『Voices』(4)
4.
師走は足が速い。
期末テストも無事終わり、結果はかなりのものだった。僕も、そして哲も、お互いに学力の上では立場を確立したということだろう。周りの視線も、気にならなくなっていた。
冬休みに入って、クリスマス。哲は当然のように彼女と夜を共にして、寝たようだった。ついに哲も男になったということだろう。
でも、哲はギターを手にしなかった。僕の部屋にすら、ほとんど訪れなかった。
年が明けて、三学期が始まった。哲は僕の部屋に顔を出す回数を減らしていた。
「店が忙しくてさ、日数増やされたんだよ」
言い訳のようにそう告げる哲は、僕の目を見ていなかった。
僕はまた生徒会に誘われ、断り、僕だけしかいない部屋で本を読み漁った。砂漠を行く旅人が水を飲むように、ひたすら読み続けた。そして時々、哲のSGの埃を布で拭った。
ある日、教室で高城さんが話しかけて来た。珍しいことだった。
「哲くん、最近おかしくない?」
僕にそんなことを聞かれても困る。でも、少し変わったということには気付いていた。気付けば髪を伸ばし、髪型を変えていた。服の趣味も変わったし、体格も一回り大きくなっていた。あれは一朝一夕でつく筋肉じゃない。僕に隠れて、毎日トレーニングでもしていたのかもしれない。それと、あまり喋らなくなった。寡黙になったと言っても良いくらいだ。一番の変化は、聴く音楽が変わったこと。うるさいだけの激しい音楽じゃなく、ジャズとかブルースとか、そういう落ち着きのある音楽を好んで聴くようになっていた。
哲は、変わりつつあった。
「今日、多分僕の部屋に来るはずだから、少し話してみるよ」
哲の変化が、何を思ってのことなのか。どこを見据えてのことなのか。僕も、そろそろ知っておきたかった。
哲は温かい缶コーヒーを二本持って、夜更けに部屋を訪れた。
「まだ、しばらくは寒いな」
ファンヒーターで掌を炙りながら、そう呟いた。
「哲」と僕は名前を呼んだ。何度も、何度も呼んできた、僕の友人の名前。
「ギター、そろそろ再開しても良いんじゃないか?」
僕の台詞を無視して、哲はオーディオセットの前に移動し、CDをかけた。サックスとピアノ、それに男性の伸びのある歌声が特徴的な、最近哲が気に入っている曲だった。
「あの高校を選んだのってさ、軽音楽部があるからだったんだよな。でも、仮入部に行ったらクソで、なんだかなあって思っててさ。そしたらちょっとかわいい子がいて、彼女になってくれて。ギターを始めたのだって、結局どうだって良かったのかもしれない」
哲はぼんやりと左手の指先を見詰めながら、いつになく疲れた口調でそう呟いていた。聞くべきだ。黙って聞くべきなんだと、そう思った。
「でも、弾き始めたら面白くなってきてさ、このままギタリストってのも悪くないと思ってた。けど、陽司まで下らないことに巻き込んでさ。本当に悪かったと思ってる」
「だから辞めるのか?」
腹立たしかった。何より、そんな言い訳に僕を使われることが、悔しかった。
「そうじゃないんだ。結局のところ、誤魔化してただけなんだよな。本当にやりたいことを、手の届きそうなことで誤魔化して、逃げてるだけだった。そんなじゃあ、本当に頑張ってる人たちに申し訳ないだろ?」
どうだって良い。そう思った。
「それで哲はギターを辞めて、捨てて、今度は違う嘘を吐いて手頃な夢に逃げ込むのか?」
「そうじゃないって」
哲は少し笑った。笑って、顔を上げた。
真っ直ぐな目だった。
「歌を唄いたいんだ」
哲は変わったと、本当にそう思った。僕に向けられた目は、揺らいでいない。声も、顔も、笑っていない。真剣な目と表情が、僕に真っ直ぐ向けられている。こっちが落ち着かなくなるくらいに、真剣だった。
「ガキの頃、初めて見たライブでさ、ギターって楽器が格好良いって思った。でも、それよりも歌を唄う人が気持ち良さそうで、羨ましかった。いつかあんな風に歌を唄えたらなってずっと思ってた。けど、仮入部に行った軽音楽部で酷いこと言われてさ、嫌んなったんだよ。だから、歌を唄うことを諦めた」
馬鹿だよな、と哲は自嘲的に笑った。
「今度は、諦めないよ。嘘でもない。俺は歌を唄うし、いつかヴォーカリストとしてステージに立つ。今度はコピーだけじゃない。自分自身で作った歌だって唄いたい」
「そうかい」
僕はそう言って、頷いた。
「でさ、音感には自信あるんだけど、どうすりゃ良いと思う?」
そう言いながら僕に詰め寄る哲は、いつかと同じく子供のような顔をしていた。新しいおもちゃを買い与えられた、あの顔だ。
哲は変わったけど、変わっていない。それが、僕には嬉しかった。
ボイストレーニングと、毎日のランニング。それと作詞のための勉強。哲が当面取り組むのは、そういったものだった。とはいえ、僕が手伝えることは何もなかった。文系の成績では、哲と僕はほとんど同じくらいになっていたのだから。
ヴォーカリストを目指して練習を始めた哲の下には、自然とメンバーが集まっていた。以前一緒にバンドをしていたメンバーだけじゃない。軽音楽部の、僕らを襲わなかった部員も、だ。その中に二人、凄いギタリストがいるらしかった。
「夕夜《ゆうや》さんと直音《なおと》さんっていうんだけど、とにかく凄いんだ」
興奮して話す哲は、本当に嬉しそうだった。
