『fortune』

『fortune』

著/三澤未来

原稿用紙換算枚数15枚

 ちゃりん、と車のキーを放り上げた。キーホルダーの反射板みたいな飾りが、陽光をはじいてフラッシュする。思わず瞬きしたら、行方を見失ってしまった。
「あわわ、大変大変」
 波打ち際を歩いていたので、もしもキーが波にさらわれてしまったら大変だ。せっかくのデートなのに、出先でJAFのお世話になんかなりたくない。
 そんなに高く放ったわけではなかったので、鍵は足元を見渡せばすぐ見つけられた。落ちた時の衝撃で、半分ほどが白砂に埋まっている。しゃがんで摘み上げた時、視界の片隅を何かがきらりと掠めた。普通に歩いていたら、ゴミに紛れて見逃していたに違いない。
 それは、波に洗われて色が変わった砂地と白砂との、ちょうど境目辺りに転がっていた。沖から長い時間をかけて揺られてきて、たった今打ち上げられたようだった。再び波にさらわれないように、緩い傾斜をころころと海のほうへ戻っていくそれを、慌てて掴んだ。
 掌に収まる大きさの、ガラス瓶。
 円筒形の胴と細くなった首は、ちょうど理科の実験なんかで使う薬品を入れておく形に似ていた。その口はコルクと蝋でしっかりと密栓されていて、水が入り込んだ様子はない。更にビニール袋で包まれた瓶の中身は、幾重にも折りたたまれた便箋のようなものに見えた。
 振り返る。彼が、後ろのほうから緩やかな足取りで追いかけてくる。瓶の首を指で摘んで、軽く振り示してみた。小さく首をかしげる仕草が、ちょっとかわいい。
「何、それ?」
「波打ち際にあったの。目に付いたから拾ってみた」
「ああ、メッセージ・イン・ア・ボトルだね」
 世界の誰かが、自分自身でない誰かに向けて宛てた手紙。数十億の可能性の中から、私が選ばれた理由はなんだったのだろう。
「開けられる?」
「ちょっと待って」
 ズボンのポケットを探り、彼はライターを取り出した。小さな炎で瓶の口を炙り、蝋を溶かす。やがて黒く細い煙が立ち昇り、コルクが焦げる臭いが鼻をついた。
「よ……っと」
 ぽん、と小気味いい音を立てて、栓が抜けた。そのまま、はい、と瓶を手渡す彼。ありがと、と微笑み返すと、彼もにっこり笑う。この間が、とても幸せだ。
 瓶の口は狭く、女の私でも指を突っ込むのに苦労した。このまま引っかかって取れなくなったりしないだろうか、と妙な心配をしてしまう。どうにかビニール袋の端を爪先に引っ掛け、少しずつ引きずり出す。秋口の浜辺でカップルが二人、額をつき合わせて小さなガラス瓶を見つめる姿は、他の人にどう映っていただろうか。
 現れたビニール袋の結び目は固く小さく、見た目にも力一杯引き絞ってあるのがわかったので、普通に解くのは諦めて引き裂いた。そっと手紙を取り出す。かさり、と優しい音の欠片を掌にくれた。
 ――少し力を入れたら、ほろほろと崩れてしまうかも。
 極端に色褪せたり、あちこちが破れたりといったふうではないのに、なぜかそんなことを思った。小さく折りたたまれた手紙を、そうっと、開いた。彼も頬を寄せて覗き込む。
 それは、決して届くことのないラブレターだった。

 結婚してすぐに、夫が癌に侵されていることがわかった。年齢が若いこともあって進行は猛烈に速く、懸命の治療も功を奏さない。内側から、体も心も徐々に食い破られる夫に、何もしてあげることができないと、己の無力さを呪った妻。
 助かる術がないのなら、いっそ二人で……とまで覚悟した彼女に、僕の分まで生きて、どうか幸せになってほしい、と優しく力強く手を握った夫。
 彼方へ旅立つその刹那、か細い吐息に乗せて「ごめんな」と伝えた夫。

 手紙には、その女性から亡き旦那さんへの、溢れる感謝の想いと、この先も永劫に変わらぬ愛情が綴られていた。旦那さんの言葉通り、一人になってしまった後も自らの命を絶つことなく、懸命に生きた。そして、夫への愛を貫いて過ごした十年間は、少し寂しかったけど、でもとても幸せでした、と結んであった。
 そのあまりの一途さに、胸が締め付けられた。風に乗せてきらきらと、止まらない涙が海へと飲み込まれていった。その間、彼はいつものようにおどけた茶々を入れることもなく、じっと私が泣き止むのを待っていてくれた。
 最後に記された日付と署名を見て、私は目を疑った。滲んだ視界のせいで見間違えたものと思ったけど、違った。
 今から、ちょうど十年後の未来。差出人は――。
 私、だ。
 役目を終えたと言わんばかりに、古びた便箋は潮風にあおられてほろほろと朽ちていった。

