
 そもそも僕はジミーなんちゃらを知らなかった。というか、どうして引き合いに出した二人が二人とも「ジミー」なのかも分からなかった。
「俺がいろんな音楽聴いてるのもさ、いつかギター一本で出来ること全部やりたいからなんだ。そのためには、今ある曲がどんなのか覚えなくちゃならないだろ?」
「つまり、」と、僕はここで本から顔を上げて哲の方を向いた。
「つまり、哲はバイトをしてギターを買って、ギタリストになるために練習したいってこと?」
「そうなるな」
「へえ」
 僕は本に視線を戻した。というのも、哲は変わらず歌詞カードに噛り付いていたからだ。そこまで言うなら邪魔はしない。それに、何かしら目標があるなら、他人がどうこう口を挟む問題でもない。そう思ったからだった。
「買うギターも決めてある。昨日、店で選んだんだ」
 店、というのはバイト先でもある「フォー・シャープ」のことだろう。仕事中にそんなことをしていたのかこの男は。
「で、そのこと高城さんには話したの?」
 ここで、哲の体が少し固まったのが分かった。言ってないな。直感的に僕は分かってしまった。全く、これじゃあいつかの二の舞じゃないか。
 哲はしばらく黙り込んでから、体を起こした。
「やっぱさ、言わないと不味いかな?」
「不味いだろうね」
 何度も似たようなことでフォローをするのは、僕だってごめんだ。
「でもよ、こういう話って女の子は嫌がらないかな?」
「こういう、って?」
「夢とか、将来とか、そういう不確かな話だよ。一流企業に入ってサラリーマンになるって方が、まだ受けが良くないか?」
 考えてみた。でも、分からなかった。
 そもそも、僕は誰かにそういった漠然とした将来の話をされたのも初めての経験だったし、僕自身将来に対して明確な何かを持っていた訳でもない。それに、女の子の好みなんて分かるはずもなかった。
「思う通りにしたら良いじゃないか」
 言った後、まるで父さんのようだな、と思った。僕の父さんは時折、そういう突き放すような言い方をしたからだ。
 哲は泥の中を泳ぐような鈍い仕草でオーディオの前まで行き、CDを替えた。流れ出したのは、ギターが妙に寂しそうに鳴っている曲だった。静かで、気分が沈んで行く感じだ。
「どうすっかなあ……」
 ちらりと横目で伺うと、哲はあぐらをかいたまま首を垂れていた。背中が哀愁を漂わせている。
「なるんだろう? ギタリストに」
 僕がそう言うと、哲は立ち上がった。
「なる!」
 曲に歌が入り、泣きそうな声で誰かが何かを唄っていた。

 哲はその晩、高城さんに電話をしたという。でも結局、言い出すきっかけが見つけられなかったらしい。多分嘘だ。根性がなかっただけだろうと思っている。
 そんな風にして哲はアルバイトを始めたのだけれど、相変わらず僕の部屋に入り浸り続けていた。
 そして、予想していた通りに高城さんがまた哲を問い詰めたのだった。

