『Voices』(3)
3.
「バンドを組む?」
あまりにも唐突で性急な宣言に、僕は改めて哲の浅はかさを噛み締めることになった。
二学期が始まって、まだ数日。進路診断という名目のテストも終わり、哲もやっと夏休みの宿題から解放された日。哲は実際、まだ数時間しかギターを抱いていなかった。
「実は、もうメンバーも集めてあるんだ。それに、申し込みもしておいた」
「申し込みって、文化祭の?」
哲はギターを抱き締めながら、誇らしげにそう言った。蛮勇はいつも誇らしく見える。
「まだ一ヶ月近くあるし、何とかなるだろ」
それがどれほど無謀なことなのか、僕にすら理解出来た。
「でも確か、僕らの学校には軽音楽部があったよね?」
文化祭といえば、文科系の部活の、年に一度の晴れ舞台。その中に素人の哲が乱入して、どうにかなるものなのだろうか?
「あんな奴らはクソだ」
吐き捨てるようにそう言った。
詳しく聞くと、どうも入学当初の仮入部期間に顔を出して、手酷く馬鹿にされたらしい。初耳だった。
「音楽やるのに、身長だの顔だのが関係あるかってんだ」
忌々しげに嫌悪感をあらわにする哲に、僕は何も言葉をかけなかった。
「今日だってそうだ。生徒会室に申請に行ったら、たまたま顔合わせちまってよ。下らねえこと、また言われた」
クソだ、と繰り返した。
「とにかく、練習することだね」
僕は一歩引いた意見を言って、本を手に取った。
「馬鹿にされたって、下らないこと言われたって、良い演奏が出来なかったら同じだよ」
「まあ、そうだよな」
哲はしばらくぶつぶつと言っていたが、伸び始めた前髪を雑にかき上げてから、また真剣にギターと向き合った。
CDをかけ、楽譜を見て、ギターを弾いて、またCDをかける。月末の文化祭の、たった三曲の演奏。毎日ギターや他の楽器を演奏している軽音楽部の連中にとってみれば、容易いことなのかもしれない。でも、哲にとっては違う。数日前にギターを初めて買って、何もかもをこれから始めるところなのだ。
「ちっきしょ……」
苛立ちを噛み締めるように吐き出す小さな言葉には、焦りも混じっていた。
文化祭まで一ヶ月。それでも授業は通常通りにある訳で。
夏休み直後のテストの結果が配られ、教室のあちこちでいつも通りの悲喜こもごもが繰り返されていた。
僕の結果は、前回の期末テストより少し悪くなっていた。考えてみれば当たり前のことかもしれない。あれだけ肉体労働に従事したんだ。勉強が疎かになっても仕方ないじゃないか。
でも、悔しかった。
同じように、哲も成績を崩していた。そりゃあもう、酷いものだった。いくら今回の結果は成績に反映されないとはいえ、危機感を持ってもらいたいほどだった。
それでも哲は気にせず、僕の部屋でギターを練習し続けていた。いつになく真剣に。
そして、そんな哲を横目で見ながら、僕は胸にヤスリを押し付けられたような感覚を味わっていたのだった。
二学期が始まって二週間が経った頃、哲はまた高城さんを怒らせた。三度目だった。
帰りのホームルームが終わってすぐ、僕は借りていた本を返しに図書室へ向かった。そして返却手続きを済ませ、代わりに三冊を見繕って、教室へと戻った。月曜日は哲がバイトなので、ゆっくりと本を読むことが出来る。軽い足取りで教室へと踏み込むと、見知った二人が向き合って立っていた。触れれば切れそうなほど張り詰めた空気に、体が硬直してしまった。
高城さんと、哲だった。
例によって例の如く。そんな言葉が頭に浮かんだ。どうやら哲は定期的に彼女を怒らせてしまう星の下に生まれついたようだ。哀れだった。
うなだれた哲は、ぼそぼそと何かを抗弁しているが、目は常に高城さんの顔色を伺っている。無様だった。
高城さんの表情は、僕からは見えない。見えなくて助かった、と思った。情けないことだが。
「分かった。じゃあ、これからは全部石田先生に教えてもらえば?」
「あ、いや、そうじゃなくて、その……」
高城さんは哲の頬を思い切り叩き、教室を飛び出した。ちゃんと鞄を持って。残された哲は、張られた頬を押さえ、がっくりと肩を落としていた。修羅場も、一応は終わりを告げたようだった。
