『神色師』

『神色師』

著/恵久地健一
絵/空 樹

原稿用紙換算枚数100枚

各章へのショートカット
→(1) →(2) →(3)

 ガラエト共和国北部の国ざかい。標高五千メートル級の山々が連なり、南北に長いアザフ大陸を仕切るように横断する、エルマトラ山脈。その山地に暮らす人々を、カルド族という。
 ガラエトの初代君主にして、西方移民でありながら中央の統一をなしとげた、奴隷王グノスバール。カルド族は彼の支配や西方諸国の植民地化を逃れた原住民だ。
 なだらかな斜面の所どころに密集した、色彩のとぼしい質素な家々。現在も昔ながらの狩猟と牧畜を生活の基盤とした地図に記される名もなき、小さなカルド族の村々。
 そのひとつ。山の中腹へ位置した村の入り口に、一軒の大きな家がある。村で唯一の酒場であり、宿泊施設である。ただし客の大半は、村の男たちだ。店の主人も村長がつとめている。ようするに村の集会所だ。夕刻ともなれば男たちがつどい、おたがいに酒をくみ交わす。
 山地の生活は厳しく、娯楽も限られている。それゆえ、彼らはわずかな喜びをみなで共有し合う。店内で時間を過ごす村人の誰もが顔見知りであり、親子であり、兄弟なのだ。
 しかし今、その純朴な男たちのコミュニティーへ、もめごとの種がひとつ、外部から持ち込まれようとしていた。

■/1/


 季節は冬――ただでさえ寒冷な山地において、ひとかけらの温もりも見逃さぬほど寒気の勢力が増す時期だ。こまやかな雪をもてあそぶように巻き上げる風が、ひょうひょうと冷たく吹き荒れている。酒場を囲う石壁は外の冷気をはばんでいたが、女の悲鳴に似た風の音だけは中にまで侵入し、聞くものの心に寒さをふりまく。
 酒場の主人である村長は奥のカウンター越しにある調理場に立ちながら、厚みのある包丁をふり下ろす。鹿肉を解体する手は三十年以上の猟師生活でならされ、表面が黒ずみ無数のシワが刻まれている。
 手元と交互して、顔を上げる。店の席は村の男たちが埋めつくしている。テーブルに置かれたロウソクにもすべて火がともり、陶製のカップに酒を入れたタンカードが配られている。しかし店内には普段ほどの喧騒がなく、うっそりとはびこる重たい空気が感じられる。
 ただし入り口の一角だけは人だかりができ、そこで男たちが騒いでいた。
 入り口は調理場から見て対角線上の端だ。ぶつ切りにした鹿肉を大鍋に煮え立つシチューの中へ放り込む。仕込みを終えた村長が騒ぎの元へ向かおうとした、そのときだ。
 カウンターの横にある階段から靴の音が聞こえ、村長は顔を向ける。細身の青年が、ひとり二階から下りて来る。赤い髪に、白い肌。アゴには髪と同色の短いヒゲが生えている。
「あ、どうも。こんばんは」
 赤い髪の青年は階段の下にいる村長に気づき、ほがらかな表情であいさつを交わす。
 青年の名は、ジン・クエッティ。村の人間ではない。店で唯一の宿泊客であり、この付近ではめずらしい西方人だ。旅芸人として村に立ちより、一ヶ月ほど店に滞在している。