 哲に拝まれ、連れて行かれた先はいつかと同じファミレスだった。中に入り、待ち合わせていた高城さんを探し、二人で席に着く。
「ご、ごめんね梓歩ちゃん。ちょっと陽司と約束があって……」
 馬鹿、と僕は思った。ただでさえ哲の隣に僕がいることを快く思っていないはずなのに、今の台詞は明らかに失言だ。高城さんの細い目が、更に細く引き絞られた。
「ちゃんと説明してくれるよね?」
 鳥肌が立つくらい迫力のある言葉に、哲が背筋を真っ直ぐに伸ばした。僕でさえ、居住まいを正したほどだった。高城さんがこれほど感情を表に出すのを、僕は初めて見た。
「えーと、つまりですね……」
 何故か敬語になりながら、哲は落ち着かなく視線をさ迷わせている。気持ちは分かる。情けなくて惨めで格好悪くても、気持ちは良く分かる。僕が当事者だったら逃げ出してしまいたいくらいだ。
 今回高城さんが腹を立てているのは、アルバイトで忙しいからと言いながら、相変わらず僕の部屋に足しげく通っているのが発覚してしまったからだ。それは事前に聞かされていた。そもそもは、哲の口の軽さが起因しているのだが。
 自業自得。そう思ったが、こうして連れ出されれば他人事だと笑えはしないのだった。
「勉強をですね、している訳でして」
 蚊の泣くような細い声で、哲は苦しい言い訳を搾り出した。終わった、と僕は半ば諦めかけた。しかし、意外なことに高城さんはこれに食いついてきた。
「そういえば、石田君って成績すごく良かったよね?」
「え? ああ、いや、それほどでもなかったような……」
 突然僕に振られたので、柄にもなく慌ててしまった。
「そう! こいつ成績だけは良いからさ、分からないとこ教えてもらってるんだ! 実は中間テストのことで親にみっちり怒られちゃってさ!」
 後半は本当のことだった。
「期末で平均以上取らないと、バイトも辞めなくちゃならなくてさ! だから、ほら、頑張ろうかなーって……ね?」
 哲が苦しい言い訳をしている間も、高城さんの目は僕をじっと見据えていた。僕はこの目が苦手だった。というのも、彼女は常に誰かに何かを期待しているような節があったからだ。僕にまで何かを期待されても、応えられる保証はどこにもない。
 哲が空気に押し潰されたように口を閉じたのと、高城さんがゆっくり口を開いたのが同時だった。
「石田君、今のこと、本当?」
 ひとつひとつの言葉を区切るように、はっきりと、僕に問いかけてきた。目を逸らさないままに。
 喉が音を立てて鳴った。十六年の人生で、最大のプレッシャーだった。
 僕は何とか息を吸い込んで、早鐘を打つ心臓を黙らせるように、一言だけ搾り出した。
「……はい」
 もしも神様がいるなら、こんな試練をこの先どれだけ用意しているのだろう。そんな人生の不安を宗教的に考えてしまえるくらいの間を置いて、高城さんは大きく頷いた。
「それなら、今回は許してあげる」
 僕と哲は顔を見合わせた。哲の顔が滲んで良く見えなかった。ありがとう神様。僕はまだ強く生きていけます。そう思った。
「ただし」
 思った瞬間、僕らの時間は止まった。
 高城さんがカップを口に運び、ソーサーに戻す。コマ送りのようにその動作が目に焼きついた。
「哲くんは、毎週日曜日は絶対に私とデートすること。破ったら、もう知りません」
 おや、と僕は思った。彼女のこういった言い回しは、初めて聞いたからだ。相変わらず自分を大切にする高城さんだったが、ほんの少し変わろうとしているのかもしれない。そんな気がした。
 そして、彼女を少しずつ変えようとしているのは、きっと哲なのだと、何となく分かった。
「する! 絶対するから! 予定なんて入れないから!」
 その張本人は、滑稽なまでに首を縦に振っていた。壊れたおもちゃのように、何度も。

 高城さんと別れて、僕らはいつも通り僕の部屋へと逃げ込んだ。
「また嘘吐きになった」
 恨めしい気持ちで僕がそう言うと、哲は気にもせず、
「嘘から出た真って、便利な言葉だよな」
 と真剣な顔で言った。その思想は危険だと、本気で思った。
 ともあれ、僕らはまた嘘を吐いた。
 例えばあそこで本当のことを包み隠さずに話したとして、誰が良い気分になっただろう。些細な満足感は得られたかもしれない。でも、僕は友達をひとり失うことになったかもしれない。いや、本当に友達のことを思うなら、嘘なんて吐くべきではなかったのかもしれない。分からない。分からなかったが、僕はまた嘘を吐いた。でも、悪い気分じゃなかった。
「ギタリストが云々って話、もうしたの?」
「まだしてない」
 結局、彼女にそのことを話すのは、随分先のことになるのだった。

 とにかく、哲が僕の部屋で真面目に勉強をするようになった。

 哲は、驚くほど真剣にノートにペンを走らせていた。分からないことは積極的に僕に質問をし、やがてその回数も減っていった。参考書や問題集を持っていなかった哲は、僕の物を借りてまで勉強を続けた。手を休める度に、何故か細かく震えて。良く分かる。多分、高城さんが怖かったのだろう。僕だってそうだった。
 物静かなお嬢様のお怒りに、僕ら二人は刃の上に立つような心境でひたすら勉強を続けたのだった。

 そんな毎日の中でも、哲は変わらず月曜と木曜にはバイトに行ったし、日曜日には高城さんとのデートを忘れることはなかった。律儀な男だ。

 七月に入り、長い雨の季節が本格的に始まった頃。哲は何とか平均を上回る学力を身につけていた。当時の僕は、ほんの少し感動したものだった。人間やれば出来ると、本心からそう思った。
 そして期末テスト。結果が発表され、学校の全員に結果をまとめた小さな紙片が配られた。