「それで、」と僕は溜め息を吐いて「今回の原因は?」と問いかけた。
哲は顔を伏せたまま、弱々しく「成績のことと、ギターのこと」と呟いた。
「とにかく、バイトに行ったら?」
時計の針は、とっくに遅刻だと告げていた。
翌日、哲は僕の部屋に顔を出した。懲りない男だ。
「成績落としたことでちょっと怒られたんだけど、夏休みのバイトでギター買ったって言ったら強めに怒られた。で、バンド組むって言ったら激しく怒られた」
「それは哲が悪いと思うよ。どうせ、ちゃんと話してなかったんでしょ?」
そういう部分が彼女を怒らせるのだということを、哲は理解出来ずにいた。怒らせるというよりも、寂しいと思わせる、と言った方が正しいのかもしれない。とにかく、僕はそれを上手く哲に説明することが出来ていなかった。不器用なのはお互い様だ。
「まだ続きがある。梓歩ちゃんの友達のお兄さんが、バンド組んでるらしいんだ。で、その人たちに教えてもらえばって言われた」
「良い話じゃないか」
誰かに教えてもらえるなら、それだけ上達が早くなるというものだ。少なくとも僕の部屋でひとり、がちゃがちゃやっているよりはずっと良い。
「それを断ったら、修羅のように怒られた」
「馬鹿……」
思わず頭を抱えてしまった。久し振りの絶望感だった。
「一応、昨夜電話でフォローしといたんだけど、やっぱりまだ怒ってた」
「当たり前じゃないか……」
高城さんとしては、最大限譲歩した形だったはずだ。哲がいつものように黙ってひとりであれこれ進めるのを許容して、尚且つその手助けをしようとまで申し出た。にも関わらず、哲はあっさりと断ったのだ。腹を立てないはずはない。
「でもさ、おかしくないか? 梓歩ちゃん本人が教えてくれるんなら分かるけど、梓歩ちゃんの友達のお兄さんだぜ? 全くの他人じゃないか」
「教えてもらえるなら、別に良いだろう?」
「大丈夫だよ。独学でも何とかなるから」
その自信の根拠はどこにあるのか、実に興味深かった。
「それに、俺には先生がついてるからな」
不敵に笑う哲が指差したのは、僕。
「よろしく頼むぜ、石田先生」
「帰れ」
要するに、哲は僕に対して過剰に期待しているだけだったのだ。
でも、結局のところ哲の稚拙な音楽活動に関して、僕が手助け出来ることは何一つなかった。それに、哲は僕に対して助けを求めたりもしなかった。空いた時間に僕の部屋でギターを鳴らし、音楽を聴いていただけだ。
それでも哲は着実に上達していたし、ギターを抱いている姿もそれなりに様になるようになっていた。
この頃、哲は僕を時折「先生」だの「師匠」だのと呼んでいた。もちろん冗談で、だ。僕はまともに取り合わなかったし、いちいち訂正や否定をするのも面倒だったので、そのまま好きに言わせておいた。
そして、それが問題を孕んでいたなんてことに、気付きもしなかった。
文化祭が予定の日程を消化した。
哲と他三人で組んだバンドのステージは、それほど悪くはなかった。僕は気まぐれで見に行っただけだったが、楽しみにしていた人も少なからずいたようだった。
「次はライブハウスでやりたいな」
ギターを背負って坂道を下る哲は、そんなことを言っていた。
衣替えも終わり、空が高く遠くなり、風が強さを増してきた頃。僕らの学校にもたくさんの出来事があった。教育実習生がやって来たり、生徒会役員投票があったり、中間テストがあったり、だ。
哲と高城さんは、妙に上手くいっていた。繊細で穏やかな高城さんに、大雑把で大味な哲が良くマッチしていた、というところだろうか。この頃には哲の身長も伸びていて、僕と大差ないくらいにまでなっていた。遅い成長期、というやつだろう。見た目でも、二人はお似合いになっていた。
中間テストに関しては、僕らはひたすら努力した。努力した結果は、まあまあ実ったと言って良いと思う。僕は総合で五本の指に入ったし、哲は文系科目で一桁の順位を獲得した。英語に至っては、学年でたったひとり満点だった。
