『野の花』

『野の花』

著/市川憂人
絵/みつ

原稿用紙換算枚数30枚


風吹けば君を想うよ いつでも
早過ぎる季節の丘に
生まれた花びら
──遊佐未森『野の花』


 肩に花柄のリュックひとつ、お尻のポケットに子ども料金のきっぷが一枚。
 車掌の笛の音ひとつを駅のホームに残して、今年もあたしの旅が始まる。

 二両編成の後ろの車両、ボックス席の窓際に腰を下ろす。隣の席にリュックを置いて、窓ガラスを半分だけ開けると、いいにおいのする初夏の風が、爽やかにあたしの前髪をなびかせた。
 窓の外は緑。やわらかそうな草原が、視界の向こうを流れている。
 お尻の下で、線路と車輪が規則正しいリズムを刻む。i-Podから流れる『夏草の線路』。青い空、淡い日差し、真っ白な雲、心地いい風。
 文庫本をリュックから取り出して、ぱらぱらとめくる。改行の少ない、四角くて黒い文字列。数ページを目で追ったところで本を閉じ、リュックに片手を通すと、あたしは窓に頭を寄りかからせた。i-Podの甘く高い声に誘われて、まぶたが静かに重くなって──
「ここ、いいかな?」
 無粋な声があたしのまどろみを破った。目を開けると、さらさらした髪の、割と整った丸顔の青年が、ボックス席の斜め向かいでにこやかな笑みを浮かべていた。花屋の店先にでも立っていそうなやさ男だ。
 あたしはイヤホンを耳から外すと、
「……どうぞ、ご勝手に」
「ありがとう、お嬢様」
 笑みを崩さずに返すやさ男。いちいちキザな男だ。
 周りを見ると、乗客はあたしたちだけだった。どうしてわざわざ相席を──
 あたしの顔色を察したのか、やさ男はばたばたと手を振った。
「ああ、違う違う。別に誘拐犯じゃないし、そのケもないよ」
 なおも不審な目を向けるあたしに、やさ男は「参ったな」と呟くと、ズボンのポケットから黒くて平べったい財布みたいなものを引き抜いて、中から小さい紙切れを差し出した。「よろしく」
 ──『××株式会社 竜宮《たつみや》 謙一郎』。
 あたしの心臓がひとつ、派手な音を立てた。
 会社は有名な家電メーカーだ。さすがのあたしも知ってる。問題はやさ男の名前。
 見覚えがあった。──正確に言うと、見覚えのある名前に、よく似ていた。
「どう? 信じてもらえたかな」
「免許証見せて」
 いくらあたしが小さいからって、こんな名刺一枚でだまくらかせると思ったら大間違いだ。やさ男は、ぬ、と眉をしかめると、しぶしぶといった感じで反対側のポケットから免許証を取り出してあたしの前に広げた。
「……これホントにあんた? 目つき悪い」
「……言わないでくれ。昔から写真写り悪いんだ」
 まあしかし、名刺と同じ名前だし、ほっぺたのほくろも同じ位置だ。名前と会社については信用してよかろう。
「君の名前は?」
「──『知らない人に名前を聞かれても答えてはいけません』。あんたも小学校のとき習わなかった?」
「僕はさっき名乗った。君は僕のことを知った。よって、僕は君の知らない人じゃない」
 へりくつ野郎め。
「……ナオ」
「ナオちゃん、か。本名、それともニックネーム?」
「どっちでもいいでしょ。それとちゃん付けは止めて。『ナオ』でいいから」
「了解。よろしく、ナオ」
 馴れ馴れしいやつだ。

 今年の旅は、出だしから調子外れの風向きだった。


 生意気なガキ、と、昔からよく言われていた。
「女の子は大人になるのが早い」というのは社会科学的にも確かめられてる事実らしいけど、あたしの場合は特に顕著だったと思う。男どもが鼻水たらしながらバカな遊びに明け暮れ、女どもがインケンな派閥抗争──女をなめてはいけない、幼稚園児の頃からそういうのはあるのだ──に興じるのを、あたしはいつもひとり、面倒に巻き込まれない程度の距離で眺めていた。ナオちゃんはいつだってハードボイルドよねぇ、とは、当時の保母殿からいただいた最高の誉め言葉だ。
 成績も、自分で言うのも何だけどかなり上の方だった。「顕著」も「派閥抗争」も「誉め言葉」もちゃんと漢字で書けるし。
 幼稚な男を鼻で笑い、群れる女を歯牙にもかけず、ひとりわが道をひた走るあたしは、齢十二にして孤高のおんなになった。
 こんな風にひとり旅に出るのも、もう何度目になるだろうか。
 今回の目的地は、この列車で一時間半ほど先の駅の、さらに海の端。**岬という、岩と海と野生の草花以外には何もない、恐ろしくへんぴな場所だ。三年前、別に行きたくもなかった家族旅行で初めて訪れて以来、これで都合三度目。あの、打ち捨てられた楽園跡のような風景は、あたしが今まで旅してきた他のどの場所よりも、なぜか無性にあたしを惹きつけた。
 あの場所で、ただ何もしないで時を過ごす。──それが、今年のあたしの旅の目的。
 小さなおんなにだって、孤独を愛する権利はあるのだ。

