『神色師』(2)
■/3/
熱いお湯に満たされた、高さのない木の桶。その水面に白い足がゆらいでいる。指先に並ぶピンク色の爪が、水中に咲く花びらのように愛らしい。
「んー、極楽だ」
両足をお湯につけたヨナが気持ちよさそうに表情をゆるめ、うっとりと声をもらす。ベッドに腰かけ、ズボンをヒザの位置までめくり上げている。いわゆる足湯と呼ばれるものだ。
マントを体に巻いた彼女の手には木の皿があり、鹿肉のシチューが盛られている。しかも湯気の立つそれはすでに二皿目で、食べ終えた空の皿が床の上に置かれていた。
「それで、どうしたジン。下を向いてないで、しっかり私の顔を見て続きを話せ」
「ええと、はい……」
頭上からの声に、ジンは顔を上げる。ヨナの前で床に座らせられているのだ。両ヒザをそろえて床につけ、お尻を両足の上にのせた正座である。場所はカルド族の青年を治療した部屋の向かいにある別室。青年の容態はまだ完全に回復したとはいえないが、あとの処置は村長らにまかせ、ジンたちは荷物ごと部屋を移動したのだ。
その後の現在は、ヨナによる容赦なき説教が進行中である。
「じゃあ俺のいた船がひどい嵐に襲われて、なんとか転覆だけはまぬがれたあとですけど。海を遭難したぶん予定の港に入れなくて、大陸の北へ流されたんです」
「うん、そうだな。そうでもなければ、私より早い船で先のりして色々と調べるはずだったお前が、合流する町に来ないはずないよな」
説教の内容は、ヨナと合流するはずのジンが予定を守らず、カルド族の村にいたこと。ヨナたちはある目的のために、はるばる海を越えて東方の開拓地まで来たのだ。
「だが北に流されたのなら、すぐに陸路で南の町まで来ればいいだろう。怪我や病気で動けなければべつかもしれんが、港よりさらに北のここにいたことが理解できん」
「はい、俺は無事でしたが。船の乗客に旅芸人の一行がいて、その中の楽師さんが遭難のせいで重病にかかりまして。音楽がなくては、彼らがこの大陸で興行することができない。とはいえ、楽師さんを治療するためにもお金をかせがなければならない。これは困ったどうしようと話している彼らを、俺が横で見ていまして」
「ほおぅ、それで?」
話の先はすでに分かっていたヨナだが、シチューを食べながら続きを聞く。
「そこで俺が彼らに話しかけまして。よければ楽師さんのかわりに興行の音楽を引き受けようかと一曲披露したところ、ぜひと頼まれまして。しばし一行へ加わることになったのです」
「お前は、英雄伝承で主人公の仲間になる脇役か?」
「……すいません、本当に。ただ困っている人を見捨てるわけにはいきませんし」
ジンとしても旅の目的を忘れたわけではない。付近の情報を集めるかたわら、旅芸人たちの手伝いができればよいと考えたのだが。
「いずれにせよ、ガラエト国内を調べる予定だったわけですし。あとで師匠と合流することも考えながら、しばらく一緒に行動していたんですが。北の方でカルド族の春祭りがあることを知りまして。そこで芸が披露できればと村をおとずれたところ、まだ山は雪に閉ざされて春祭りどころではないと。それで芸人さんたちは、ふもとの町へ戻ったんですが」
「お前は山を下りず、この村に残ったわけだな?」
「いやあ、だってここの人たちも可哀想じゃないですか。ただでさえ娯楽が少ない上に、春祭りもできない。それじゃあ、せめて旅の話と歌で楽しませてあげようと思いまして。それに俺がここに残れば、春祭りの開始を芸人さんたちへすぐ伝えられますし」
「人情に流されるシャボン玉か、お前は。壊れて消えろ、この唐変木!」
「ぐあっ熱っ!」
ぱしゃあ、とヨナは片足を蹴り上げ、桶から飛び出したお湯がジンの顔面に襲いかかる。
「熱くないだろ。大げさなやつだ」
