『回帰』

『回帰』

著/長屋言人

原稿用紙換算枚数25枚

<ネオンフィルター>

 雪の少ない冬の、札幌駅に降り立つ。
 とはいえ、北海道の冬はやはり寒く、コートの襟を立て、マフラーを首に巻き付けていても、細かな隙間から冷気が背筋を凍らせていく。きれいな構築物が、灰色の空に冷たいガラスを突き刺しており、その合間を、色とりどりのコートに身体を包んだ人々が歩く。
 冷たい空気の中を、僕はふらふらと歩き出した。
 駅前の通りはロードヒーティングが整備され、雪の姿はほとんど見えない。それでも、冬という季節のせいか、目に見える光景が、どこかモノクロームに感じられる。街路樹が、緑の代わりに青白いイルミネーションを咲かせている。希薄な色彩感覚。歩きながら、ヘッドフォンを取り出し、音楽をかける。ヘッドフォンチルドレン。あの頃の自分。歩くスピードと、音楽のBPM、そして、鼓動。シンクロする。
 低くにあった太陽は、早々とビルの谷間に姿を消し、濃藍色の空にビルの灯り、星は──やはり見えない。それも、あの頃と同じだった。
 歩くにつれて、だんだんとあの頃の記憶がよみがえり始める。
 怖さを知らず、希望に溢れ、信じることに根拠なんていらなかった頃。
 今は、一歩踏み出すことにも怯え、拾い集めるだけの希望もなく、目の前にぶら下げられた事実でさえ信じることができない。
 そうなってしまったのはなぜか?
 僕が、悪かったのか?
 寒さに震える身体の奥で燃え上がる後悔と内省を隠すように縮こまりながら、大通公園を抜け、真っ直ぐ南へと進む。狸小路を過ぎ、すすきのへと近づくにつれ、浮かれたような、諦観のような、独特な空気が漂い始める。
 彩るは、きらびやかなネオンサインか、淡い発光ダイオードか、または記憶の底にある一滴の雫か。
 赴くままに足を進め、市電通りから路地へと入る。記憶の中と同じように薄汚れた看板が白く光っている。Guilty Vanityと書かれた黒い文字。その隣の地下へと降りる階段を下る。
 狭く、暗い階段は、一種のフィルターだった。
 一段ずつ、たった数年のうちに溜まった澱が削ぎ落とされていく。
 後に残るのは、あの頃の、自分か。
 それとも、それすらも残っていないのか?
 スチールのドアは、落ちる寒気にさらされて、非常に冷たい。
 手袋の向こうに感じるノブの冷たさ。
「いらっしゃい……あぁ、久しぶり」
 マスターは、相変わらずの不器用な表情を僕に見せてくれた。
 かかる音楽も、昔と変わっていない。低く、狂ったようなきれいな旋律。
「久しぶりです……いつもの――と言っても分かりますか?」
 背の高いスツールに腰を下ろす。
「ああ、一度覚えたら、忘れないから」
 そう言いながら、ビーフィーターとトニックウォーターを氷が入ったグラスに注ぎ、ライムを添え、僕の前に置く。
「ありがとう」
 僕は、灰皿を引き寄せ、マルボロに火をつける。
「君の火のつけ方、良いんだよね」
 十年一日のごとく、マスターが言った。
「そんな、普通ですよ」
 右手で、ジッポを玩ぶ。
 彼女も言っていた。
 僕のライターのつけ方が好きだ、と。
 それを聞いて、きれいな音が鳴るように練習したりもした。
 響く倍音。オクターブで重なる1/f。
「今日は、スノーホワイトは良いのかい?」
 いつも、彼女が飲んでいたカクテル。
「ええ。もう、彼女は居ないから……」
 そう。彼女は居ない。
 そして、それが、僕が冬の北海道へと来た理由。
「そう」
 マスターも、タバコに火をつけようとマッチをする。
「僕も、マスターのマッチのつけ方好きですよ」
 燐の匂いを漂わせながら、揺らめく赤い炎。
 それは、消えることなど考えもしなかった、あの日の僕たちの想い。
「それは──よく言われるよ」
 にやりと笑いながら、紫煙を吐き出した。