 ──というのに。何なんだこのやさ男は。
「で、一体何の用? 暇だから声かけた、というのだったら承知しないけど」
「いや、暇だったから」
「──はぁ?」
「旅は道連れ、って言うだろ。片田舎のローカル線に旅人がふたり。目的地はまだずっと先。ばらばらにぼけっと座ってるだけなんてもったいないよ」
「あたしの目的地が当分先なんて、どうして言えんの」
「駅できっぷ買ってたじゃないか、窓口のところで背伸びして。結構目立ってたけど?」
 頬が熱くなる。精神年齢に身体の成長がついて来ないのが、昔からあたしの一番の悩みの種だった。ちっちゃな身体にぺったんこな胸。整列順は一番前が指定席。周りの女どもがブラだのアレだのやかましくはしゃいでいた頃、あたしは冗談抜きで小学三年生くらいに間違われたこともあった。屈辱の記憶である。
「僕も**駅までなんだ。これから一時間半、よろしく」
 同じところで降りるのか。何て厄日だ。
「このストーカー……」
「ひどいなぁ」
 やさ男──本名で呼ぶ気にはなれなかった──は、気にした風もなく微笑んだ。「別につけ回すつもりはないよ。向こうの駅でお別れかも知れないしさ。ナオはどこへ行くの。あの辺って、特に名所も温泉も無かったと思うけど」
「そういうあんたこそどうなのよ」
「僕かい? 僕は」
 やさ男の表情が、ふっと静かなものに変わった。「**岬まで」
 心臓がもう一度跳ねた。──同じだ。あたしの目的地と。
「どうして、そんなとこまで」
「鳴宮《なるみや》兼一郎、ってひと、知ってるかい」
 さらにもう一度、心臓が脈打つ。
 鳴宮兼一郎。──やっぱり、そういうことか。
「……知ってる。あたしの母親も、よく読んでたし」
 膝の上の文庫本に目を落とす。『人形旅団』、鳴宮兼一郎・著。
「そっか」
 やさ男は静かに目を細めると、窓の外の草原の流れに視線を移した。

 小説家の鳴宮兼一郎が、妻と、ひとり娘の菜緒子《なおこ》を遺して**岬から身を投げたのは、今から二年前のことだ。
 享年三十三歳。作家・鳴宮兼一郎の若すぎる死は、当時の新聞と書店を少しだけ賑わせはしたけれど、やがて忘れられた。
 その私生活を知る人間もほとんどいない。よほどの人気作家でもない限り、世間が小説家の私生活にまで興味を持つことはない。
 たった九年間の兼業作家人生の中で鳴宮兼一郎が世に出した、両手の指で足りるばかりの作品群は──改行のない一文が延々と続く、めまいのするような幻想小説は──世間一般や文壇の好みからは明らかに外れていた。
 遺されたあたしたちにとって、嵐の後の凪のような静けさは、ほんのわずかの幸いだった。
 なのに──