ヨナは桶のお湯を足でかき混ぜながら、顔を両手でおさえてのけぞるジンを見下ろす。
桶には小さな銅製のつぼが置かれ、中に焼けた炭が仕込まれている。足湯の温度を保つための工夫だろう。ヨナが二皿目を完食したシチューもふくめ、両方とも青年を治療した対価として村長が用意してくれたものだ。
「いや、ですが。師匠の教えにも義を見てせざるは、勇なきなりと」
「踊り子のジリオラ」
お湯を浴びた顔を手でふきつつ体を起すジンに、ヨナはスプーンの先を突きつけて女性の名前を口にする。その言葉に、弁明を告げようとするジンの声が止まる。
「ふもとの町で旅芸人たちに話を聞いたが、美人の娘がいるじゃないか。私がお前の知り合いで会いにゆくところだと話したら、いつ山を下りるか訊いてくれと彼女に頼まれたよ」
この村でヨナがジンと出くわしたのは偶然ではない。合流に現れないジンを探すうち、旅芸人の一行に赤い髪の西方人がいたという話を聞き、足取りを追いかけてきたのだ。
「お前のことだ。ちょっと一緒に旅をして手を出したら逆に相手から深い関係をせまられて、困ったあげくに身を隠してほとぼりを冷まそうとか、そんなところだろう」
「いえ、俺はそんなつもりは全然」
「まあ彼女には私から説明をしておいたから安心しろ。お前は男の尻が大好きな衆道家で、女性と関係を持つときは金が目的だと。ついでにお前が裸で男と抱き合っている絵を二枚ほど描いて渡したら、涙を流していたぞ」
がくりとうなだれるジンを見て、ヨナは不遜に鼻で笑いつつ腰のベルトに手をやり、ポーチから絵筆つきの手袋を片方だけ取り出す。片手に手袋をはめ、空の皿に足湯のお湯をひしゃくで注ぎ、銅製のつぼに入れられた炭を木バサミで取り出し、同じく皿にのせる。
「ジンよ。お前にとって女性とはなんだ?」
「はい、師匠。俺にとって、この世で女性と呼べる存在は師匠だけです」
顔を上げ、正座の姿勢を整えて過去の教えを口にするジンに、ヨナはうなずく。
「うむ。今後は毎日、その言葉を食前と食後に唱和するというなら許してやろう」
ヨナはマントの前を開き、腰のベルトにさし込んだ絵具入りの筒を開ける。片手に皿、片手に絵筆。口を開けた筒の中に絵筆を入れ、色のついた筆先を皿の上に走らせる。
「神技『無限のシチュー』!」
「またそんな能力の無駄づかいを……」
タイトルを口にするヨナを、ジンは弱くたしなめる。言葉に出さずとも神色師の能力は発動できるはずだが、頭に浮かぶ色彩のイメージをつい声にしてしまうのは彼女の口ぐせだ。
「私のじゃない。お前にやる分だ」
無造作に突き出された皿の中を見れば、ホワイトクリームのスープに淡いセピア色の肉片が浮かぶ鹿肉のシチューがあった。記憶した色彩から事象を復元し変成させる神色師の手にかかれば、ただのお湯と炭から瞬時にシチューを再現することも可能なのだ。
ジンは足をくずして座りなおし、渡された皿とスプーンをうやうやしく手にする。
「俺にとって、この世で女性と呼べる存在は師匠だけです。いただきます」
「よし許す」
元々ヨナが食べた二皿のうち、片方はジンの分として用意されたものである。白いスープを口にすれば、コクのある牛乳と香ばしい小麦粉の風味が広がる。味はまぎれもなくシチューだが、原料はヨナが足をつけたお湯である。ジンは複雑な気持ちで、シチューを飲み込む。
「それで、肝心の情報はどうした?」
「ええと、魔巧師の手がかりですよね?」
「ほかにどんな情報があるんだ……」
手からはずした絵筆つきの手袋をかたわらのテーブルに置き、ヨナはため息を吐く。
ヨナとジンの能力は、元々この世を作り出した二神のひとりとされる存在が有したものだ。創世後、その神はもう一方の神に体をきざまれ、その肉は生命の種として地上にまかれた。また世界を繁栄に導くため、体と共に切り分けた五感を五人の使徒に授けたという。