 放課後の教室では、それぞれに紙片を持ち寄ってあれこれと話がされていた。あれが良かった、これが悪かった。勝った、負けた。そんな話だ。
 僕は下らないと思いながらも、誇らしい気持ちを抑えられなかった。総合ではまあまあだったが、化学と数学の二教科では首位を獲得していたからだ。
「陽司! どうだった?」
 僕に声をかけてくるのは、哲以外にいない。
「僕のことより、哲はどうだったのさ?」
 哲は不敵に笑い、堂々と僕の机の上に紙片を叩き付けた。
「どうよ?」
 悪くなかった。というよりも、かなり良かった。現代文と英語が特に抜きん出ていて、もう少しで一桁の順位に食い込めそうな位置だった。苦手だった化学だって、きっちり平均点を上回っている。上出来だった。
「哲くん、そんなに良かったの?」
 その声に、僕ら二人は思わず身を強張らせた。奴が来た。小さく心の中でそう呟いた。
「あ、すごいね。私より良いのもある」
「え、本当に? 俺、頑張っちゃった?」
「頑張った頑張った。これも、石田君のおかげだよね」
 高城さんの穏やかモードの対応に、僕も哲も緊張を解いて会話を続けた。
「いや、でも哲は頑張ったよ。こんなに出来るなら、中間のときもやっておけば良かったのに」
「それがさ、俺が一番驚いてたりしてな!」
 嬉しそうに声を上げて笑う哲に、高城さんが優しい視線を向けていた。
「で、陽司は?」
 促されて、僕は結果の記された紙を哲に手渡した。と、哲の動きが固まった。
「……なんじゃこりゃ」
「どれ? わ、すごいね……」
 まるで珍獣を見るように、紙片と僕とを交互に見ている。それも、二人して、だ。
「総合一桁って、どういうことだよ……?」
「石田君って、こんなに頭良かったんだ?」
 何故か、二人が半歩ほど遠ざかったような気がした。
「ここまで良いと、嫌味としか思えんわな。どう思う梓歩ちゃん?」
「何でこの学校に来たんだろうね」
 尚もぶつぶつと言い募る二人に、僕は盛大な溜め息を返してから、紙切れを奪い返した。
「努力の成果だよ」
 恐怖は時に、人間を努力へと導く。それがこのときの教訓だった。

 その日は三人でいつものファミレスに行き、ほんの少し和やかな雰囲気で時間を過ごした。開放感と高揚感が、僕らの間に親密な空気を作り出してくれたのかもしれない。
 それに、夏休みが近いのも理由のひとつだったと思う。