「亡くなるずっと前から、彼の名前は知ってた。図書館でたまたま本を見かけたんだ。自分の名前と字面がすごく似てたからね……気になって一冊借りて読んでみた。凄かった。身体ごと本の中に呑み込まれるようだった。彼の既刊はすぐ全部読んで、新刊も欠かさず買うようになった。
 だから、自殺のニュースを知ったときはショックだったよ」
 列車が速度を落として、駅に停まった。乗客も、降りる客もいない。短いベルがホームを揺らして、ドアが再び閉まる。がたん、と列車が動き出す。
「なぜ、と思った。だけど新聞や雑誌には短い記事しか載らなかったし、テレビでも短いニュースが一度流れたきりだった。彼がどうして死に至ったのか、詳しいことは結局解らずじまいだった」
「──それで」
 動揺は、うまく隠し切れたと思う。「ごひいきの作家先生の最期の地までわざわざ足を運んで、探偵ごっこのひとつでも始めようってわけ? 社会人ってよっぽど暇なのね」
 しかも今日は平日の真ん中だ。わざわざ休みを取ってまで来たらしい。ご苦労なことだ。
「それはこっちの台詞だよ。ナオこそ、まだ夏休みには早いと思うけど」
 ……うっ。
「いろいろあるのよ、あたしのような年齢の女には」
 そっか、やさ男は静かな笑みを浮かべた。
「今日は彼の命日だしね。親族の君には特別な日だろうし」
 すぅっ、と、背中が冷えた。
「あんた、どうしてそれを、」
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
 ──しまった。
「こんな変な日にこんなところへ、しかもそんな格好で来るなんて、偶然にしてはできすぎてるなと思ってた。──喪服だよね、それ」
 自分の服に視線を落とす。黒のTシャツに黒のスカート、濃い紺色のサマーセーター。夏にはまるで似つかわしくない服装だ。
「それに、それ」
 あたしの膝の上の文庫本に、やさ男は視線を向けた。「小学校くらいの女の子が読むような本じゃないからね。……そっか、こんな可愛い娘さんがいたのか。知らなかった」
「だから何だってのよ」
 頭に血が上った。「あたしからあることないこと聞き出して、週刊誌にでも売りつける? 鳴宮兼一郎のネタなんて、今さらどこも買いやしないわ」
「──ごめん、そんなつもりじゃなかった」
 驚いたことに、やさ男はあっさり頭を下げた。「嫌な思いをさせてしまったら謝る。もしかしたらとぼんやり思ってただけで、最初から君が彼の関係者と解ってて話しかけたわけじゃなかった。本当だ」
 やさ男のつむじが見えた。窓の隙間から風が入り込んで、茶色がかった髪をさらさら揺らしている。女の子みたいな髪だな、と、場違いな思いがよぎる。
 誰かの髪に似ていた。二年前、あたしの前からいなくなった誰かに。
 少しずつ、怒りが引いていった。車輪の音が窓を揺らしていた。
「──癌だったの」
 呟きが、知らず口許から漏れていた。やさ男が驚いたように顔を上げる。
「なまじ普段から健康だったから、具合が悪くなったときも、少しすればすぐ治るくらいにしか思ってなかったみたいで、若かったから転移も早くて、診てもらったときにはもうほとんど手遅れで」
 全部、後から聞いた話だ。最期の最期まで、あたしは何も知らされないままだった。

『野の花』 その頃、あたしはあたしで、とある事情から入院していた。あたしの放浪癖を当然知っていた兼一郎──あたしは普段からこう呼んでいた──は、「パパが代わりに行って来てやろう」と、あたしの髪を撫でながら冗談めかして笑っていた。小説の作風と違って、普段の兼一郎は少し子どもっぽい面も持ち合わせた、穏やかな男だった。
 自分の身体のことはついに一言も出さずじまいだった。バカな父親だった。
 誕生日にあたしがしぶしぶ買ってやった帽子を被って、病室のドアを出て行く兼一郎の痩せた背中が、あたしの見た彼の最期の姿になった。
 崖の上には、彼の愛用の黒い鞄がひとつ、主を見送るように静かに置かれていたという。
 その鞄を警察から見せられたときのことは──今も思い出したくない。

 あたしのひとり旅は、翌年から、兼一郎への鎮魂のひとり旅になった。
 兼一郎が身を投げたという**岬の崖の上で、三年前の家族旅行のときには見もしなかった花が、まるで兼一郎への献花のように咲き誇っていた。

「──あたしにも、解んないのよ」
 窓の外の草原を見つめながら、あたしは独り言のように呟いた。「あいつがどうして飛び降りなんかしたのか。どうしてあたしたちに何も言わないまま行っちゃったのか。そんなことする奴じゃなかったのに。あのときだって、いつもと同じように能天気に笑ってたのに」
 兼一郎もこの電車に乗りながら、窓の外の草原を見つめていたのだろうか。ぼろぼろだったはずの身体で、兼一郎はいったい何を思いながらこの列車に揺られていたんだろうか。
 遺書はなかった。けれど警察には、兼一郎が病魔に侵されていたという事実の方が大きかったらしい。自殺でないとしたら何のためにあの場所へ行ったのか、どうして帰りのきっぷを買っていなかったのか──それらの状況証拠も重なって、鳴宮兼一郎の死は『余命幾許もない身体で家族に負担をかけるのを恐れての自殺』と処理されて終った。
 あの場所は家族旅行の思い出の場所だ、兼一郎はきっぷをいつも片道分しか買わない、もっと詳しく調べて欲しい──そんなあたしたち家族の願いも、結局は届かなかった。
 殺人じゃないのか、と刑事に詰め寄ったこともある。だけど、兼一郎に恨みを持つような人間が浮かび上がらないと言われて、あたしは何も返せなかった。
 家を出て、花束を買ってあたしを見舞って、その足で列車に乗って**岬から飛び降りた。それが、あたしたちの知る兼一郎の最期の一日の全てだ。