その神の実体がいかなる存在だったかは、ヨナにも分からない。現代のどの宗教にも、その存在は記述されていない。だがそこに登場する神の感覚を受けついだ五人は、実在する。
視覚の神色師。触覚の魔巧師。聴覚の聖音師。嗅覚の天香師。味覚の地喰師。ヨナの旅はその中でただひとり所在の分からない、魔巧師を探すための道のりだ。
「俺の方は、特にこれといった情報は――あ、本当にちゃんと調べたんですよ」
「べつにお前が何もしていないとは、いってないだろう」
答えるヨナは頭に巻いた布をはずし、お湯から引き上げた足をそれでふく。
「師匠の方はどうでした?」
「ひとつだけ当たりはあったが、あとに続く情報がさっぱりだ」
手にした布をテーブルに置いて靴をはき、ヨナは足湯をどかして立ち上がる。その足で部屋のすみに置かれた荷物を取りに向かい、リュックと肩がけのカバンを手にして戻る。
「グノスバールについては、お前も調べたな?」
「ええ、もちろん。今回の調査対象ですし」
英雄グノスバール。およそ百五十年前、西方から奴隷兵としてこの地に連行されたが、ただひとり脱走したのちに原住民の部族を結集させ、大陸の中央を支配した西方諸国に戦いを挑んだ男である。十年におよぶ独立戦争を勝利に終わらせ、西方諸国の退去後はガラエト(現在は共和国)の建国に関与し、激動の生涯を六十代で閉じるまで、初代君主をつとめている。
奴隷という最下層から君主にまでのぼりつめた彼を、人々はあこがれと皮肉を込めて奴隷王と呼ぶ。また彼と共に戦い抜いた人々の中にはすぐれた能力を持つものが多く、古代の神話や叙事詩のごとく語りつがれる当時の戦乱を、ジンはこの土地で聞かされた。
「そのグノスバールに協力した魔女から、話を聞くことができた」
ベッドに腰を下ろしたヨナは、カバンからスケッチブックを取り出しジンに向けて開く。
紙面には玉座のごとく豪奢な椅子に座る女性の姿が、黒い線で描かれていた。長い髪、長いドレス。右手には動物の頭骨らしきものをのせた、奇妙な形の杖がにぎられていた。
「え、これがその魔女ですか。グノスバールが死んだのは百年以上前の話ですよね?」
スケッチブックの中で正面を向いた女性の顔は、ジンとさほどかわらない年齢に見える。
「タリザ・アズラエル。グノスバールが最初に接触した部族の巫女だったらしいが、元は普通の人だ。タリザが彼に協力したとき、魔法の知識と不死の法を授けたやつがいたそうだ。彼女はその魔力で当時とかわらぬ姿のまま、地下迷宮の奥深くに生き続けていた」
言葉をかさねるヨナの声がけわしさを増し、表情に影が浮かぶ。
「魔巧師、ですか」
「ああ。やはり、やつはこの大陸に渡り、グノスバールの協力者に紛れていたらしい」
ジンはヨナの話を聞きながらシチューを食べ終え、空の皿を床に置いて一礼する。
「俺にとって、この世で女性と呼べる存在は師匠だけです。ごちそうさまでした」
「ふざけているのか、お前は?」
「しっ、師匠がやれといったんですよ」
ヨナは「まったく」とあきらめたようにつぶやき、ジンにスケッチブックを渡す。
ジンが受け取ったスケッチブックをめくると、次に描かれた絵の中に角度を変えたタリザの顔や、手にした杖だけを大きく抜き出して描いたものがあった。
「その杖を持てば強力な魔法を使うことができると、やつがタリザに教えたそうだ。手にしたものにあらゆる知識をあたえ、秘めた魔力を引き出す杖だ。おそらく、やつの持つ知識そのものが何かの方法で取り込まれているのだろう」
「まさに魔法の杖ですね」
「タリザは『万理の杖』と呼んでいたよ」
愛した男と部族の民を守るために強いちからが欲しかったのだと、魔女はヨナに告白した。