「いつも洋楽ばっか聴いてるからな。何となく覚えちゃったよ」
そんなことを軽々しく言っていたが、実際そこまで簡単なものじゃなかったのを、僕は隣で見ていた。知恵熱を出す寸前までアルファベットと戦っていたのを、僕は知っている。
そんな訳で、僕と哲のコンビは、先生たちの間でそれなりの評価を獲得するようになっていた。哲は相変わらずバイトと音楽漬け。僕は読書漬けの毎日だったが。
「石田も、生徒会役員になってみないか? 補佐だったら信任投票とかいらんぞ?」
担任の高橋先生にそう言われたが、僕は嫌だった。本を読む時間がこれ以上減るのはごめんだったし、何より、哲の相手をするので手一杯だったからだ。
「成績だけ良い僕より、他に適任がいると思いますよ」
当たり障りのない対応が出来るようになっただけ、僕も成長していたらしい。
哲は文化祭の後に言った通り、ライブを決めていた。メンバーは同じ。場所は、学校近くの小さなライブハウス兼貸しスタジオで。
前の晩、哲は遅くまで僕の部屋でギターを抱いていた。今回の曲数は、五曲。
「明日は対バンだけど、次はソロでやりたいよな」
哲は上達している。それは良く分かった。でも、どうしてだろう? 僕はそれが妙に寂しかったのを覚えている。
部屋のスピーカーを通して、哲の弾くギターの音が響いていた。
ライブの日の朝。哲は僕の部屋に顔を出した。
「やっぱ、落ち着かなくてさ。少し練習させてくれよ」
断る理由もなかったので、承諾した。
通しで一度、それから気になる箇所を何度か。そして、曲ごとに何度か。いつもは座ったままギターを抱いている哲が、ストラップで肩からギターを提げて、立ったまま演奏していた。部屋のスピーカーからではなく、持ち込んできたアンプから音を出して。
「このVOXのアンプ、良い音出すだろ? 持ち運べるサイズにしてはさ」
正直、僕には違いが良く分からなかった。
「よし、こんなもんか」
満足そうに頷いた哲は、ギターをスタンドに置き、僕のベッドに寝転がった。
「時間、大丈夫なの?」
「昼に集まって、みんなで飯食って、それからスタジオでリハーサル。大丈夫だよ」
何となく窓の外に視線を向けると、空はとても澄んでいた。良い天気だ。たまには散歩に出るのも悪くないかもしれない。
「にしても、陽司。本当に来ないのか?」
「言っただろ? 夕方からちょっとした用があるんだよ」
嘘だった。
「梓歩ちゃんも今日は用事があるって言うし。何だか身が入らねえなあ」
多分、高城さんも嘘を吐いている。でも、その気持ちは良く分かった。
「ま、学校の連中も結構来てくれるみたいだし、それだけでも上等か」
哲のバンドは、学校で結構な知名度を獲得していた。軽音楽部よりも上手だった、と。
哲が有名になるほど、その恋人である高城さんも有名になり、いつも一緒にいる僕まで名前が知れ渡ってしまった。嬉しくはなかった。哲は哲で、僕は僕だからだ。
「次は、どの曲やるかな」
「自分で作曲とか、しないの?」
「まだまだ早いだろ。もうしばらくは、コピーバンドだよ」
哲はベッドに横になったまま、あれこれと今後の予定を並べて聞かせてくれた。でも、そのほとんどが耳に入らなかった。
高城さんも、こんな気持ちでいるのだろうか。何となく、そんなことを考えてしまった。
昼前になり、哲がギターケースを背負って家を出て行った。
僕は文庫本をジャケットのポケットに突っ込んで、駅前通りへと足を運んだ。特に予定なんてなかった。ただ、部屋にいたくなかっただけだ。
おかしな感覚だった。空は晴れているし、珍しく風もない。薄手のジャケットでも汗ばむくらいの陽気。それなのに、足取りが重い。
僕はいつもは入らない喫茶店に入り、いつもは飲まないコーヒーを飲んだ。たっぷり時間をかけて一杯のコーヒーを飲み干し、文庫本を一冊読み終えた頃には、もう日は落ちかけていた。
丁度、哲がステージに立つ時間だった。
週明けの教室に足を踏み入れると、いつもよりも喧騒に溢れていて驚いた。
「お、師匠! 待ってたぜ!」