 消える煙の向こうに、ビジョンが浮かぶ。
 春、一人暮らし、初めての場所、古い校舎、出会い、遅い桜、淡い空気、柔らかな太陽、輝く芝生、控えめな笑顔、予感の夜。
 夏、強い日差し、大輪の向日葵、遠くまで続く海、はじける水、躍動、喧噪、祭り囃子、花火、硝煙の匂い、焼けた線路、湿った夜。
 秋、天の高さ、流れる雲、燃える紅葉、寂しさの色、落葉のアルペジオ、いつまでも落ちない夕日、終わらないこと祈った夜。
 冬、すべてを塗り替えようとする白、空から落ちてくる白い花、震えた身体、寄せあった肩、握りしめた小さな手、何もかも許そうと、何もかも許してほしいと思った夜。
 彼女と過ごした、何年か。
 戻りたい?
 戻れない?
 変わってしまった?
 まだ、変わらない?
 彼女が好きだと言ってくれた、レスポールの音。
 部室にあったマーシャルは、まだあの音を響かせてくれるだろうか?
 低いステージの上、眩しいスポットライト、程良い緊張感と、得難い爽快感。
 六弦とハムバッカー、ディストーションが奏でる歪んだ音を、僕は忘れてしまったのだろうか?

「変わって、ないですよね?」
 何が?
「ああ、変わってないよ」
 対象が曖昧なままの答え。
 けれど、僕にはその答えで十分だった。

 店を出て、また寒空の下。
 小さな六花が踊っていた。

<白い病室>

 札幌から旭川へは、列車で一時間二十分くらいの旅程だ。
 窓側の席に座り、外を眺める。
 札幌の街中を過ぎると、視界が大きく広がり、遥か向こうまで真っ白な平原――夏には、一面の田畑となるのだろう――が続き、遠くに名も知らぬ山が見える。
 車内放送で停車駅が順にアナウンスされる。美唄という地名が耳に入る。
 今の僕は、その地名だけで彼女のことを思い出すことができる。
 彼女の歌は、きれいだった。
 透き通った、そして、決して切れないワイヤーのような歌声。
 その声に寄り添うようにして、奏でるフレーズ。
 もう、二度と存在することがないだろう。
 あの瞬間、あのステージの上。
 確かに存在していたはずの、彼女と僕のメロディたち。
 手が届かない。
 手を伸ばすことすら許されない。

 ポケットの中から手紙を取り出す。
 五線譜に書かれていた歌詞と同じ文字、彼女のだった。淡いブルーのインク。罫線の間にまとめられた文字。
 あの日──十二月に入り、東京でもやっと冬の息吹が感じられるようになったあの日、この手紙が来なければ、僕は北海道へと来なかっただろう。
 消印は旭川──彼女の故郷。
 冬には、どこよりも寒く、たくさんの雪が降る街。
 懐かしそうに、うれしそうに、寂しそうに話す彼女の声。
 今は、そのすべてを思い出すことができる。まるで、この北海道の白い大地が、僕の代わりに彼女のすべてを覚えていてくれたかのように。
 想いは、大地に積り、広い空に見守られ、そして育っていく。
 儚く咲く小さな花のような、あえかな言葉が結晶する。
 僕は、もう、何度読んだか分からないその手紙に、もう一度目を落とした。


 前略。
 こうしてあなたに手紙を書くのは、たぶんはじめてのことだと思います。あの頃は、もうどんな些細なことでもメールしてたのに。だから、改めてこうしてペンを走らせていても、本当に伝えたいことじゃなくて、小さな、掌にも余るようなことばかりが浮かんできます。
 窓から見える木に積った雪のことだとか。
 隣室の女の子に本を読んであげたことだとか。
 彼女はね、宮沢賢治が好きなの。猫の事務所で、竃猫のために涙を流せるくらいに優しい子。そして、遠くまで飛んで星になったよだかのように純粋な子。私みたいに、汚れてはいない。
 あなたは、きっと私を許してはくれないと思う。すべては、私の身勝手だったのだから。後悔してないと言えば、嘘になる。でも、許してくれと言わなくても、あなたならわかってくれると思っている。私が恋した、私が愛した、私を愛してくれたあなたなら。
 ねぇ、覚えてる? 私の実家の近くにあるって話した、旭川の旧偕行社のこと。結局二人で行くことはなかったけど、今、旧偕行社が見える所にいるの。あの、白くてかわいらしい建物の中で、どれくらいの人の想いが交錯して、消えていったのかしら? 毎日、深い雪に埋もれる白壁を見ていると、そんなことばかり考えてしまう。
 私の想いも、私が存在していたという事実も、同じように消えてゆくの?
 ねぇ、私はこの世界に──あなたの中に、確かに存在していたの? これからも、消さずに残していてくれる?
 こんなことを書くのは、とてもずるいってわかっているけど、今の私はどうしてもそれを祈らずにはいられないの。
 私は覚えているよ。
 初めて会ったときの、はにかんだ顔。
 あなたのギターに、私の声をのせた瞬間。
 二人で歩いた、夏の大通公園。
 ライブハウスの控え室に書いた、二人の名前。
 音と光の重圧につぶされそうだった、ステージの上。
 凍えるような星明かりの下で、あなたが弾いてくれた歌。
 踊る雪。
 白い結晶。
 暖かかった、あなたの腕の中。
 全部、全部残らず覚えているよ。
 今の私からあなたには、感謝の言葉とごめんなさいしか出てこない。
 本当にありがとう。
 あなたのおかげで、私はやっと「私」になれた。
 本当にごめんなさい。
 私は、結局あなたの中の一行にも満たなかった。
 ──そして、さようなら。