本来なら魔法は失われた古代の技術だ。現在では知識を持つものはなく、呪文と魔力で自然を自在に操るものは昔話の中にしか存在しない。先代の神色師であるヨナの養父が伝えた話によれば、神の肉より生まれた人類が世代をかさねるごとに能力を薄れさせ、新たな技術が生まれる中で魔法は歴史の変化に埋没したということらしい。
だが魔巧師は手に触れるだけで、万物の構成を理解する能力を持つ。すなわち魔巧師はこの世のあらゆる知識を得ることができ、失われた魔法の技術を得ることも不可能ではない。
次にヨナはリュックの口を開け、片手で中を探って取り出す。
「そしてこれが、杖の本体だ。今は『万理の石』というところだな」
ヨナが手にしたのは、片手におさまるほどの丸い石だ。色は黒みをおびた灰色。ゆがみのない完全な球形をして、表面に磨かれたような光沢がある。
「見た目には普通の石みたいですね」
「今は普通の石さ。私が杖を破壊したとき、中から出てきたこれを石の色で封印したんだ」
地下迷宮においてヨナとタリザが戦いを繰り広げたときだ。元はルビーのような真紅の輝きを放つ宝珠だったが、危険な存在であるためヨナが神色師の能力で石にかえたのだ。
「大変だったよ、まったく。タリザと話し合いをつけようとしたら、いきなり変な剣士が現れて邪魔するし。魔巧師の思念に支配されたタリザが怪物に変身して大暴れするし」
「またひとりでそんな無茶を――」
と口にしかけたジンはふいに殺気を感じ、とっさに手にしたスケッチブックを腕に抱き、倒れ込むようにして床の上を転がる。
「逃げるな、馬鹿たれ!」
「そんな石を当てられそうになれば、誰でも逃げますよ!」
ジンが床を転がる瞬間、石を握る指を向け、腕を後ろに引くヨナの姿が見えたのだ。
「ホントに、スケッチブックの方に当たったらどうするつもりですか」
「そのときは守らなかったお前の責任にして、死ぬほど説教するに決まっているだろう」
ヨナは真顔で答え、両手の間で石をもてあそぶように投げ合う。
「だいたい私がひとりで苦労したのは、お前が予定どおり合流しなかったせいだぞ」
「それは、ご迷惑をおかけしたと思いますけど……」
体を起したジンは気まずそうに口ごもり、おずおずとスケッチブックをヨナに差し出す。
「さてそれでだ、ジン。ここでお前が私に協力すれば、この石を利用して魔巧師の行方と情報を入手できる作戦がある」
スケッチブックをカバンの中に戻したヨナは、ふたたび石を手にしてジンに向き直る。
「作戦、ですか」
その言葉に物騒な空気を感じたものの、ジンもヨナと向き合う。
それから十分後。ヨナは計画の内容を一方的に説明してジンに伝えると、ベッドへ横になり毛布の中にもぐり込んでしまった。ジンの承諾や反論は、当然おかまいなしだ。
「少し寝る。日づけが、かわる頃に起してくれ」
とだけ伝え残し。計画の実行は夜半だ。ひとり部屋にたたずむジンは胸に不安を抱えつつ、ヨナがベッドへ入るときに脱ぎ捨てたマントやホルスターつきのベルトを拾い、テーブルに置かれた絵筆つきの手袋や布と一緒に片づける。
ベッドを見れば、入り口側に後ろを向いたヨナの頭がある。早くも眠りについたのか、金髪の後頭部はぴくりとも動かない。疲れもあるのだろう。ひとりで雪山をのぼり、怪我人をここまで運んで治療したのだ。なのに休むことなく、またすぐに行動だ。
のんびりできる旅でないことはジンも承知している。ヨナと魔巧師の間に個人的な因縁があることも理解しているのだが、無理はしたくないし、彼女に無理をさせたくない。
「……ヨナ」
片づけを終えたジンは、ベッドへ聞こえぬように小さくつぶやいて立ちつくす。体にかけられた毛布のふくらみが背中のラインを無防備に浮かび上がらせている。そのベッドにもぐり込み、彼女の体を抱きしめたい衝動にかられるが、それはできないし、してはいけない。