 やさ男はあたしの独白を反芻するかのように、静かに眼を閉じた。
「──ナオ。彼が飛び降りた崖の上で、知らない花が咲いていた、って言ったよね。どんな花だったか思い出せる?」
 そんなことを急に言われても、細かく覚えているわけがない。ただ、赤くて、そんなに大きくなくて、星型のような花びらをしてたような……。
 そっか、やさ男は眼を閉じたまま黙り込んだ。長い時間が過ぎた。
「ねえ、ちょっと──」
「……ナオ」
 彼が目を開けたとき、そこには初めて見る真剣な表情があった。「僕も一緒に行っていいかい」
「え?」
「**岬まで。ひょっとしたら、何か解るかも知れない」


 駅を降り、バスを乗り継いで──
 **岬にたどり着いたときには、とっくに日も傾き始めていた。

 道沿いに張られたロープをまたいで、あたしたちは岬の先へ足を進めた。
 何も変わっていなかった。
 下から響く波の音も、かすかな潮のにおいも、ひとけの無い荒涼とした岩肌も、風に揺れる野生の花々も。──たぶん、二年前に兼一郎が身を投げたときと、ずっと同じまま。
 二年前に警察から聞いた場所へ、やさ男を案内する。
 位置はすぐ解った。去年と同じ花が咲いていた。星型の赤い花弁。三年前には見なかった花だ。この辺りでもたぶん珍しいんだろう。
 だけど、今さらここに来たところで、何の手がかりが得られるとも思えなかった。見てもしょうがないでしょ──やさ男に告げようとして振り向いて、あたしは息を呑みこんだ。
 花を前にしたやさ男の目が、まるで幽霊でも見るかのように大きく見開かれていた。
「ど、どうしたのよ」
「……サフィニアだ」
「『サフィニア』?」
「園芸用の花だよ。ペチュニアっていう外来種の品種改良種だ。こんな場所で普通に咲いてるような花じゃない」
「え」
 今度はあたしが目を丸くする番だった。「な、なんでそんなこと知ってんのよ」
 あたしも解らなかったのに。やさ男はあたしを顧みもせず「昔、アルバイト先で覚えた」とだけ言った。……本当に花屋の店員だったのか。
「どうして、こんなところで」
 やさ男は身を屈めて、その花──サフィニアを食い入るように見つめる。果てしない無言。強い突風があたしとやさ男の前髪をかき乱す。「……この花、三年前には見なかったって言ったよね」
 頷くあたしに、やさ男は「そうか」と立ち上がって、あたしに向き直った。肩を両手で掴まれる。
「ナオ、彼は自殺じゃない」
 え──
「な、なんでよ。どうしてそんなにはっきり」
「たぶん彼が、このサフィニアをここに遺したからだ。
 三年前には咲いていなかった。彼がここから転落したのが二年前。そして去年、この花が咲いていた。時系列的にはぴったり合う。とても偶然とは思えない。
 君への見舞いに花束を買った、って言ったよね。きっとそのときに、サフィニアの苗も一緒に手に入れたんだ」
「だからって、それでどうしてあいつが自殺じゃないなんて」
「『あなたがそばにいると心が和む』。サフィニアの元になったペチュニアの花言葉だ。
 そんな花を家族旅行の思い出の場所に植える。自殺を考えたひとの行動じゃないよ」
 あ──
「死ぬつもりなんてなかった。病気を治して、生きてまたここに来るつもりだったんだ。次の年、花が咲いた頃に家族と一緒に」
 あたしは唇を手で覆った。
 その場を動けない。声が震える。
「だったら、だったらどうして、飛び降りなんて……」
「……帽子が、風に飛ばされたんじゃないかな。
 彼が姿を消す前、君からのプレゼントの帽子を被っていた──んだよね。風に飛ばされた帽子を追いかけて、捕まえようとしたところで、きっと足を滑らせて」
 後には、草に紛れて植えられた苗と、苗を入れていた鞄だけが残る。シャベルの類も用意していたはずだけど、手に持ったまま崖から転落して、そのまま失われてしまったんだろう──やさ男の呟きの最後の方は、あたしの耳には届かなかった。
「……ばか」
 否定しようとして、あたしはできなかった。あたしのよく知る兼一郎が、目の前の岬で花を植える姿が──帽子を追いかける姿が、まぶたの裏に浮かんでは消える。
 あまりにも兼一郎らしかった。
 ばか。帽子なんてどうでもよかったのに。そんなつまらないことで死ぬ必要なんて、なかったのに。
 うずくまって頬を濡らすあたしの肩に、やさ男は静かに手を置いた。
「サフィニアって、育てるのが結構難しいんだよ。こんな場所に植えても苗が冬を越せる可能性はゼロに近い。
 それでも彼は植えた。自分とサフィニアを重ねたんだ。花が咲けば自分も治る、病気が治れば花も咲く──そんな願いを込めていたんだと思う。
 半分だけだけど、その願いは叶った。本当に奇跡みたいだ」
「……ばか……」
 そんなキザなこと言うな。……余計顔を見せられなくなるじゃないか。
 初夏の夕暮れの風が、あたしの身体をかすかに震わせた。