 結局、運命には抗えなかった。
 あの手紙には、書き手の旦那さんの名前は記されていなかったけれど、もしも差出人が「未来の私」であるならば、その相手は彼の他に考えられなかった。
 彼の侵された病魔は、発症してからの進行が特に早いもので、一度顔を出せば、凄まじい勢いですべてを蝕んでいった。ただの偶然とかイタズラだよ、と手紙の内容をまったく信用しない夫を、結婚前から何度も何度も宥めすかして、随分経ってからようやく健康診断を受けてもらった。けど、その時にはもう不吉な影は、私の……いや、私たちの未来をすっぽりと覆ってしまっていた。
 ――最期に「ごめんな」って言うところまで、あの手紙とおんなじ。
 その一言には、私を残して先立つことへの謝罪の他に、せっかく差し伸べられていた救いの手にすがることを、自ら放棄したことへの後悔が混じっていた。
 痩せ細った彼の頬は、間際の力をその囁きに込めて、二度と動かなくなった。
 握り締めた彼の掌から、生命のぬくもりがするりと抜け落ちた。

 ――瓶に封じ込められたあの手紙は、どうして私の元に届いたんだろう。
 夫を亡くしてから、そのことばかりを考えていた。
 もしかしたら「未来の私」は、ただ普通に彼への手紙をしたためて、海に流しただけなのだろうか。ガラス製の小さなポストが、たまたま時の軸を滑り落ちて、過去の自分のところへ辿り着くことなんて、想像もしていなかったのかもしれない。
 ――だったら、今からなら、未来を捻じ曲げることができるかも。
 ――過去の私に手渡すためのメッセージを海に託すまでは、絶対に生きて、生きて、生き抜いてみせる。
 それは、心を絶望に塗り固められた私に彼がくれた「僕の分まで生きて」という優しさと、図らずも同じ決心だった。

 ――どう書き伝えれば、夫を救うことができるだろう。
 受け取った手紙と同じ条件で、と待ち続けた十回忌を迎える直前まで、ずっと悩んでいた。
 病気が「いつ」発症したのか、正確な日付などわかるはずもない。彼が健診を受けた日には、もうかなり進行している状態だったので、そこからある程度遡って、という漠然とした時期しか指定することはできないのだ。結婚する前にはもう予兆があったのかもしれないけど、だからといってデート代わりに毎週病院通いをさせるわけにもいかない。
 そもそも、ガラス瓶が何度も過去へ旅するチャンスがあるかどうかも、定かではない。奇跡のような偶然で、たまたま一度限りのタイムスリップを経験しただけで、次も同じように手紙を届けられる保証はまったくないのだ。むしろ、その可能性はずっと低いとさえ言える。
 それでも、その奇跡がもう一度起こることを信じて、賭けるしかない。
 だから、この手紙を読んだ「過去の私」には、必ず彼を救ってほしい。
 確かに、夫への変わらぬ想いを抱き続けて歩いたこの十年間は、寂しくも幸せを感じることができた。私がひとりで重ねた年月は、彼への愛情の深さと等価だったし、それを感じることで、また想いを深めることにもなった。
 でも、夫とたとえもう少しだけでも長く歩き続けられることができるなら、その日々はこの決して短くない時間を凌ぐ喜びで満たされているだろう。そう信じて疑わない。
 その幸せを受け取ることができるのが、この私でない別の世界の「私」だったとしてもかまわない。どこか遠い世界で、彼の笑顔を見て過ごせる人がいるのなら、それだけで。

 波に預けた小さなガラス瓶は、白い飛沫に飲み込まれて、あっという間に姿を消した。



 彼女が海辺で受け取ったガラス瓶入りの手紙は、驚いたことに僕の病死を告げていた。差出人は、十年先の未来にいる妻。
「彼を助けて!」叫び声さえ聞こえてきそうな書き出しで始まったその手紙は、近い将来に訪れる僕と彼女との結婚、そして病魔の存在を知らせていた。「私は、手紙の内容を信じない彼を救うことができなかったけど、もしこのメッセージがもう一度過去へと旅をすることができたなら――」
 ……結局、僕はその手紙のおかげで、危ういところで一命を取り留めることができた。初期の初期で発見された癌は、進行速度を上回る早期手術と的確な治療で、その姿を完全に消すこととなった。
 だけど。
 助かった命の代償だったのだろうか。僕の治療の最中に、彼女は突然倒れた。かなり前から調子を崩していたらしいけど、僕の前ではいつも元気な笑顔を見せてくれていた。その優しさ、強さを知った頃には、もう遅すぎた。本人も驚いたであろう早さで、あっという間に妻は逝ってしまった。僕が彼女に送るはずだった「ごめんね」の言葉を残して。

 運命とは、なんて残酷なんだろう。僕と彼女が、共に過ごす未来は許されていないらしい。
 十年後、彼女がそうしたように僕が手紙を送ったら、今度はどちらが残されてしまうのか。
 逆に、手紙を送らなければ、僕が生き延びたこの歴史が事実として成立してしまうだろうけど、それで僕は幸せと言えるのか。

 僕は、どうするべきなんだろう。
 僕は、どうすればいいんだろう。


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