 旭川の駅前は、札幌よりも人が少なく、そして雪深かった。バスに乗り、現在は彫刻美術館として使われている旧偕行社へと向かう。初めて訪れる旧偕行社は、彼女からの手紙の通り、雪の中に埋もれるようにその白い姿を僕に見せていた。建物の前には、白いカーペットを幾重にも重ねたような雪に閉ざされた公園。所々に、子どもたちが作ったのだろうか、小さな雪山に、そりかスキーで滑ったようなあと。自分の子どもの頃を思い出す。針葉樹の梢に乗った、綿飴のようなパウダースノー。彼女は、これを眺めていたのか。これに何を思っていたのか。
 揃いに作られたような、旧偕行社と小さな塔を横目に見ながら、病院へと向かった。
 冬、午後の病院の中は、ストーブで無理矢理暖められた空気が、どこか懐かしい。
 リノリウムの床に靴音が響く。
 薄暗く。
 醒めた階段を上る。
 そして、彼女が入院していた階の休憩所のようなところへと辿り着く。
 そこには、入院着の上にカーディガンを羽織った少女。手元には一冊の文庫本。濃いブルーの表紙。ああ、それには見覚えがある。彼女が好きだった。
「こんにちは」
 その少女に話しかける。
「──ええと……」
 読みかけの場所にスピンを挟み、僕を見上げる。
「突然ごめん。ここに前いた人の知り合いなんだけど」
 そう言って、彼女の名前を告げる。
「ああ、あのお姉さんのお知り合いなんですね……」
 安心したような、そして、悲しげな表情。
「手紙に、君のことが書いてあったよ……」
 僕の言葉に、少女がはっと顔を上げる。
 その表情を見て、僕は、いつかの彼女を思い出していた。
「それじゃあ、あなたが……」
「彼女、何か言っていた?」
 今更聞いてどうなる?
 もう遅い。
「──自分にとっての、カムパネルラだったって」
 少女の瞳が、優しい。
「僕が、カムパネルラだって? そんな──」
 僕は、不器用なゴーシュだ。カムパネルラのような、優しさなんて、ない。
 彼女こそ、僕にとってのカムパネルラだった。
 永遠に求めてやまない、シグナレスだった。
 天を焦がす蠍の赤い星。
「あの、泣かないで……」
 そう言って、僕の頬に流れる涙をすくう、少女の細い指。窓の外に積る処女雪のように白く、冷たい。
「すまない……」
 それ以上、言葉が出ない。
 フラッシュバック。
 螺旋するビート。
 重層的分散和音。
 確かに、この手につかんでいたはずの幻。
 なくしたものはあまりにも大きく。
 戻れない。