ジンとヨナの関係は、手と頭だ。ジンは彼女の命令で動き、自分で悩む必要がないかわり、近くにいてもヨナの意思がなければ頭である彼女をなでていたわることもできない。
ジンは入り口に向かい、壁に立てかけたリュートを手にして部屋を出る。夜の冷え込みが進み、廊下に出るだけで吐く息が白い。ヨナにベッドを使われ、治療中の青年にもベッドを使われては、寝る場所がない。この酒場には、宿泊施設が二部屋しか用意されていないのだ。
ジンは階段に向かい、まだ人の声がある酒場へ下りていく。ヨナの計画に使用する道具も、いくつか用意する必要がある。しかしそれからすぐ、ジンは下で借りた毛皮を服の上から着込んで二階へ戻り、ヨナの眠る部屋の扉を開けて中に入る。
そのままジンは扉へよりかかるように腰を下ろし、ベッドで眠るヨナの姿を見守りながら手にしたリュートを静かに調律しつつ、時間をつぶすことにした。
それからしばらく。ベッドの中で寝がえりを打つヨナが目を開けると、リュートを抱くようにして扉の前で眠るジンの姿が、暖炉とロウソクの明かりに照らされて見えた。ヨナはその顔をしばし眺めたが、ふたたび目を閉じ、彼に起こされるまで休むことにした。
■/4/
「あー、さぶい。さぶいぞ、ジン!」
むき出しの地面に小さく山をなして置かれた薪木の上で炎が身を踊らせ、照りかえす明かりが無地のマントや皮製の前かけを朱に染める。それほど炎の近くにいても布をマフラーのように巻いたヨナの口元からは、白い息が絶えまなく上がる。
「師匠が薄着だからですよ」
寒さにふるえながら地面に座るヨナの後ろ、息づかいが聞こえるほどの距離で声がする。体をよせて腰を落としたジンが、ヨナの背中へ抱きつかんばかりの姿勢で両腕を広げている。ヨナが普段着の上にマントを巻いた姿であるのに対し、ジンは長服に毛皮をかさねていた。
「そういう毛皮は嫌いなんだ。着ていると、皮をはぎ取られた動物の姿を想像して可哀想になるだろ――って、こら。動くな、体に触るな! ヒゲが近い!」
ジンがヨナの後ろで両腕を広げているのは、風よけのためだ。背後には冷気の吹き込む洞窟の入り口があり、その寒さから守るための壁である。本当に近距離のため、どちらかが動くとすぐに体が触れる。もし他人の目があれば、さぞかし仲むつまじく見えるだろう。
ヨナたちが夜半に村を抜け出して出向いた先は、山肌に開いた洞窟の中だ。林の中で倒れていた青年を助けたさい、ヨナは林の奥にある入り口を見つけていたのだ。
「ふむ。やはりこの寒さと乾きでは、じかに色を塗るのは難しいな」
片手にはめた絵筆つきの手袋をはじめ、スケッチブックや絵具入りの筒など。必要な道具はすでに準備され、ヨナは手にした『万理の石』を地面の上に置く。
「となると紙の方を使うか」
あぐらをかいた両ヒザの上にスケッチブックを広げ、ヨナは手袋のない片手でポーチから鉛筆を取り出す。空白の紙面に鉛筆の先が走り、球形の輪郭を描く。
「師匠、やっぱり危険ですよ」
「うるさいぞ、髪に息をかけるな。気持ち悪い」
ヨナの頭上から紙面を見下していたジンは、その言葉に口をつぐみ、岩壁の天井をふりあおぐ。彼女がスケッチブックへ描こうとしているのは『万理の石』だ。石の色で封じた魔巧師の道具を、ふたたび神色師の能力で解除しようというのである。
本来その石は使用者の魔力を引き出し、この世のあらゆる知識をあたえるものだという。またそこには魔巧師の思念も込められている。ならば石を手にして魔巧師の情報を引き出し、その思念に接触をしようというのがヨナの作戦だった。
「だけどそれが作られたのだって、百年以上も昔のはずですよ?」
岩壁を見つめたまま、ジンはあえて否定的な口調で訊ねる。