 周囲が夕日に染まる頃まで、あたしたちは岬の上の花を見つめていた。
「ありがと、謙一」
「いいよ、礼なんて」
 やさ男──謙一は微笑んで、すぐ眉をひそめた。「ところで、何だよその呼び名。ひとの名前を勝手に略さないで欲しいな」
「いいじゃない。名前で呼んであげるだけ有難いと思いなさいよ」
 兼一郎と同じ読みをそのまま口に出すのは、さすがに照れくさかった。「……そろそろ戻りましょ。若い男とこんなところにふたりきりなんて、我ながら軽率もいいところだわ」
「ひどいなぁ。──って、もうそんな時間か。次のバスって何時だっけ」
「ちょっと待って」
 時刻表を書いたメモが財布の中に入っていたはずだ。後ろのポケットから引き抜く──と、財布のファスナーに引っ掛かったのか、同じポケットに入れていた定期入れが、するっと地面に落ちてしまった。
「落としたよ、ナオ」
 謙一が拾い上げ──そのままの姿勢で固まった。
『野の花』 あたしの顔をまじまじと見つめて、開いた定期入れの中身を、また穴の開くように覗き込む。「……え?」
「ありがと」
 ばれたか。免許証の入った定期入れをあたしは兼一の手から奪い取り、お尻のポケットに入れた。
 謙一は口を開けたまま立ち尽くしている。「……って、ちょっと待った……」あたしは構わず、上着のポケットから指輪を取り出して、左の薬指にはめた。
 お待たせ、兼一郎。
 ようやく悟ったのか、謙一が顔を強張らせる。「……じゃあ、入院って、まさか」搾り出すような声を挙げて、「な……何で教えてくれなかったんだよ!」
「面白かったから」
 もう少し引き伸ばしたかったけれど、まあいいや。謙一は自分のさらさらした髪に指を入れて、「ああ、もう」と掻き毟った。
「赤ん坊をほったらかしにしてひとり旅なんて、どういう母親だよ」
「菜緒子は実家に預けてあるわ。まさか一緒に連れ歩くわけにもいかないでしょ」
「理由が違うだろ」
 謙一は頭を抱えながら、「詐欺だ……犯罪だ……冗談抜きで犯罪だよ……」
「いいじゃない、たかが電車賃くらい」
 この年齢で未だに子ども料金で乗れるのが、あたしの密かな特技だ。自慢したくもない特技だけど。よい子は真似をしないように。「ほら、行くわよ謙一。次のバス逃したら二時間待ちみたいなんだから」
 謙一は立ち上がると、諦めたように苦笑を投げた。
「解ったよ、素直《すなお》」
「その名前で呼ぶな」

 兼一郎──あたしはここにいる。
 あんたと出逢って、あんたを失って──孤高を気取っていた十二の頃には想像もしなかった人生だけど、それでも、あたしはここにいる。
 だから、心配しないで。
 また来る。今度は菜緒子も連れて。今年みたいにまた余計な奴がついて来るかもしれないけれど……あんたなら笑って許してくれるかな。

 走り出すあたしたちの背後で、兼一郎の花が揺れている。


[了]    

※作中の一部にて『野の花』(遊佐未森)の歌詞を使用させていただきました。

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