僕の机の上で、哲が手を振っていた。人の机の上に座るとは、なかなか無礼な男だ。
「朝から何の騒ぎ?」
周りに集まっていたクラスメイトの間をすり抜け、哲を机から落とし、鞄をかけて椅子に座った。
「ライブさ、大成功だよ! いやもう、ホントに石田先生のおかげですってば!」
いつものおちゃらけ振りに輪をかけてはしゃぐ哲に、派手に溜め息を吐いておいた。
「次はソロでライブ組むから、暇な奴は来てくれよ!」
相変わらずの良く通る声で、哲が教室中に呼びかけた。歓声が上がり、哲は上機嫌で教室を出て行った。
「大変だね、高城さんも」
目に付いた哲の恋人に声をかけると、彼女は浮かない苦笑で僕に応えてくれた。
本当に大変だと、しみじみそう思った。
この朝の出来事を、僕は「大変だね」の一言で済ませるべきではなかった。
そう気付いたのは、数日後のことだ。
木曜日の放課後、僕は玄関で数人の上級生たちに囲まれていた。
「少し、付き合ってくれよ。な、師匠?」
悪意に満ちた台詞だった。全員が全員いやらしい笑いを浮かべ、僕を逃がさないように取り囲んでいる。
つまりは、そういうことだった。
僕は大人しく言われるままに「付き合う」しかなかった。逃げ出すタイミングはあったが、逃げ出す理由がなかったからだ。そもそも、こうして取り囲まれる理由すら分からない。分からないから、逃げない。それがこのときの僕の、最大限の意地だった。
馬鹿な話だ。逃げるべきだったのだ。そうすれば、殴られることもなかったのだから。
僕は校舎の裏側の、ちょっとしたデッドスペースに連れて行かれ、急に殴られた。口の中に血の味が広がったが、どこをどう殴られたのかは、麻痺して全く分からなかった。
「弟子のやんちゃの責任は、師匠が取ってくれるよなあ?」
腹を蹴り上げられ、転ばされ、肩を踏みつけられた。顔を上げることすら出来なかった。
「あの海老原ってガキ、最近ちょっと調子乗ってるしな。お前の次はあいつだよ」
今日が木曜日で良かった。哲がバイトでいなくて良かった。哲の手はギターを弾くための手だ。こんな下らないことで怪我でもしたら、今までの苦労が全部無駄になる。
僕は体を丸め、頭を守りながら、上級生たちのストンピングに耐えていた。衝撃が頭を揺らし、目眩と吐き気と、何故か寒気が体を襲っていた。
「おい、何か言えよ!」
サッカーボールのように蹴り飛ばされ、僕は胃の中のものを戻してしまった。痛みで麻痺した体に、酸っぱい匂いが堪えた。涙で目の前が滲んで、見えなかった。
「お前のせいで海老原が調子乗ってんだろうがよ! 聞いてんのかよ!」
背中を踏まれ、息が詰まった。苦しくて転げ回りたかったが、その力も出なかった。
上級生たちは、あれこれと僕に下卑た言葉を浴びせかけた。時々、思い出したように足蹴にしながら。おかげで僕は意識を失うことも、何かを言い返すことも出来なかった。
でも、考えていた。思っていた。
やっぱり、哲は何も間違っちゃいなかった。
こいつらは、軽音楽部の連中は、クソだ。
哲は頑張っていた。努力していた。真っ直ぐだった。好きな人にもちゃんと好きと気持ちをぶつけた。それが実ったのは確かに幸運かもしれない。でも、哲は逃げなかった。バイトを始めたのは成り行きだったかもしれない。でも、あいつはちゃんとやり通した。やり通してギターを買った。ギターを買ったのに、それでもバイトは続けている。投げ出したりはしなかった。
背の低いことを気にして、毎日牛乳を飲んでいた。僕の家からの帰り道、いつもランニングをして体を鍛えていた。少しでも自分の理想に近づくために。少しでも、自分を誇れるようになるために、だ。
ふざけるな、と本心から思った。こいつらはクソだ。哲は、僕の友達は、クソじゃない。調子になんて乗ってない。人を馬鹿にしているのは、こいつらの方じゃないか。
「何か言ってみろよ! お師匠さんよ!」
下らない理屈だ。下らない自尊心だ。下らない人間だ。
こんな連中に、僕は一言でも言ってやるもんか。ほんの少しでも、折れてやるもんか。そう、何度も頭の中で叫び続けた。