「仮に何か引き出せても、そんな古い情報がまともな手がかりになりますか?」
封印を解いた石を手にするのは、ヨナの役目だ。彼女自身がそう決めた。だがそこには危険がともなう。石の使用者は、魔巧師の思念に意識を取り込まれる可能性がある。その影響で前に使用した魔女タリザが怪物と化したという話を、ジンはここまでの道中でも聞かされた。
「師匠――」
「石に込められた思念が今のやつとつながっていることは、タリザのときに体験ずみだ。死なぬ身のやつに時間の概念は関係ない」
返答にじれて下を向くジンに、ヨナは手を動かしたまま淡々と答える。彼女が意見をゆずることなどあり得ない。魔巧師が絡んでいるなら、なおのことだ。それを理解しながら、ジンは胸にかさなる不安を言葉にかえて吐き出さずにはいられなかった。
ジンに命じられたのは、ヨナの意識が魔巧師の思念に取り込まれかけた万が一の場合にそなえて、それを止める役目だ。その役目が逆なら、まだジンも余裕を持てたのだが。
ヨナの鉛筆がスケッチを終える。紙面には精緻な線で描かれた『万理の石』や、それの置かれた地面の質感やこまやかな段差が再現されていた。実物の対象と寸分の狂いもないスケールで再現された絵に色を塗れば、対象の上に色を塗ったときと同じ効果が得られる。つまり紙面の上でも、神色師の能力を発揮することが可能なのだ。
「それなら、やっぱり石を持つ役目は俺の方が」
道中にも同じ提案をしてヨナに却下されたのだが、それでもジンは口にする。
「駄目だといったはずだ。これは私がやるべきことで、お前にやらせることじゃない」
「だけど俺……自信ないですよ。もし師匠の体が魔巧師に操られでもしたら。俺なんか、まともに止められるかどうか」
「それほど大げさなことじゃない。もし危険を感じたら、すぐ石から手を離す。私ならその判断ができるというだけだ。お前の役目は、せいぜい私の手から石を叩き落すぐらいだ」
鉛筆を腰のポーチへおさめたヨナは、その手でベルトのホルスターにさし込んだ筒を開け、片手の絵筆をその中につける。ヨナは背後のジンを見ることなく、言葉を続ける。
「大丈夫だ。私は、お前をそこまで頼りない男に育てたおぼえはない。それに上手く石を使いこなせれば、この山の雪をなんとかする方法もついでに引き出せるかもしれん」
「それは、まあ頼りにしていただけるのは嬉しいことですし。この雪のことは俺だってお世話になった村のために、なんとかしてあげたいとは思いますけど」
だが万が一の場合にそなえてジンを頼りにするということは、ヨナ自身も危険な事態が起こりえる可能性を否定できないということだ。
「かん違いをするなよ。私が信じているのは、お前を育てた私自身の教育法だ。山の雪も先へ進むのに邪魔だから、なんとかしたいだけだ。べつに、あの村のためじゃない」
ヨナの言葉が終わるころ、彼女の片手は紙面の色塗りを完成させていた。
「神技『魔性の緋色』!」
色を塗り終えた絵筆が離れた瞬間。紙面の中で完成した絵が輝きを放ち、一瞬で色が消え失せた。そのかわり地面に置かれた『万理の石』が、宝珠の輝きを取り戻していた。紙面の絵に再現された色が、実物に反映されたのだ。
それは人の傷口から最初に流れ出た血の赤。黒く沈んで見えるほどの赤。地平線に沈む夕陽の外側をふち取る濃厚な赤。近くで炎がゆれているせいか、真紅の宝珠はその色を妖しく変化させ、ジンの目には石そのものが不気味な気配をただよわせているように感じられた。
「さてと」
ヨナは何げなくつぶやいて、石を手に取ろうとする。瞬間、ジンはヨナが触れるよりも早く背後から手を伸ばしていた。毒のある果実や毒虫にヨナの手が触れるように感じられ、それを彼女の前から取り除こうと本能的に体が動いたのだ。