「おう、あんちゃんか」
 村長は愛想なく答え、カウンター前の場所をゆずる。厚みのある一枚布の長服が、ジンの体にゆれる。カルド族の衣装だ。袖口と腰をヒモで絞り、中にシャツとズボンを着込む。外へ出るときは、その上から毛皮を着る。
「すまんが、あんちゃん。メシが食いたけりゃ、自分で用意してくれんか」
「それは、かまいませんけど。何かありました?」
 入り口の人だかりと村長の表情を見くらべ、ジンは訊ねる。普段から岩のように厳しい顔をした村長が、さらに口元を難しそうに結んでいる。
 食事の支度を押しつけられることへの異論はない。カルド族の村には通貨がなく、労働力や物品が対価とされる。村の男たちと違い、狩猟のえものを店に提供できないジンは宿泊費のかわりに店の作業を手伝い、ときには旅の話や歌を客たちに聞かせていた。
「今しがた外から人が来たんだが、どうも怪我をしているらしい」
「らしい?」
 語尾の不鮮明さをとらえ、ジンは眉根にシワをよせる。
「たぶん上の村に住んでるやつだ。そいつが山で動けないところを通りすがりのやつが助けたらしいんだが、どっちも話を聞けなくてな――おう、お前ら。場所を空けやがれ!」
 はげしい一喝が店内に響き、入り口の男たちが静まる。割れた人だかりに、村長が近づく。
 ジンは背伸び立ちに目をこらし、騒ぎの中心をうかがう。横たわる人間の足が、人だかりの退けた床に見えた。動かない長靴が雪と泥にまみれている。
 その横に、小柄な人影がうずくまる。体へ巻かれたマントに解けかけた雪をのせている。顔に防寒用の布を巻いているため人相は分からないが、村長が声をかけ、顔を近づける。
 相手は寒さと疲労で声が出ないと見え、村長は耳を口元によせ、かたことのガラエト語で話しかけている。近隣の人間ではないのだ。ジンは様子が気になり、そっと入り口に近づく。
 まわりでざわめく男たちの声から、床に倒れた人物のものと思わしき情報を拾う。
(上の村……村長の……ギート)
 床に倒れているのは、カルド族の青年だ。怪我の様子は服の上から見た限りでは分からないが、目を閉じた顔には生気がない。遭難者か――今年の山は例年にない寒さと雪に見まわれているという話を、ジンは村長から聞いていた。
 普段なら空気がぬるみ、草木の芽がふくらむ時期にもかかわらず雪が解けないのだと。山の高台では積雪に道を閉ざされ、孤立している村もあるという。
 お湯を入れたタンカードが、村長の指示で運ばれる。小柄な人物は目の前にさし出された陶製のカップに手を伸ばしかけたが途中で止め、その手で顔に巻いた布をはぎ取る。
 瞬間、男たちにどよめきが広がる。布の下から白い顔を見せたは、若い女だ。長さのない金色の髪は少年のような形をして、わずかに先のとがった特徴的な耳をのぞかせる。
 入り口だけではなく席に座る男たちも、その場で立ち上がる。店内の誰もが意外な正体に驚きを見せていたが、ほかならぬジン自身の動揺は彼らの比ではなかった。

