『神色師』(3)

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■/5/


 目を開けているのか閉じているのか、それすらもジンには分からなかった。白い空間が限りなく広がるようにも、目のごく近い距離に白い壁があるようにも見えた。視線を動かそうにも自分の体が見えない。雪の上に倒れているのだろうかと考えたが、冷たさも感じない。
 目に見えず、体に感じず、ただ景色が白い。だが何もないのではなく、何もないと感じるものがある。――なら耳は? 音は何か聞こえないか?
「やあ、よく来てくれたね」
 ジン自身がもっとも信頼する聴覚に意識を向けたときだ。唐突に声が聞こえ、男の姿があらわれる。前触れもなく目隠しをはずされたような、声が実体を得たような感覚。
「あんたは……」
 と声を出したときだ。ジンは自分の体が見えていることに気づいた。手が見え、足が見え、長服を着た体が見えた。着ていたはずの毛皮は消えていた。
「きみには、はじめましてかな。僕の名は、オウレン。きみたちの探す、魔巧師だ」
 枯れ葉色の長髪、同色の口ヒゲ。やはり同色の瞳、色あせたブラウン。
 男の身長はジンよりもわずかに高い。見た目の年齢もジンより少し上、三十代ぐらいか。格好はジンと似たような長服だが、色は黒だ。足から首までを隠す黒衣。その男が魔巧師。ジンの師であるヨナが生涯のかたきとして追い続ける男。
「いや、待ってくれ。あんた本当に、魔巧師なのか?」
 ジンはヨナの描いた絵の中でしか、オウレンの姿を知らない。手がかりを探す旅の途上で魔巧師の作り出した道具やそれに操られた人々は目にしてきたが、本人を見たことはない。目の前にいる男の姿はヨナの描いた絵に酷似していたが、その絵が描かれたのはいつか? ジンが子供の頃から見てきたことを考えれば、少なくとも数十年以上前だ。
 ヨナはオウレンについて、こんなことも話していた。魔巧師の能力により不死の法を実現させ、老いず死なず三百年以上も生き続ける男。
「僕は僕自身でほかの誰かでもないよ。今ここにあるのは実体ではないけれどね――まあ招待したお客さまに立ち話をさせるのは申しわけない。どうぞ、かけてくれたまえ」
 オウレンは整ったしぐさで片腕をふり、手のひらをさし向ける。首だけでふりかえるジンの背後には、ひとり用の黒い椅子が置かれていた。視線を戻せば、すでにオウレンは同じ椅子に腰かけ、ふたたび着席をうながすように手のひらをさし向ける。
「いや、そうじゃない。これは俺が見ている夢なのかもしれない。だとしたら、あんたは魔巧師かもしれないけど。それは俺の意識が作り出したまぼろしで、話しても意味がない」
「中々きみは、丁寧な思考をする人だね。これがきみの見ている夢かどうかは、僕と会話して判断すればいいことだよ、ジン・クエッティくん」
 オウレンの口元には好意的とさえ思える笑みが浮かぶ。椅子に座るジンは、いざ魔巧師を目の前にして混乱する頭に片手を置く。敵として考えてきた相手だ。会えば戦いは必然。なごやかに会話する状況など、想定していない。
「それなら、聞きたいことがある。今のあんたは、どこで何をしている?」
「きみはそれを聞いて、どうするつもりかな?」
 即座に質問をかえされ、ジンは言葉につまる。
「……師匠――ヨナに、あんたの居場所を教える」
「そう。僕を探しているのは彼女で、きみには関係ないはずだ。僕自身も、きみにはなんの恨みもない。むしろ親しくなりたいぐらいだ」
 自分には関係ない――その言葉は鋭利な針として痛みをともない、ジンの心を突き刺す。
「俺は、あんたの作り出した道具のせいで不幸な目に合わされた人たちを見てきた。それに俺も聖音師だ。あんたやヨナと同じ立場の人間として、見のがすことはできない」
「それは主観の違いだよ、クエッティくん。きみたちが僕の道具を危険なものとして破壊し、封印していることは知っている。それはかまわない。いずれ道具は壊れるものだからね」
 ジンの迷いをよそに、オウレンは友好的な笑みを絶やすことなく続ける。
「けれど道具を手にした人間が不幸になるかどうかは、使い方の問題だよ。たとえば、きみの大切な人が剣で切り殺されたとしよう。きみは、その剣を作り出した人間を恨むかい? それよりもまず、殺した相手の方を恨むはずだろう」