僕は間違ってない。嘘は言ってない。
哲は間違ってない。嘘は言ってない。こんな奴らの手の届かない場所まで、哲は行くんだ。絶対だ。哲なら、きっと行けるんだ。
何度目かの嘔吐の後、僕は意識を失った。
そして、意識を取り戻したとき、車の助手席だった。
担任の、高橋先生の車の。
病院に運ばれた僕は、一通りの手当てを受けると、検査も兼ねて入院ということになった。骨折もしているという話だった。自分では良く分からないし、痛みもない。そう言うと、医者の先生に「殴られたときってのは、寝て起きると痛くなるものなんだよ」と言われた。いくつか渡された飲み薬は、そういう痛みや炎症を抑えるためのものらしかった。
でも、翌朝僕の体は酷く痛んだ。言葉で表現しようにも、言葉が出て来ない程に。
事の顛末は、高橋先生が両親に話してくれたようで、僕は特に咎められなかった。先生も事情を良く分かっていたのだろう。僕に対して同情的ですらあった。
軽音楽部は、一ヶ月間の部活動停止。僕に手を出した連中は、一ヶ月間の学校謹慎。僕は退院したら、今まで通りの学校生活に戻る。それが双方に下された裁決だった。
それで、あの下らない連中とも関わらずに済む。僕はそう思っていた。
哲は、そうじゃなかった。
翌日の昼過ぎ。先生と母さんが帰ったのを見計らうようにして、哲が病室にやって来た。
「お見舞いに、栗持って来た」
茹でても剥いてもいない栗を貰ってどうにか出来るはずもなく、僕は苦笑してから袋を受け取り、ベッドの縁に掛けておいた。
「傷、痛むか?」
「大したことないよ」
実際、薬が効いている。それに、痛いと思ったら連中に負けたことになる。そう思っていた。
「軽音楽部の連中だってな。聞いたよ」
「違うよ」
担任の先生には、口止めをしておいた。哲が知っているはずもない。
「俺のせいか?」
「関係ないって」
何とか嘘で誤魔化そうとするが、哲はそれほど鈍くはなかったようだ。全く、普段は呆れるほど鈍いのに、どうしてこういうときだけ聡いのだろう。
「あいつら、許せねえ」
「それより、僕の部屋にギター置いたままだっただろう? 母さんに言っておくから、今日辺り取りに行きなよ」
しばらく入院らしいから、とは言わなかった。
哲は黙っている。黙って、立ったまま、俯いて、拳を握り締めていた。
僕は溜め息を吐いて、哲に話しかけた。
「あのさ、哲は他に大事なことがあるだろう? 僕がどうなったって、関係ないじゃないか。それより、ギターの練習でもしてた方がよっぽど建設的だと思うよ。授業を抜け出してまでお見舞いに来るなんて、少し心配し過ぎだしね」
「けど……」
「それと、絶対報復なんてするなよ」
そんなことをしたら、あいつらと同じになる。僕が意地を徹した意味もなくなる。
哲は俯いたまま、しばらく黙っていたが、「分かったよ」と言って病室を出て行った。
僕は溜め息を吐いて、天井を見上げた。嫌味なほど白い天井に、また溜め息が漏れた。
その日の夕方、哲がまた病院にやって来た。担任の先生に連れられて。
もちろん分かるだろうが、全身に僕より酷い怪我を負って、だ。
呆れてものも言えなかった。
僕は部屋を移され、哲と同じ病室を宛がわれた。哲も入院するらしい。当たり前だろう。あの怪我では。
余ったベッドには、僕と哲それぞれの母親が交代で泊まることになった。僕ら二人がこれ以上馬鹿なことをしないように監視するため、だそうだ。
おかげで僕らはろくに会話も出来ず、お通夜のような雰囲気で夜を過ごすことになった。
翌朝は、哲にとっても僕にとっても最悪の朝だった。
朝食を済ませると、面会時間も始まっていないのに、高城さんが病室にやって来た。勢い良く部屋の扉を押し開けて。
「哲くん」
恐ろしく優しくそう呟くと、足音を立てて哲のベッドの前に立った。家に着替えを取りに戻った母さんたちが、恨めしかった。
「梓歩ちゃん、おはよう」
迷った挙句、哲が口にしたのはそんな言葉だった。悪くはない。でも、少しは頭を使うべきだった。