「しっっ!」――師匠!

 出しかけた声が途中で止まる。驚きのせいもあるが、黄色の瞳をした女の視線が一瞬ジンを射抜き、無言の重圧でノドを閉じさせたのだ。
 お湯を飲みほした女は、空のカップをかえす。渡された村長の顔にも、困惑が見られる。
 いくぶん疲労も回復したと見え、女は悠然と立ち上がり、手にした布をターバンのように頭へ巻いて結ぶ。その動作と同時に店内を見渡した視線がジンの顔に止まり、女の口元がわずかにゆるむ。それが不遜なトゲを込めた笑みであることを、ジンだけが理解できた。
「ほおぅ、これは聖音師どの。ずいぶんと、めずらしい場所で顔を合わせるじゃないか」
「いやあ……元気にお会いできて何よりです……」
 おたがい西方圏の言葉による会話のため、カルド族の男たちには伝わらない。容姿や声色に不釣り合いな威厳と迫力を感じさせる口調も、分かるのはジンだけだ。
「なんだ、あんちゃんの知り合いか?」
 床に倒れた青年の容態をうかがいながら、村長が訊ねる。
「知り合いというか、その」
 まわりの男たちからも視線が集まる中、ジンは前に出て、カルド族の言葉で答える。
「ええと、彼女は俺と同じ芸人で、一緒に旅をしている仲間です」
 名前は、ヨナ・ベルカウンター。仲間といえば仲間だが、ジンにとってはこの世でただひとり、裸で炎の中に飛び込めと命じられても逆らうことのできない相手だ。
「おいジン。話の時間は、あとだ。すぐにこいつの手当てがしたい。どこか温かくてベッドのある場所を借りられないか?」
 鋭い口調で声をかけ、ヨナは倒れた青年を指さす。それをジンが通訳して、村長に伝える。
 この付近では旧時代の言葉が使われているため、国外の言葉はもちろん同じ国内でも中央のガラエト語は通じないのだが、ジンは一ヶ月の滞在でカルド族の言葉を習得していた。芸人や詩人に扮して世界中をまわる生活が長いため、言語の順応が早いのだ。
「彼を運ぶなら俺の部屋がいいでしょう。ベッドの用意もあるし、暖炉にも火があります」
「そりゃあ休ませるのはいいが、そのねぇちゃんが手当てするって?」
 村長は不審そうな目つきを浮かべる。ジンはその視線からヨナを背中へ隠すように、ふたりの間に立つ。村長の反応は無理もない。ほとんど目にしたこともない異国の人間が相手だ。その上、カルド族において女という存在は一種の禁忌でもある。
「大丈夫ですよ。彼女はこう見えて、怪我や病気にくわしいですから」
「なんだ。何か問題か?」
 背後からの声にふり向き、ジンは声をひそめる。
「あの、あちらはこの店のご主人で村の村長なんですけど。怪我人の容態は大丈夫かと」
「天香師の妙薬を少し飲ませたから体は問題ない。今のところ意識がないのは薬の作用で寝ているせいだ。ただ顔と足に凍傷が出ている。すぐに治療した方がいい」
「なるほど、分かりました」
「部屋が駄目ならかまわんぞ。ここにいる連中を全員眠らせて、この場で治療する」
 物騒な発言に押されジンは村長に頭を下げ、懸命に説得する。ヨナならやりかねない。海の向こうでは過去に百人の兵隊と正面からやり合い、ひとりで戦場を混乱させたこともある。
「まあ、あんちゃんがそこまでいうなら、あんたらに頼んでもいいが」
「そうですか。ありがとうございます」
 ジンはあらためて、村長に深く頭を下げる。
「それと聞きたいんだが。倒れていたのはひとりか? ほかに誰もいなかったか?」
 村長の承諾と質問をヨナに伝える。返答は「ひとりだ」とのこと。
「そうか、分かった――おう、お前ら! 酒がまわってないやつは手を貸せ! こいつを二階へ運ぶ。それと誰か、ばあさまに怪我人のことを伝えろ!」
 村長の大声で店内が動き出す。まだジンたちに視線を向け、何ごとか話している男たちもいたが反対や不満を口にするものはいない。それだけ村長の存在は絶対なのだろう。
「あとは念のため外の様子を調べる。五、六人でかまわん。出られるやつは準備しておけ!」
「ジン、お前は外にある私の荷物を運べ――ああ、それからな」
 男に抱えられて二階へ運ばれる青年を見送りつつ、ヨナはジンの服をつかんで引き止める。
「なんですか?」
「お前への説教は、治療のあとだ。覚悟しておけ」
 赤い瞳に畏縮の色を浮かべるジンの体を手で叩き、ヨナは村長に続いて階段へ向かう。
 その姿が消えると、ほかの男たちからジンに向け、彼女との関係を冷やかす声が飛んだ。
 外見はジンよりも若く見える女の姿だ。言葉の分からない彼らが、親密な関係を想像してからかうのは無理のないことだが。背中へ浴びせられる言葉を曖昧な苦笑で受け流しつつ、ジンはヨナの荷物を取りに店の外へと向かった。