 ヨナほどではないが、ジンも魔巧師の道具が生んだ結末を見てきた。死骸を養分にして金銀を実らせる『黄金樹』。永遠に消えることのない『不滅の炎』。それらをめぐり争う人々。
 ジンはその悲劇を目の当たりにして、やり場のない怒りを感じた。許さないと心に決めた。しかしそれを生み出した張本人を前にして、ジンの怒りはいっこうに燃焼を起こさない。そのせいで心に戸惑いを感じ、めまいのような不快感をおぼえる。――果たして自分は、何を怒りの対象として感じてきたのか。
「僕は他人を不幸にする目的で魔巧師の能力を利用したことは、一度もないよ。いつでも誰かの願いをかなえるためさ。けれどヨナは違う。彼女は僕を倒すという個人的な目的のために、神色師の能力を利用している。僕らの能力はそんなことに使うべきではない。きみたちは神の感覚を授けられた人間として、進むべき道を間違えている」
「それは、あんたが……彼女の両親を殺したからだろ!」
 片手のこぶしを眉間に叩きつけ、ジンは不快感を打ち消すように声を絞り出す。
 それでもオウレンは表情をくずさない。まるでヒントをあたえ続けた教え子がようやく本題にたどりついたことを喜ぶ教師のように、いっそうの笑みを浮べる。
「情報は正確に表現すべきだよ、クエッティくん。ヨナは孤児だ。あの子の両親が死んだのは戦火に焼かれたせいだ。きみがいうのは、彼女を養女として育てた僕の両親だろう?」
 先代の魔巧師イリナ・ベルカウンター。同じく先代の神色師ダン・ベルカウンター。それがヨナの養母と養父であり、オウレンの両親でもある。つまりふたりは形式上の兄妹なのだ。
「ああ、そうか。きみも小さいとき、親に捨てられたところをヨナに拾われていたね。それなら両親をかん違いするのも仕方ない」
「それがどうした、親にはかわりないだろ!」
 ヨナの養親を、実子であるオウレンが殺害した。それが両者の因縁だ。くわしい経緯はジンも知らない。ヨナから聞いた以上の話を、ジンの方から掘りかえすことはできない。親が禁忌として秘めていることを、子供に訊けるわけがないのだ。
「それも一方的な見解だよ。情報を正しく判断するには、主観の異なる双方の意見を聞くことが必要だ。きみが彼女から聞いた言葉が、正確な事実であるとは限らないだろう」
 椅子の背もたれに体をあずけるオウレンは手を組み合わせ、ゆっくりと足を組む。
「僕が両親の死に関係していることは確かだよ。けれど殺したというのは誤解だ。あれは事故だからね。僕に罪を問うとしたら過失の死。その罪にしても原因は父にある」
 先に殺されたのは母のイリナだと、ジンはヨナから聞いている。オウレンは魔巧師の能力を手に入れるために、先代の魔巧師である母を殺したのだと。
「きみも聖音師なら、試練を受けたはずだね?」
 ジンは無言で肯定する。神の感覚を身につけるためには『狂える神の館』へ通じる入り口を開き、そこで試練を受ける必要がある。また能力を行使し続けるためには十年後にふたたび同じ試練を受け、再度その資格者であることを示さなければならない。
 ジンも一度は受けているのだが、館での記憶は消されてしまうため試練の内容はおぼえていない。現役の能力者でも、悪くすれば次回の試練で資格を失う可能性が十分にある。
「僕が母に同行して、試練の存在を教えられたのは十七のときだ。両親は、僕とヨナに魔巧師と神色師をゆずろうとしていたからね。けれど十年なんて、僕には待てなかった。僕が魔巧師になれば、すぐにでも母以上に能力を使いこなせると確信していた」
「それで、お母さんを殺したのか」
 十年ごとの試練を待たずとも現役の能力者が死ねば、その資格は空位となる。
「だから誤解だよ。確かに魔巧師の能力を得るため、母を死にいたらせた。けれど僕は魔巧師の能力を手に入れたあと、きちんと母を再生させるつもりだった。魔巧師の能力を手に入れた僕が父の持つ神色師の能力を借りれば、それが可能だったからね」
「再生?」
「そう。必要なのは魔巧師の資格だけで、母を殺す気はなかった。生きかえらせることを前提とした殺人は、殺人といえるかい? 邪魔な木を抜けば死ぬ。それをべつの場所に植えれば、ただの植栽だよ。同じことさ。僕は母の体を保管して再生の手順を父に書き残し、試練を受けた。そして予定どおり魔巧師の能力を手に入れた。けれど父は、母を埋葬していたんだ」