「おはよう。良い朝ね。思わず馬鹿みたいなことをして入院することになった彼氏の顔を見にせっかくの休日を無駄にしてまでわざわざ早起きして病院に来ちゃうくらい良い朝よね。そう思わない?」
穏やかな笑みを浮かべたまま、いつもと変わらない口調で淡々と、高城さんはそう言った。正直、怒鳴られる方がずっとマシだった。
「高校生にもなって殴り合いのケンカなんてして。相手は五人? 哲くんがそんなに自殺願望溢れる人だとは思ってもみなかったわ。本当に私って男を見る目がないのね。そういうことなんでしょう?」
「いや、その……」
哲はぶつぶつと何かを言い返そうとしているのだが、言葉にはならなかった。それで良い。こういうときは黙って聞いている方が話がこじれなくて済むのだ。
「いくら石田君が親友で、大事な人だからって、望んでもいないのに復讐して、挙句返り討ちに遭うなんて。それとも、石田君は敵討ちをお願いしたの?」
急に話を振られたので、声が出なかった。
「どっちなの?」
「ええと、その……」
多分、どう答えても僕まで怒られる。そう思ったので、黙って頷くしかなかった。
「分かりました。二人とも良い機会だから、思い切り反省して下さい。私がどれだけ心配したと思ってるのよ。今度同じことがあったら、二人とも絶対許さないからね」
「ごめんなさい」と謝った僕ら二人は、世界の誰が見ても一番惨めな顔をしていたと思う。
その後も、高城さんの説教は続いた。母さんたちが戻ってくる昼前までずっと、だ。
細かいことから大きなことまで、ちくちくと言葉で責められ、説教が終わる頃には僕たち二人とも、泣き出しそうなくらい打ちのめされていた。
哲の母親と高城さんは、とても親しげに話をしていた。初対面とは思えないほどに。やはり、同じ男の馬鹿な部分に振り回され続けているので、相通じる部分が出てくるのだろうか。そんなことを思った。哲にとっては針のむしろだっただろうが。
「陽司」と、二人きりになった部屋で哲が話しかけて来た。僕は喉の奥だけで返事をしておいた。
「なんか、ごめんな」
どのことに関しての謝罪なのかは分からない。でも、それが哲から僕に向けられた初めての謝罪の言葉だった。
「とりあえず、高城さんだけは何とかして」
そして、これが一番の本心だった。
哲は苦笑し、僕も力なく笑った。
この件に関して、哲への処分は一切なかった。ただ、相手にした五人の軽音楽部の連中は、学校謹慎から自宅謹慎へとランクアップしたらしかった。
様子を見に来た担任の先生が言っていた。
「お前ら、少しは先輩たちを立てることを覚えろ」
何故僕らが怒られるのかは分からなかったが、とりあえず頭の隅にでも置いておくことにした。
それと、入院の間に僕らには課題が出された。それも、恐ろしいほどの量の課題だ。
「どうせ退屈だろうし、成績優秀な二人が授業についてこれないってのも、担任としては寂しいからな」
僕らは怪我の治療に専念することも出来ず、ベッドから起きられない状態で課題を解き続けるはめになった。左手の指を骨折した哲が、ページをめくろうとする度に小さく呻いていたのが、記憶に残っている。
僕らの退院が決まったのは、十二月に入ってからすぐだった。三者面談は病室で済ませていたし、期末テストの範囲は課題で済ませておいた。試験当日までに退院出来たのは、喜ばしいことだった。病室で先生に監視されてテストなんて、考えただけでもぞっとする。
僕らが入院している間、高城さんは毎日顔を出していた。怒りは冷めたらしく、いつもと同じ穏やかな高城さんだった。
他にお見舞いに来る友人はいなかった。哲のバンド仲間や友人が来てもおかしくないとは思っていたが、一度も顔を出しはしなかった。後で担任の先生に聞いたところ、「見舞いは禁止にしておいた」ということらしかった。まあ、正直どっちでも良かったし、相手をする余裕もなかったので構わなかったが。
僕と哲は、同じ日に退院をした。哲の方が重症だったのだが、体の造りが違ったのだろう。元々肉体派の上に、この時期になると一層体つきが大人びてきていた。哲が僕を見上げていた頃がとても懐かしかった。