■/2/


 服を脱がされたカルド族の青年が簡素なベッドで寝かされ、毛布をかけられている。
 酒場の二階。ジンの宿泊している部屋だ。石壁に窓はなく、家具といえば質素なテーブルと椅子。それに明々と燃える暖炉。ひとり部屋のため、中に三人もいると狭く感じる。
 床に散乱した服を片づけながら、ジンはベッドの横で作業するヨナに視線を向ける。彼女は椅子に座り、テーブルの上にさまざまな道具を並べていた。
 頭に巻いた布はそのままだが、雪で濡れた服は着がえていた。薄地の毛布をマントのかわりに羽織り、その下のシャツとズボンは体の面積に合わせたスリムなもの。胸から胴体に皮製の前かけ。腰に巻かれた太いベルトには、いくつかのホルスターとポーチがついている。
 背中の毛布以外は職人の作業服という姿だが、彼女にはそれが普段着なのだ。
「それにしても、師匠が人前でその姿をしているのはめずらしいですね」
「んー、仕方あるまい。いつものサイズだと怪我人を運べないだろう」
 手元の作業に集中したまま、ヨナは答える。テーブルの上には白い陶製の小びんがいくつも置かれている。そのひとつを手に取り、もう片方の手に持つ細長い筒の中へ小びんの口をかたむける。筒に移しかえられた小びんの中身は、色のついた粉だ。
 持ち上げた筒に水さしの中身を少し注ぎ、分量を確かめ、また少し注ぐ。
「おーい、ジン。暖炉の火を強くしてくれ」
 粉と水が混ざるように筒を軽くふりながら、暖炉の前で椅子に座るジンを呼ぶ。濡れた服を暖炉で乾かしていたジンは足元に置かれたカゴから薪木を取り出し、炎の中にくべる。
 火力が強まるよう手にした棒で暖炉をかき混ぜようとするジンに、ヨナはわずかに視線を動かし、作業を止めた手で壁の前に置かれたものを指さす。
「そうじゃない。そっちを使え」
 入り口近くの壁には木製のリュートが立てかけられていた。ジンが常に携帯する楽器だ。
 雫型をした円形のボディーに、指板を取りつけた細長いネック。平らな板の中央に穴を空けたボディーの表面から、ネックの先端にかけて六本の弦が固く張られている。
 椅子に戻ったジンは、手にしたリュートをヒザにのせて座る。両手の指で弦の上下を押さえて姿勢を決めるその表情は、真剣なまなざしで指先を見つめている。
 ヨナが作業を続けながら耳をかたむける中、ジンの演奏がはじまる。
 ボディー側の指が六本の弦をこするように踊り、ネック側の指が弦の振動を制御するように指板の上をすべる。その素早い動きは、長い手足で糸をつむぐ蜘蛛のしぐさを思わせた。
 しかしヨナの耳には、リュートから流れ出たはずの音が聞こえない。
 いや、音は出ている。認識できないのは音があまりにも、周囲に溶け込んでいるためだ。
 息をひそめて耳の神経を研ぎすませば、聞こえるのは外で吹く風の音。暖炉の中で燃やされた薪木が、ぱちぱちとはぜる音。炎にあぶられた空気が風のように渦巻く音。
 ゆらり、と赤い炎が大きく伸び上がる。その動きを注意深く見れば、炎がありえない速度で成長しているのが分かる。さらにそれは、リュートを奏でるジンの指に呼応している。ただし卓抜したヨナの視覚でしか追えない動きだが。
 ジンが演奏するのは曲と呼べるものではなく、天地自然の音そのもの。薪木のはぜる音も熱せられた空気の音も、すべてジンの手が再現した音だ。勢いよく燃えていたのは音の方。その音が暖炉の炎に作用し、火力を引き出したのだ。
 完全なる音を操ることで、事象に影響を及ぼす能力者――聖音師。
「腕は落ちてないようだな」
 その言葉にジンの表情から真剣さがゆるみ、おだやかな笑みが広がる。
 それはこの世で、ジンにしかできない。彼に能力の存在を教えたヨナでも、実践することは不可能だ。人の耳は限られた領域の音しか聞くことができない。だが実際には高低のすみずみに及ぶ広大な音域が存在し、自然には人の想像を超えた表現の豊かな音の世界がある。
 ジンの耳は、それを感じることができる。単純に自然の音を真似るのではない。すべての音域を完全に一致させた音を奏でなければ、その奇跡を引き起こすことはできない。
「お前に説教をする材料が減って残念だ」