 オウレンは悲劇を語る役者のように腕を広げ、言葉のないジンへ饒舌に続ける。
「さらに父は、僕に絶縁を突きつけて殺そうとした。僕は仕方なく逃げた。母の再生が不可能なら、父との争いは無意味だ。僕には魔巧師としてやるべき目的もあった。そのために僕は不死の法を早々に開発して自分の体にほどこした。父は僕を狙い続けたけれど、放っておいても父の命が先につきる。だけど許せないことに、父は自分の復讐にヨナを巻き込んだ! 神色師の能力でヨナに不死をあたえ、僕と戦わせようとした。だから父を殺した。父の指示がなければヨナも戦いを止めると考えた。けれど結果は、今のとおりだ」
 分かるだろう? と同意を求めるようにオウレンは言葉を止め、ジンの表情を見つめる。しかしジンにはまるで共感できない。できるはずがない。
「ようするに、全部あんたのせいじゃないか……あんたが彼女の人生を、狂わせたんだ!」
 燃焼の手前でくすぶっていた怒りが、にわかに熱をおびる。ヨナのために。師であり育ての母であり、無二の女性である彼女を火種に、ジンの心は赤く焼ける。
「もちろん責任は感じている。ヨナを巻き込む前に父を殺しておけばとね。だから彼女には手を出していない。最愛の妹を殺したくないんだ。そこで、きみに頼みがある。ヨナに戦いを止めて僕に協力するよう、話してもらえるかい? 僕の目的には、あの子が必要なんだ」
「ふざけるな!」
 たかぶる心に動かされるままジンは椅子を立ち、オウレンに殴りかかる。しかし伸ばした腕が届く寸前でオウレンの体が、わずかに遠ざかる。いや、彼は椅子に腰かけて足を組んだまま動いていない。何かがジンの足を引き止めたのだ。
「きみにも損のある話ではないよ。僕に協力すれば、きみに不死の命をあげよう。今のままならヨナは年を取らず、きみだけが老いていく。いずれきみは彼女のそばにいられなくなる」
 ジンはオウレンの顔と交互して、自分の足元に視線を向ける。足首から先が白い空間に飲み込まれ消えていた。泥沼へはまり込んだように、両足が持ち上がらない。
「まあ協力してくれなくても、きみの存在自体が有効だからね。たとえばきみの意識をこのまま戻さずに、きみを助けることを条件にヨナを説得したらどうなるかな」
「黙れよ! あんたは、駄目だ。俺はヨナと協力して、あんたを倒す」
 怒りとあせりの中で体を動かそうとするジンだが、足はもがくほど白い空間に落ちてゆく。ジンは歯をかみ締め、息を飲む。足はすでに太ももまで沈み、微動だにできない。
「それは不可能だよ、クエッティくん。時間を固定することで永遠を手に入れたヨナに、たえず進化することで永遠を実現させた僕を上まわることはできない」
 余裕の表情で椅子に座るオウレンを、ジンはわずかに見上げて睨む。もはや下半身の動かないジンにできる抵抗は、声の反論と眼光をぶつけることだけだ。しかしジンの頭にはひとつの方策が浮んでいた。戦いとなれば、聖音師には楽器を使う以外の方法がある。
「あんたの目的はなんだ? 親を殺して、永遠に生きて、あんた本当に何がしたいんだ?」
 問いかけで気を引きながら、ジンは頭に想像する。『万理の石』を手にして得たイメージが発想を補足する。魔術、知識、創造。その本質は世界を正しく理解することだ。
「教えたはずだよ。僕の目的は他人の願いをかなえることだ。そのために魔巧師の能力を手に入れたんだ。この世界が悲しみに満ちているのは、世界が不完全なせいだ。どれほど優れた道具を作ろうと、使われる環境が不完全では機能しない。だから僕は完全な世界を作る。この世を創造した神の感覚を受けつぐものとして、それこそが取るべき道だよ」
「何が、他人のためだ。結局あんたは、自分が試したいものを自分の好きなように作りたいだけだろ。人助けの名目があれば、何をしても許されるのか!」
 ――天と地。水、熱、風。氷結、摩擦。砕けて、落ちる。鳴り響く。刹那の解離現象。
 想像力に喚起され、下半身が消えかけたジンの胸からノドの辺りで、ごおごおと濁流のような音がする。声帯だけでなく内臓や骨、体内の隙間、全身で音を生む、イメージ。