 期末テスト絡みのあれこれも終わり、球技大会というささやかなイベントも無事終わり、夏休みまで指折り数えるくらいになった頃、哲が真剣な表情で僕に言って来た。
「いつになってもギターが買えそうにない」
 知らない。そんなことは関係ない。久し振りに頭を抱えたくなりながら、僕は角の立たない言い回しを考えていた。
「そう焦ることもないんじゃない?」
「週に二日、一度に四時間程度のバイトじゃあ給料なんて知れてるんだよ!」
「声が大きいよ……」
 興奮すると声が大きくなるのは、哲の悪癖の最たるものだと思う。また声が異常に良く通るのも問題だ。未だに僕の両親から何一つ言われないのが不思議なほどに。
 哲がこんなことを言い出したのにも理由がある。目星をつけていたギターが、売れてしまったらしいのだ。良いものに目をつけるのは、何も哲ひとりじゃないということだろう。それに、売り物を売るのは何らおかしいことじゃない。店としては当前の姿だ。けれど、自らレジ打ちをしなければならなかった哲の心情を考えれば、フォローのひとつもしてやりたくなるというものだ。
「学生なんだから、仕方ないだろ?」
 僕らは勉強が本分で、高い買い物をするために学校に通っている訳じゃない。
「俺のレスポール……。ワインレッドのレスポール……」
「鬱陶しいなあ……」
 めそめそとしている男なんて、見たくない。
「夏休みに頑張れば良いじゃないか」
「店長に相談したら、他の奴が先に言って来たからって」
「出遅れたのね」
 まあ、こういうのは早い者勝ちでも仕方ないのだろう。
「何か探すしかないんじゃないかな? それなりのバイトを」
「電話しまくったけど、夏休みの間だけって言うと電話切られるんだ」
「それはそうだろうね」
 全く、正直というか不器用というか。
「それに、週に三日は梓歩ちゃんと逢う約束してるし」
「ああ、うん。頑張って」
 それに関しては、僕は何も言うまい。
 あれこれと話し合っている内に、気がつけば夕暮れも過ぎていた。時計を見ると、そろそろ夕食の時間だ。
「哲、ご飯食べてく?」
 この頃になると、哲はなし崩し的に夜遅くまで僕の部屋に居座る日が増えてきていた。お互いに慣れてきたのもあるし、僕の両親が哲のことを気に入ったのも理由のひとつだった。あまりに遅くなった日は、父さんが車で送ることもあったくらいだ。
「いや、今日はいいわ。本屋寄って求人情報誌買って帰る」
 哲が重くなりすぎた腰を持ち上げたとき、部屋の扉が開いた。父さんだった。
「お邪魔してます」と哲が挨拶をする。見た目に似合わず、こういう礼儀だけはちゃんとしているのが哲の数少ない美点だった。
「何だ、帰るのか? 飯食って行けよ」
「や、今日はちょっと……」
 語尾を濁す哲に、父さんが訝しげな表情を浮かべた。
「哲がね、バイト探してるんだってさ。夏休みの間だけの」
「そうっス。で、求人情報誌買って帰ろうかなって」
 力なく笑う哲。父さんは右手で顎の辺りを擦りながら、少し考えて、言った。
「それなら、俺の仕事手伝うか? それなりの給料は払えると思うんだが」
「ホントっスか!」
 僕は、哲の安直さに溜め息が出た。父さんがどういう仕事をしていて、どんなことを手伝わされるのか、全く考えていないのだ。
「丁度現場が立て込んでて、手伝いを借りようとしてたんだ。丁度良い、陽司も手伝え」
「僕も?」
 突然の命令に、驚きが隠せなかった。というよりも、嫌だという言葉が出せなかった。
「お前が一緒の方が、哲君も気楽だろう? それに、最近全然手伝ってくれないじゃないか。たまには体を動かせよ」
「い、いやだ。夏休みは図書館に通って本を読むんだ」
 腰が引けるのを隠すように、大きく手を振って拒否をした。確かに中学校の頃は時々手伝ってはいたが、完全に強制だったのだ。望んで手伝ったことなんて一度もない。臨時でお小遣いが貰えるのは、まあ、嬉しかったが。
「陽司、一緒にやるよな! で、親父さん。何を手伝うんっスか?」
 今の父さんの格好は、明らかに仕事帰りの作業着のままで。妙に裾が広くなっているスボンに、所々ペンキのようなものがついたシャツ。日焼けした体、太い腕、指、厚い掌。
「簡単だよ。家の、内装だ」
 要するに、僕の父さんは職人で一人親方なのだった。

 後先考えない哲の行動のおかげで、僕まで父さんの仕事を手伝うはめになってしまった。それも、夏休みの間ずっとだ。
 哲は喜んでいたし、体を動かす仕事は向いているようだった。でも僕は違う。そもそも体を動かすのが得意だったら、学校でも部活のひとつくらい入っている。その辺りを父さんも哲も少しは思い遣って欲しいものだった。
 真夏の暑い空の下、ろくに換気もされない出来立ての家の中で、壁紙を貼ったり天井にボードを貼ったり。おかげで夏休みが始まってから数日、僕は筋肉痛で寝起きするのも辛いほどだった。
 哲は週に三日、午前中だけ高城さんと逢い、「フォー・シャープ」でのバイトも今まで通りに続けた。それでいて父さんの仕事をしっかりと手伝えるのだから、大したものだった。
「運動すれば少しは背が伸びるかもしれないだろ?」
 どうやら身長のことを気にしているらしかった。
「なら、毎日牛乳でも飲めば良いよ」
 捨て鉢にそう言い捨てると、哲はまたぶつぶつと何かを考えていた。実践するのだろう。
 とはいえ、筋肉痛も治り、夏休みも半ばに差し掛かれば仕事にも慣れるもので。昼間は現場で父さんを手伝い、夜は勉強をするという生活サイクルが出来上がっていた。
 Tシャツの形の日焼け後が出来た頃、長かった夏休みも終わりに近づいてきていた。