両親は荷物を持って先に家に帰ってしまったので、僕と哲、それと高城さんの三人だけが残された。
いつものファミレスで昼食を取った。久し振りのまともな食事だった。病院食は食べた気がしなくて困る。特に育ち盛りの高校生男子には、質、量、共に物足りない。
哲の口からは、ギターについてのことが出なくなっていた。
入院の間、何度も母さんに頼もうとしたのだが、哲がその度にはぐらかしていた。あれだけ熱心に、欠かさず練習していたのに。もっとも、哲の左手はギプスで固定されていたし、病院でギターの音なんて弾いたら看護婦さんに怒鳴られる。でも、せめて手元に置いておくべきだろうと、そう思っていた。
食事を済ませた後、哲は高城さんとデートをすると言って駅前の方へと歩いて行った。僕は久し振りに本屋を巡り、目ぼしい本を買い漁った。
部屋に戻ると、以前より寒々しい感じがした。入院している間に、季節がひとつ巡ってしまった。そういうことだったのだろう。そう思うことにしておいた。
母さんの計らいで用意されていた石油ファンヒーターのスイッチを入れ、僕はベッドを背もたれ代わりにして床に腰を下ろした。
夏の始まりに、哲はギターを買うと言った。ギタリストになりたいと言った。夏休み一杯バイトをして、夏の終わりにギターを手に入れた。秋の文化祭でギタリストの入り口に立ち、やっと夢を叶え始めた。
そして秋の終わり。下卑た悪意のせいで、哲はギターから引き離されてしまった。
指は、もう完治したはずだった。リハビリはそれほど必要ないと言っていた。でも、哲はまだギターを手にしない。取りに来ない。
数日経てば、哲はこの部屋でギターを弾くだろうか? それはないような気がした。週明けには期末テストだし、それが終われば終業式にクリスマス。あっという間に年が明けて、三学期が始まる。哲がギターから逃げる気なら、いくらでも言い訳は出来そうだった。
僕は立ち上がって、ギタースタンドの前に移動した。真っ赤なSG。SGというのは、ソリッド・ギターの略らしい。意味や由来は良く覚えられなかった。とにかく、哲にとっての宝物だ。
哲のSGは、買った日よりもずっと疲れ果てて見えた。薄っすらと埃を被って、まるで敗残兵のようにすら見えた。ハードタイプのギターケースから、布を取り出す。哲がいつもそうしていたように、僕はギターを布で優しく拭った。何度も、何度も。
ボディの表面はつやを取り戻し、気のせいか誇らしげにすら見えるようになった。あちこちについた傷さえ、勲章のように思えた。
僕は哲の真似をしてギターを抱いてみたけれど、どうもしっくりとこなかった。試しに弦を指で弾いてみた。鳴った音は、不安になるような音だった。
僕は目を閉じて、哲がギターを弾いている場面を思い起こした。左手の長い指が、まるで別の生き物のように動く。正確で、繊細で、素早かった。右手がピックを持ち、力強く弦を鳴らす。両方の手が、それぞれに別の役割を果たして、ひとつの音を奏でる。ギターという楽器を通して、哲が完璧な部品になったようにすら思えた。音楽のための、完全な姿。
哲はロックとかパンクとか言われる音楽を好んで聴いた。優しいからと、そう言っていた。僕は歌詞の聴き取れない歌のどこが良いのか分からなかったし、ギターのやかましいだけの音も好きになれそうにはなかった。でも、哲は僕にたくさんの音楽を聴かせ続けた。一曲一曲、逸話や思い入れを語りながら。
どうして覚えなかったのだろう。
どうして哲がバンドを組むときに、手伝うと言わなかったのだろう。
哲は、僕にとって大切な友達になっていたのに。
僕はギターをもう一度拭い、スタンドに戻した。
哲の夢は、もう足を止めてしまったのだろうか。そんなことを考えると、苦しかった。
僕らの世界に存在する形の見えない悪意が、とてつもなく呪わしかった。
その夜、僕は初めて壁を殴りつけた。
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