「当然だよ。死にたくない、苦しみたくない。それは生物が何よりも優先する共通の願いだ。たとえ過去のひとりを不幸にしても未来に千人の幸福があれば、その負債は清算され――」
 ぐごぉん、とオウレンの言葉をかき消し、その瞬間。大きく開けたジンの口から閃光がほとばしり、轟音と共にオウレンの体をつらぬき、光の矢が白い空間を直線状に走り抜ける。
 聖音『雷声』――完全なる音を操ることで、事象に影響を及ぼす能力。
 ジンが正確に再現した雷鳴は稲妻を生み出し、オウレンの体を吹き飛ばしたのだ。あまりの光と音に、ジンの意識は一瞬だけ飛ぶ。気づけば目の前にオウレンの姿や椅子はなく、下半身も元に戻り、靴の先を起点に焼け焦げたような一条の黒い道筋がどこまでも伸びていた。さらにそれはまだ焼け続けているように白い空間を侵食し、じわじわと道幅を広げている。
「やれやれ、危ないね。現実の世界で同じことをしたら、きみの頭が吹き飛んでいたよ。まあヨナが外で『万理の石』を封印したようだから、僕も話を切り上げるところだったけれど」
 周囲へ反響するようにオウレンの声がする。しかし姿が見えない。ジンはオウレンを探して視線をめぐらせつつ、反響する言葉に負けぬほど声をはり上げる。
「ヨナにできなくても、俺があんたを殺すよ! 彼女や地喰師のご老体が、あんたを危険だという理由が分かった。あんたが死ねば、ヨナも過去から解放されるんだろ! そうすれば俺と同じ時間を歩ける。俺が、彼女の未来になる!」
「それでもかまわないよ。きみがヨナを想うほど、彼女を助ける状況できみは僕の協力を必要とする。神と魔をつなぐ聖人、それがきみの運命さ。僕はこの地の北で待っている。きみは僕の前まで無事にヨナをエスコートしてくれ。頼んだよ、クエッティくん」
 直後に、景色が暗転。視界から白い空間が消え、オウレンの気配も消える。意識が暗闇の中へ沈んでゆく中で、ジンはすぐそばで自分の名前を呼ぶ声を聞いた。

■/6/


(ジン……ジン……ジン)
 薄く開いたジンの目は焦点が合わず、ヨナの顔をぼんやりと映す。どこか不安げな様子で見下ろしたヨナの表情には普段の威厳がなく、憔悴したようにも見える。
 ジンは片腕を持ち上げ、ヨナの頬に触れようと片手をふらふらと伸ばす。そしてヨナはジンの腰をかかえ込むようにして両腕をまわし、ジンの重心をへその上でささえるようにして立ち上がり、その体を持ち上げたまま反動をつけて上体を後背へ反らす。
「意識が回復したのならさっさと起きろ、この馬鹿たれ!」
「えぇぇぇぇぇえっ!」
 ヨナに放り投げられたジンの体が低空の放物線を描いて、洞窟の外へ飛び出す。地面に落下する瞬間、ジンは肩から接触するように体勢をずらして転がり、受け身で衝撃を逃がす。
「何をするんですか、師匠!」
「神技『投げっぱなしスープレックス』だ!」
「タイトルじゃなくて、投げられた理由を教えてください!」
 むき出しの地面に体を起こしたジンは借りものである毛皮についた泥を気にしつつ、洞窟の入り口で腕組みをして仁王立ちのポーズを取るヨナに声を上げる。――はて? とそこでジンは異変に気づいた。洞窟の外を埋めつくしていた雪が消えているのだ。
 見上げる空は墨色の天頂から青みがかる地平に向けて、夜の終わりを示すグラデーション。雲はなく猫目のようなアーモンド型の月が、まろやかに色素の抜けた銀の輝きを放ち、数えられないほどの星々が光の粒として無数に浮いている。まだ暗さは残るが月と星の光だけでも、おたがいの顔を認識できるほどの明るさはある。
「何があったんですか、これ……」
「お前、何もおぼえていないのか?」
 洞窟の外へ出たヨナはジンのかたわらで歩みを止め、状況を簡単に説明する。
 解放された『万理の石』を手にしたジンがヨナの声に反応せず、魔法を使用して宙を飛んだこと。ジンを止めることはできたが上空に残された光球が破裂し、辺りの天候を一変させたこと。石はその後ヨナが封印して、ふたたびリュックの中へしまい込まれている。
 ジンがおぼえているのは、ヨナの背後から手を伸ばして石を取り上げたところまでだ。ジンもまた、意識をなくしている間に体験した魔巧師オウレンとの対話をヨナに話す。
「やつの思念と接触できたのか?」
「たぶん、ですけど」