 ジンの視線を断ち切り、ヨナは準備を終えて立ち上がる。
「さて私もやるか」
 背中から毛布がすべり落ちる。テーブルの上に置かれたいくつもの筒を手に取り、ベルトのホルスターへ順番にさし込んでいく。筒の中に入れられたのは定着剤を混ぜた水溶液と、それぞれの色粉。つまり今の中身は絵具だ。
「あ、俺も手伝います」
 ジンはリュートを置いて立ち上がり、ベッドのそばへ歩みよる。青年にかけられた毛布をずらし、足元と顔の下、首の辺りまで見えるようにする。容態が落ちついたらしく青年の体に赤身がさしている。だがそのせいで、凍傷の症状が余計に目立つ。顔の所どころがやけどをしたように赤く腫れ、足の方はむくんだように白く、血の気が足りていない。
「手出しは不要だ。下がれ」
「失礼しました……」
 ヨナは両手に手袋をはめていた。指先のない皮製の手袋だ。指のつけ根、それぞれ十本の部分へ指よりもわずかに長い絵筆が取りつけられている。軸を調整された絵筆は、それぞれの指を伸ばした際に先端の長さがそろうように作られていた。感覚としては絵筆つきグローブ。あるいは、つけ爪に近いかもしれない。ジンは少し下がり、彼女の様子を見守る。
「まずは顔だな」
 ヨナは両指の絵筆を筒の中に入れ、引き上げる。十本の白い筆先が五色に染まる。左右それぞれに黒、青、赤、黄色、白。絵筆をつけた両手が青年の顔に近づき、一瞬止まる。顔色を見たのだ。凍傷におかされていない部分の肌を確認し、ヨナの指が動き出す。
 ジンの目にはその動きが、ピアノの鍵盤を弾いているように見えた。手首から先が左右に動き、指が素早く上下する。だが実際には目で見ている以上の速度で指先が動いている。
 青年の顔から、見るみるうちに凍傷が消える。正確には凍傷の部分が塗りかえられているのだ。青年の顔をカンバスがわりに、ヨナの絵筆が肌の色を再現している。
 通常の絵師はパレットの上で絵具を混ぜて色を作る。だがヨナは直接、わずか五種類の色を対象の上に塗りかさねることで瞬時に色を作り出す。そしてその色は、奇跡をもたらす。
「さて次は、足か」
 今度は足の上で、ヨナの両手が動き出す。この世のどんな絵師も、彼女の技法を真似ることはできないだろう。
 十本の絵筆を指につけて操る技術もさることだが、何より実物の対象と完全に同じ色を作り出すことができるのは、ヨナだけなのだ。人をふくめ、視覚を持つ生物全般は同一の色を見ることができない。生物が違えば視覚も異なり、同じ種族でも色覚には個体差がある。まったく同じ赤でも、人の見る目が違えば黄色が強く見え、あるいは青みがふくまれて見える。
 目の数だけ異なる風景の世界が存在し、正確な色は誰にも分からない。その中でヨナは固有の色を正確に見ることができる。彼女の瞳に映る色こそ、自然が持つ唯一の色なのだ。
 絶対の色彩を作り出すことで、事象を復元し変成させる能力者――神色師。
「神技『活性の肌色』!」
 ヨナの指が止まる。それはまさしく神の技といえるだろう。魔法と呼べるほど不思議なものではなく、技術と呼ぶには人知の域を超えている。ジンの耳がこの世でただひとつの超感覚を宿すように、ヨナの目にもそのひとつが授けられている。
「さすが、お見事でした」
 ジンは床に落ちた毛布を拾い、椅子に座るヨナの背中にかける。
「まあな。凍傷以外の怪我をせずにすんだのが幸いだろう。いちおう私の荷物から包帯を出して足に巻いてやれ。凍傷が消えても、まだ感覚のしびれや熱が残るはずだ」
 ヨナに命じられるまま、ジンは部屋のすみに置かれた荷物を取りにいく。ジンが部屋に運んだ荷物だ。大きなリュックがひとつに、肩がけのカバンがひとつ。
 ジンはリュックから取り出した包帯を片手にベッドへ戻り、青年の両足に巻く。凍傷はもう完全に消えていた。肌に赤味がさし、足の裏に浮き出たシワも見える。ヨナが筆を走らせた形跡は、どこにも残されていない。本当に筆舌しがたい能力だ。
「それにしても、よく彼を発見できましたね」
「運よくというべきだな。林の中で雪と風をしのごうとしたら、地面に倒れていたんだ」
 テーブルの道具を片づけながら、ヨナは答える。ベルトにさし込んだ絵具入りの筒はそのままに、コルク栓で口だけ閉じる。絵筆つきの手袋は筆先を洗い、腰のポーチに戻す。