「馬鹿たれ、何を!」
ヨナがふり向いて声を上げたときには、すでにジンは距離を開けていた。
「すいません、俺……」
石を手にして立つジンの表情には、うつろと困惑が見えた。
「何をしているんだ、お前は。早くそれを私によこせ」
かたわらに置かれたリュックの上にスケッチブックをのせ、やれやれと立ち上がる。このときヨナは、ジンの行動が突発的な気の迷いから引き起こされたものだと考えていた。しかし彼は言葉に従わず、ふらふらと後ずさりのまま洞窟の外に出る。
「すいません、俺。でも師匠は万が一でも危険な目に合わせちゃいけない人だと思います。それに俺が師匠を助ける自信はなくても、師匠が俺を助けてくれる自信はありますから」
その言葉でヨナはジンの本気を察する。
洞窟の外には暗闇が広がる。夜空は黒い雲におおわれ、月も星もない。洞窟からもれる炎の明かりは、かろうじて林の影を浮かび上がらせるほどのものだ。その中で、ジンの体が赤い光をおびて見えた。彼の手にした『万理の石』が発光しているのだ。
「ダメだ、ジン。何も考えるな! その石に何も考えさせるな!」
洞窟を出た入り口の前で、ジンに飛びかかるかスケッチブックを取りに戻るか考えていたヨナは、どちらの行動も取れずに叫んでいた。しかしその声は、ジンの耳に届かない。
ジンは頭に流れ込む膨大な知識にひとつの感情を呼び起こされ、ただそれにふるえていた。
それは理屈を超えた歓喜だ。あらゆる答え。あらゆる肯定。神のごとき全能感覚。一切の疑念が消滅した思考。その瞬間、ジンは世界を掌握した。人知のおよばぬ現象にも発生の構造があり、正しく働きかければ簡単に機能させることができる。
光速で処理される思考に引きずられ、あらゆる感覚が光速化する。ふり注ぐ雪は停止して自然美の方形を見せ、耳の中で様々な音が打ち消し合い無音を作り出す。ヨナの姿は見えていたがそれは動かない人形のようで、声も聞こえない。
甘露のごとく思えた知識はしかし止めどない無限の奔流と化し、ジンはその中でおぼれるようにもがいた。世界の質量に等しい知識の前で個人の人格など大海に浮ぶ木の葉に過ぎず、流れに飲まれ、沈もうとする。その中で、ジンは自分に必要な情報だけを必死に取り出そうとしていた。自分の果たすべき役目。それを命じた人。その願い。ヨナ――肺に残された最後の空気をしぼり出すように、ジンの意志は名を呼んだ。
ヨナには一瞬のできごとに見えた。ジンの手にした『万理の石』がひときわ目のくらむような赤い光を放つ。まぶしさに閉じた目を開けたときには、ジンの体が宙に浮いていた。
「飛ぶのかよ」
直立のまま走るほどの早さで上昇していくジンの姿につぶやき、ヨナはマントをひるがえし背後の岩壁に向けて飛ぶ。足をかけた岩壁をさらに蹴り、ヨナの体は曲芸師のごとく角度をえがいて宙に舞う。しかしわずかの差で片腕を伸ばすヨナの前を、ジンの足が上に通過する。
「逃げるな、この!」
首に巻いた布をとっさに外し、ヨナは片手でしならせた布の先をジンに向けて放つ。
だがそれもジンの足に届く手前で下に弾かれる。魔術障壁か──落下するわずかな時間、ヨナはジンにふり注ぐ雪が彼の体をよけていることに気づき、見えない壁の存在を看破する。
「あの馬鹿、また無駄な才能に恵まれてやがる」
着地したヨナは手にした布を放り出して洞窟の中へ駆け込み、スケッチブックを腕に抱えて戻る。魔法の技術は失われても、魔力の素養を秘めた人間は今でも存在する。人によっては複雑な作業でも一度やり方を教えられただけで、すぐにできてしまうのと同じだ。
「さて、どうするか……」
ヨナは空を見上げ、難しい表情で目を細める。『万理の石』が赤く発光しているため、闇夜でもジンの姿を視認することはできる。体が握りこぶしほどの小ささに見える高さだ。