そんな哲を支えるように、高城さんも変わっていた。哲は以前のように勝手に無茶をすることが全くなくなり、代わりに彼女をいつでも気遣うようになっていた。高城さんもそんな哲の傍に寄り添い、いつでもフォローに徹していた。二人の関係が、新しくなっていった。
そして、僕はといえば。
「陽司、次のライブ来てくれるだろ?」
僕らが高校二年生へと上がる直前の春休み。哲はいくつかのライブハウスでのライブを予定していた。先輩たちが精力的に動くので、引っ張られるようにして哲も動くことになるという話だった。
「そうだね。行くよ」
いつものように、哲は僕の部屋にいた。チケットをテーブルの上に置いて、オーディオの前を陣取る。いつもと同じ、哲の背中。初めて見た頃よりも、ずっと広く逞しくなった背中。そういえば、と思ったので口に出してみた。
「哲がこの部屋に来るようになったのって、何でだっけ?」
忘れるはずはない。でも、それを哲の口から聞いてみたかった。哲が覚えているのか、確かめておきたかった。
いつか哲が、この部屋に足を運ばなくなる前に。
「決まってるだろ? 陽司に恩返しするためだよ」
僕らが出会ったきっかけ。思い出せば頬が緩む、最初のきっかけ。
「あれ、嘘だったんだろう?」
「恩返しのことか? 忘れてないって」
肩越しに振り返る哲は、軽く微笑んでいた。
「そうじゃないよ。理想の子がいて、その子だけいれば他に何もいらない、って台詞」
僕の言葉に、哲は苦笑いを浮かべた。
「何かのドラマだか映画だかで聞いた台詞でさ、一度使ってみたかっただけだった」
やっぱり、と僕は思った。そんな都合の良いことなんてあるはずはないのだ。現に哲は彼女と付き合うようになってから、ギターを始めた訳だし。
「でも、今は少し違うな。梓歩がいなきゃ、俺は歌も唄えない」
「それ、何てドラマの台詞?」
茶化す僕に、哲は声を上げて笑った。ひとしきり笑った後に、体ごと僕の方を向いた。真面目な顔を作ったので、僕は本を置いて顔を上げた。
「陽司」と、哲が僕を呼んだ。何度も聴いた、僕の親友が僕を呼ぶ声だ。
「お前はさ、なりたいものってないのか?」
言われて、考えてみた。なりたいもの。
「まだ分からないな。とりあえず、高校生の間には見つけたいと思ってるけど」
「それだけ本を読むのが好きなら、小説家とかなれば良いのに」
僕は簡単にそう告げた哲に、首を振った。
「読むのは好きだけど、書く人間になるつもりはないよ」
偽りのない、本心だった。
「僕はきっと、他の誰が見ても退屈だとしか思えないような、そんな生き方が向いてるんじゃないかな」
「退屈な生き方なんてないだろ? 俺がいるんだし」
それに関しては、確かにその通りだった。
「よし、決めた!」
哲が膝を掌で叩き、立ち上がった。拳を握り締めて、僕を見下ろす。
「俺は、ずっと陽司を退屈させない。それが、俺の恩返しだ」
このときの哲の目は、それまでに僕に向けられたどんな視線よりも優しく、厳しく、そして温かかった。信頼と親愛に満ちた、泣きたくなるほど満たされる視線だった。
「なら、借り物の歌ばかり唄ってる場合じゃないと思うよ。そろそろ、メンバーに急かされてるんだろう?」
哲の、哲だけの、オリジナルの歌を。
「分かってるよ」
憮然とした表情で再び腰を下ろす哲に、僕は文庫本を開くことで答えたのだった。
こうして、僕らの猶予期間は緩やかに終わりへと向かおうとしていた。
5.
今、僕はこうして社会に出て、あの猶予期間のことを思い返している。テレビには、時々哲の姿が映ることもある。今では立派なヴォーカリストとして、世間の誰もが認めるほどになった。哲は、あの頃の夢をちゃんと叶えたのだ。
僕は高校を卒業すると、あの町を離れた。大学進学のためだ。それから大学院まで出て就職。地元に戻らず、離れた街で会社に勤めることにした。
今でも正月くらいは実家に帰るようにしている。でも、僕の部屋を哲が訪れることはない。高校を卒業してから、一度も逢っていない。聞くところによると、以前のバンドメンバーが交通事故で亡くなったり、高城さんと婚約を決めたりと、波乱万丈な日々を送っているようだった。
でも、哲とは逢っていない。連絡もしない。
僕は今でも本を読んでいる。たくさんの本が僕の部屋の本棚を埋めているし、収まりきらない本の一部を古本屋に持ち込んだりもした。街の図書館に通うのも、今では週末の決まりごとになっている。
あの猶予期間、僕らはたくさんの嘘を吐いた。些細なことから、大きなことまで。それこそ数え切れないほどたくさんの嘘だ。でも、誰かを傷つけるためじゃなかった。それだけは胸を張って言える。
だから僕は、青年期に入った今、あの頃の自分の台詞をもうひとつだけ、嘘にしてやろうと思っている。
僕の目の前には、白紙のノートと一本のペンがある。やるべきことは、もう決めている。
最初から上手くいくはずもない。最初から形を気にする必要もない。ただ、思う通りに描けば良い。頭の中に浮かぶ、たくさんのシーンを。その中に響く、たくさんの声を。
テレビに映る哲の姿。スピーカーからは、懐かしい声が聴こえてくる。あの頃の僕らとは、姿も場所も変わってしまったけれど──
哲の声を聴きながら、僕はペンを取った。僕らの青年期を、新しく描くために。
~after youth“Sounds”another, Guitar 2“Voices”, closed.~
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