「私でなくとも誰かが見つけただろうが、危ない状態ではあったな。何かの事故に襲われたのかもしれないが、この雪山で荷物もなしに体ひとつというのは普通じゃない」
 確かに、とうなずきジンは青年の体に毛布をかけ直す。そのとき、ふと青年の顔に動きが見えた。わずかに口が開き、まぶたが閉じたまま動いている。
「師匠、彼の意識が!」
「ああ騒ぐな。こっちの水さしはまだ綺麗だ。少し飲ませてやれ」
 ジンは渡された水さしの注ぎ口を、青年の口元に近づける。
「何か言葉を話しているみたいですね」
 無意識のまま水を飲み込んだ青年のくちびるが、ふるえるように上下している。
「林の中で助けたときも何かつぶやいていたな。ここへ運ぶ途中までは、まだかすかに意識もあったんだ。言葉は分からんが、たしかグーとかなんとか」
(グ……ラ……ニ)
 くちびるの動きを読み取り、ジンはそれを頭の中で置きかえる。
「グラニ――たぶん恋人の名前だと思います」
「どうして分かる?」
「さっき村長から聞いたんです。彼の名前は、ギート。住んでいるのはここよりも山の上にある村で、ここの村には彼の婚約者がいるそうです」
 ヨナが服を着がえている間に、ジンは部屋の外で村長と話していたのだ。
「それと彼の胸にある木彫りの首飾り。あれはカルド族の春祭りで未婚の女性が男性に送るものです。それを男性が首に一年間かけ続ければ、次の春祭りに結婚を申し込めるんです」
 ふむ、とヨナはうなずく。首飾りはヨナも見た。丸い板に花の意匠が彫られたものだ。
「カルド族の女性は家の中にいて、山の一族が集まる春祭りのときしか、身内以外の男性と会う機会がないんですよ。年頃の女性は誰とも知らない相手に向けて、首飾りに花の意匠と自分の名前をきざみ、男性は順番を競いながら、山の女神エリルのやしろに奉納された首飾りを取りにいく。おたがい顔も知らない男女がひとつの首飾りで結ばれる。いやーロマンスだ」
「そうか? 私ならそんな賭けごとじみた方法で婚約者を決められるのは、ごめんだが」
 少し声に疲れの見えるヨナの言葉に、ジンは苦笑を浮かべる。確かにこの方法では男女の自由な恋愛ができず、個人の意志も生かされない。だがそれも厳しい環境の中で人々が生き残るために生まれた文化だろうと、ジンは思う。
 ほかにもカルド族には山の女神が嫉妬するという理由で、女を山に入れない風習がある。それも女を家に束縛するものではなく、山の危険から遠ざけるための意味があるのだろう。
「まあ上の村は今、雪に道を閉ざされて孤立しているという話ですから。彼は何かの理由で助けを求めるために雪を超えて、婚約者のいるこの村に来るつもりだったんじゃないですか」
「ふむ、それだけじゃないだろ。もし私が同じように厳しい環境に閉じ込められて近くに大切な恋人がいるとしたら、相手が自分と同じ目で苦しんでいないか心配するよ」
「なるほど。師匠も意外とロマンサーですね」
 と軽口で受け答えたところ、ヨナに睨まれた。
「お前それより、ずいぶんこの土地にくわしいみたいだが、いつからここにいるんだ? 私との合流をすっぽかして、一体お前はここで何をしていた?」
「いや、そんな……くわしいというほどじゃ。たまたま酒場で色々な話が聞けただけで」
 おたおたと弁明しながら、ジンはヨナのそばを離れ、入り口の方へ後ずさる。
「それじゃあ俺は、彼の治療がすんだことを村長に伝えないといけないので。すいませんが、ちょっと下にいってきます」
 後ろ手に扉を開け、ジンは体をすき間へ押し込むように部屋を出る。ヨナを見ればベッドの青年に顔を向けたまま、呼び止める声はない。ただしジンが扉を閉めようとしたとき、
「まったく男というやつらは……」
 とつぶやくヨナの声が聞こえた。その言葉は、どこか治すことのできない古傷の痛みにたえるような、やりきれない響きが感じられた。


→次章へ

この作品をはてなブックマークに追加この作品をはてなブックマークに追加


読み終えましたら、web拍手をお願いします。壁紙をプレゼントさせていただいております。

目次へ戻る