 父さんからのバイト代は、思っていた以上だった。簡単に使うのが躊躇われる額だ。
「ま、おかげで現場も早く終わったしな」
 そう笑う父さんだったが、僕は何だか申し訳ないような気がしていた。
 そもそも、僕らはまだ学生なのだ。基本的な体力も、技術も、本職には程遠い。それなのに、こうもしっかりと賃金を貰って良いものだろうか。
 僕がそう言うと、父さんは更に笑って、こう言った。
「そう思うなら、次はもっと気合入れてやるんだな」
 でももう手伝うのはごめんだと思った。
 そして、僕の手元にバイト代が入れば、当然同じ額が哲の手元にも届く訳で。
「陽司! ギター買いに行こうぜ!」
 満面の笑みを浮かべてそう言う哲に、僕は苦笑しながら頷いたのだった。

 八月三十一日。夏休みの最終日。僕と哲は、二人で「フォー・シャープ」を訪れた。
「そういや、陽司は初めてか?」
「そうだね。ここにあるのは知ってたけど」
 駅前通りの雑居ビルの二階に「フォー・シャープ」はあった。それなりに広いフロアに、所狭しと楽器が並んでいる。金色に光る管楽器に、ドラムのセット。たくさんのギターと、良く分からない小箱のような物。ガラスケースに入っているのは、どれも値札のゼロがひとつ多かった。楽譜や入門書、それにCD。
「もう決めてあるんだ。店長に取り置きしてもらってある」
 スキップでも始めそうなくらい軽やかな足取りで、哲が棚の間を進む。僕は黙って後ろをついて行った。
 哲が足を止めたのは、店の一番奥にあるガラスケースの前だった。
「これ! この真っ赤なSG!」
 哲が指差しているのは、まるで二本の曲がった角が生えているようなギターだった。言った通り、色は真っ赤だ。他の物と比べても、派手な色合いなのは僕でも分かる。
「てんちょー!」
 哲は呼びなれた口調で店長を呼びながら、奥へと消えて行った。残された僕は仕方なくその場で辺りを見回すことにした。
 まるで知らない世界に迷い込んだみたいだった。僕が読書や勉強で溜め込んだ知識が、全く通用しない世界。ここにいる限り僕はただの素人の愚か者で、無知で、迷子のようなものなのだと思った。
 だから、それが心地良かった。
 ギター一本取っても、それぞれ種類がある。色、形、弦の本数、メーカー。どうやらそれぞれに名前がついているみたいだ。哲がさっき言っていた「SG」というのもそのひとつらしい。以前は確か、「レスポール」とか言っていた。
「陽司! 鍵借りてきたぜ!」
 哲は鍵束を誇らしげに掲げながら、小走りで戻って来た。というか、仕事中でもないのに、勝手に開けて出して良いのだろうか。
 ガラスの扉をスライドさせる。ガラスが擦れる独特の音が耳についた。哲はお目当てのギターに手をかけ、まずは貼り付けてあった「売約済」の札を剥がした。
 丁寧に、慎重に握り締め、抱きかかえるようにして棚から取り出した。
「……最高だ!」
 値札を見て、僕は驚いた。父さんがくれたバイト代が、ほとんど全部消えてしまう金額だった。
「奥でケースに入れてくるから、ちょっと待っててくれよ!」
 店中に響きそうなくらいの声で、哲は喜んでいた。それを見て、何だか僕まで嬉しくなってしまった。長く辛かった夏休みの疲れが、一気に吹き飛んだ気がした。
 ガラスケースに再び鍵をした哲は、ギターを抱いて駆けて行った。
 その背中を見て、僕は何だか羨ましくなったのだった。

 その日、哲は夜遅くまでギターを弾いていた。一冊だけ買った教本と格闘しながら。もちろん、僕の部屋で。
「やっぱ、練習しなきゃな」
 最初から上手くいくはずもなく、哲の出す音は情けないものだった。でも、とても楽しそうにギターを抱いていた。
 夜。僕の部屋でギターを弾く哲。僕は微笑ましく思いながら、本を読み続けた。

 そして僕らの夏休みは終わった。

 余談になるが、哲は夏休みの宿題を一切やっていなかった。
 それはそうだろう。「フォー・シャープ」でのバイトと高城さんとのデート、それに父さんの仕事の手伝いまでやっていては、時間なんて足りやしない。
 そんな訳で、哲は新学期早々先生に怒られ、僕の部屋でギターに手が伸びそうなのを堪えながら、泣く泣く宿題を処理する作業に追われることになったのだった。

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