手段はある。ヨナの手にしたスケッチブックにはその石を描いた先ほどの絵があり、そこにまた『石化の灰色』を塗れば、ただの石として封印できる。しかしそれをやれば、魔力の消えたジンが落下する。あの高さから生身で地面に叩きつけられれば、無事ではすまない。
ならば、とヨナは考える。打つ手はまだある。神の感覚を宿した目が見えるかぎり、神色師に不可能はない。だが確実に成功するかは実行してみなければ分からない。
スケッチブックをめくるヨナの手が止まり、紙面を見つめて考える。
「悪いな、ジン。お前の体、少しだけ塗りかえるぞ」
ためらいは一瞬。すぐさま動き出したヨナの片手が、色を塗る絵筆と共に加速する。
紙面には男の裸身が鉛筆の線で描かれていた。うすい胸板、長い手足。アゴにヒゲの生えた顔だけはよけて、紙面に青みをおびた黒一色が塗られる。空いた片手がページをめくる。角度をかえた背中や、部位ごとに描かれた手足にも黒い色が塗られる。
そこに描かれたのはジンの体だ。離れる一年ほど前。まだ西方へいた頃にヨナが描いたものだ。期間は空いているが、体のスケールに変化がなければ神色師の能力が発揮される。
「どうだ!」
ヨナは絵筆を紙面から離す。口ぐせのように出る色彩のタイトルを声にする余裕もない。
一瞬のち、輝きを放つ紙面から色が消え、鉛筆のスケッチだけが残される。すぐさま上空に視線を向けたヨナの目に、徐々に大きくなるジンの体が見えた。落下しているのだ。それもかなりの速度で、ヨナが後ろへ下がったときにはすぐ頭上にジンの姿が見えた。
激突。ずどん、と音は短く、あまりの振動に視界そのものがゆれた。無事を信じているとはいえ、ヨナの背中を冷たい気配がはい上がる。
「ジン、大丈夫か!」
白い積雪が吹き飛び、わずかに露出した地肌。ジンはそこへ埋もれるように横たわり、死んだように動かない。赤い輝きは光を弱めているが、消えていない。まだ石は生きている。
雪煙が消えぬ中、ヨナは足をつかんで引きずり出したジンの体を腕に抱く。わずかに見えるジンの手や首まわりは、ブロンズ像のように黒く硬化していた。
神技『不滅の黒』──神色師の能力だ。激突に耐えられるよう、ジンの体を鉄に変化させたのだ。『万理の石』をそのままにしたのも、魔術障壁による保護を考えてのことだ。
顔は生身だが両目は閉ざされ、口を開けたまま魂が抜けたような表情をしている。石を手にしたときのジンは正気をなくしたように見えたが、狂ってはいなかった。タリザのときと違い体が変化することもなく、暴走もしていない。それほど魔巧師の思念に意識をおかされなかったのだろう。まだ息はある。ヨナの絵筆で肌の色を塗りなおせば、元の体に戻せる。
「しっかりしろ、ジン。すぐに──」
と口にしかけたヨナは異変に気づいた。周囲が明るいのだ。光源は上空。そこに視線を向ければ、こぶし大の光球が浮いていた。ジンの体が浮いていた場所だ。
色は太陽のごとき光量をしめす白。肌に温もりまで感じる。雪が止み、雲の流れが見える。そして光球は小さく縮みはじめる。いや、違う。遠近法だ。光球は上昇しているのだ。
ヨナは危険を感じ、ジンの体を引きずり洞窟へ移動する。中へ逃げ込むと同時に、ぽん、と何かが破裂するような音が聞こえた。おそらく光球が破裂した音だろうが、分からない。
目を閉じても耐えられぬほどの光。耳元で雷が落ちたような轟音に思考が飛ぶ。洞窟の入り口から吹き込む熱風が、服の上からでも焼けつくように感じられる。ヨナは目も耳も手でふさぐことなく、ジンの体を抱きしめていた。そして泣き声のようにつぶやく。
すまない──と。
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