<蒼凍日和>

 払暁。一面は白く、どこまでも。足跡、一筋。終わることなく、留まることなく。僕は、そこを歩くのか。それとも、ただ、ここから眺めるだけなのか。終焉。始まりと終わりを感じる。朝焼け。赤く。永続性。無限。一、二、三、五、七……ゼロに近づく。舞い降りろ! 凍えるほどに。マイナス四十一度。停滞する分子の運動。次元を上げる。いつまでも、ヘッドフォンチルドレン。記憶が入り乱れ、運命が交錯する。嘘はなかった。ただ、二人とも幼く、ただ、二人とも大人びていただけ。儚く、消えていく。周縁から中心へ。無限からゼロへ。それは、すなわちゼロから無限へということとイコール。堕ちきれない月。白い醜態。それは、あまりにも美しく。あまりにも観念的な。遠回り。近づけない。極限、近づいたとしても、それは決して重なることはない。ユークリッドの限界。非ユーックリッドへの越境。果たされぬ。針の穴もあけられることはなく。届いたのか、届かなかったのか。結局は、見えざる神の掌の上に。軋む雪。一歩、進んだのか? 手には、季節外れの花束。確かに感じていた温もり。カラー。朧げに。六弦の響き。ディストーション。コーラス。奏でるは、生命の賛歌。
「水素のようにすきとおった」
 それが、答えなのか? すれ違い。足跡は、ひとつになることはない。二人で歩いたのは事実。疑いようもない。記憶が、想いが雄弁に語る。散るのは、風霜に舞うひとひら。六花の花弁。自然が創りだす、奇跡のような幾何学模様。涙も、今は遠く。青空。蒼穹。深々と。忘れられないのは弱さか? それとも、人間の生存本能か。僕は、ストーリーを求めていた。決して消えることのない徒花。あの日、あの夜、抱きしめたものは、いったいなんだったのか? あの日、あのステージの上、彼女は何を歌っていたのか? 反逆する堕天使。もう、今は響かないのか。綺麗なものなど、嘘だ。汚れてしまえ。それを求めていたのは、僕だったのか、それとも彼女だったのか。もしも、この罪が許されるのであれば。もう一度彼女を愛することができるのであれば。震える身体。重なりあう心。細い指と、冷たい唇と、その間に、求める答えはあったんじゃないか? あまりにも簡単に、僕はその答えを見過ごしていた。あれほどに、切実に求めた、何よりも大切に思っていた彼女なのに。
 目には、眩しいダイヤモンドダスト。
 冷めていくこの場所で、彼女は何を考えていたのか? 自らの血液が凍りゆく音を聞きながら、何を思っていたのか? 僕の、冷たさ?
 ねぇ、知っている?
 ほんとうに透き通った、純粋な水の中じゃ、魚は生きられないって。
 ダイヤモンドダストがこんなふうに煌めくのは、空気に小さな塵があるせいだって。
 君と、僕は、どうしてそれを認められなかったんだろうね?
 今なら。
 そう、今の僕なら、きっと君のすべてを認められる。受け入れられる。
 ここで、二人で眠ることだってできるだろう。
 でも、君はひとりを選んだ。
 僕を、置いて逝くことを選んだ。
 残されたものの悲しみは。
 たったひとつ、何を願うのか?
 現実。夢。狭間。崩壊する自意識。芽生える共感。
 もし、あのときの、君と僕が。あのときの感情が恋だと、愛だというのであれば、今のこの感情はいったいなんなのか? 信じて良いのか。嗤えば良い、こんなにも滑稽な僕を。途切れることのない後悔。痛い? もう、すべて麻痺しているはずなのに。冷たさ。融ける。やめて。逝かないでくれ。存在するということは、何かを壊して、誰かを傷つけるということなのか。それでも、僕は生きていたいのか。まだ足りない。ネガティブとポジティブ。溺れる。終わらない。螺旋を描き、堕ちる粉雪。結晶する。あまりにも脆く、危うく。絡み付く感情、動かない指。触れられない頬。曖昧なままに。白い肌。黒い髪。もう一度、もう一度だけ。あと、たった一度を何度繰り返したのか。誓ったはずなのに。飽きることない欲望。そうして、僕は大切なものを失う。醒めて。せめて。
 もう、戻れないのなら。
 もう、取り返すことができないのであれば。
 もう、二度と楽になることはない。
 現実に還るのであれば。
 僕は、これから何度でも振り返るだろう。
 何度でも、後悔するだろう。
 何度でも、間違うだろう。
 何度でも、そう、何度でも。
 これから先、生き続ける限り。
 絶えることない孤独。
 恒星と、恒星の間に。
 壊れるほどに。狂おしく。痛みを抱く。
 壊せないのなら。終わらないのなら。
 喪失感を忘れない。
 そっと、包み込むように。
 何よりも大切だった君へ。
 イコールで。
 もう、恐れない。
 痛みを、後悔を、過ちを、孤独を、悲しみを、切なさを。

 だから、さようなら。
 僕が愛した君よ。

"Re-volve" is over.

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