 目ざめて数分のことだが、すでに記憶は消化されつつある。言葉を交わした感覚はあるのだが詳細を表現できず、夢ではないと断言できるほどの実感も今はない。ジンは会話の内容を断片的に拾い、両親の死についてオウレンの口から出た言葉は伏せて「この地の北で待つ」と告げられたことをヨナに伝える。そして返答を待つこと、わずか。
 そうか……、とヨナは深く思考を働かせているような口調で、慎重につぶやく。
「まあ手がかりは、つかめたわけだな」
「そう、ですね」
 確かに目的を果たすことはできたが、ジンはすっきりしないわだかまりを心に感じる。作戦を無視して石に触れたことを謝ろうかとも考えたが、普段どおりの説教が今のヨナから聞けない可能性を不安に思い、ジンは口を閉ざす。
 地面に座り込むジンを残して、ヨナは洞窟へ引きかえす。そしてしばらく、スケッチブックを入れたカバンを肩にかけ、布に包まれた大きな荷物を手にしてヨナが外に出てくる。
「とりあえず、ゆき先は見えたんだ。やることを片づけて、やつの元へ向かうぞ」
 ヨナはいつもの調子で口元に強気な笑みを浮かべ、ふりかえるジンの前に布を取りはずしたリュートをさし出す。ジンはそれを受け取り、表情をゆるめて立ち上がる。
「派手に仕上げといきますか」
 冬枯れの木々が青く浮かび上がる林へ向きなおり、ジンは両手にリュートをかまえる。
「師匠! 俺たちが山の冬を終わらせようとしているのは、村の人たちを助けるために正しいことなんですよね?」
 林の中へふみ入ろうとしていたヨナは、ジンの声にふり返る。
「まだ寝ぼけているのか、ジン。いっただろ、私が雪を消したいのは先へ進むのに邪魔だからだ。例えそれが誰のためになろうと、私には関係ない」
 その言葉で、ジンの胸につかえていた最後のものが取れる。
 オウレンが「北で待つ」と告げたところで真実とは限らず、罠が用意されていることも考えられる。それでもヨナは、北へ向かう。そこにはジンも同行する。ヨナや誰かに命じられたからではなく自分の意志で、彼女を守るために。そのために身につけた、ちからだ。
 ジンは目を閉じて指先と頭のイメージに集中し、リュートの弦を弾く。例のごとくその指が演奏するのは単純な楽曲ではなく、聖音師の能力で再現された天地自然の音だ。
 数百の羽音。バザザザザアア、と無数の鳥たちが翼をはばたかせ、飛び交う音。そして鳴き声。くうぇい、きゃあきゃあ、と。ジンは口を開けて、声を放つ。オウレンの前でも雷鳴を再現したが、元より声帯模写はお手のものだ。くぉーん、と肉食する獣の遠吠え。目をさませ、と冬眠する山の動物たちを呼び起こす。春の音を聴け、と。
 彼方から飛来した鳥の一群が編隊をなし、見上げた夜空を舞う。ヨナは林の中でもひときわ高さのある木を選び、ハシゴを登るような気軽さで太い幹に手足を伸ばす。そして登りつめた木の上で林から飛び抜けた枝に足をかけ、体を幹へ預けるようにして立つ。
「んーいい景色だ」
 わずかな風でも足元にゆれを感じるほどの高さだが、ヨナは余裕の表情で辺りの絶景を見渡す。眼下の地面は部分的に土を露出させていたが、まだ雪も残されている。ヨナは枝の根元に腰かけて鉛筆を手に、ヒザの上で広げたスケッチブックに眼下の景色を描き込む。そしてポーチから取り出した絵筆つきの手袋を片手にはめて、着色する。
「神技『雪解けの茶色』!」
 描かれた地面の全体に露出した土の色が塗られ、ヨナの眼下から一瞬で雪が消え去る。目に見える範囲であれば、そのすべてに神色師の能力が及ぶ。そしてヨナは枝に腰かけた体ごと視線の向きをかえ、新たな絵を描きはじめた。
 やがて夜空は徐々に青みを増して、星の光も数を減らしてゆく。白みはじめた地平には黄金の輝きと共に、朝日の輪郭がゆっくりと顔をのぞかせる。
 生まれ立ての清浄な黄色の光が、洞窟にさし込む。中で岩壁に背中を預け、体を休めていたジンは湯気の立つカップを手にして、輝きに目を細める。さすがに疲労の限界だ。
 カップの中身は酒場で拝借した酒に、たき火で温めたお湯を混ぜたもの。片手には同じく酒場から拝借した、ほし肉。それを少しかじり、カップの中に入れて肉をふやけさせる。
「師匠も、少し休んだらどうですか?」
 火を挟んだ向かい側に座るヨナはスケッチブックを広げ、また絵を描こうとしている。
「私は大丈夫だ。いつもの体に戻れば、疲れは消えるからな」
 片手の絵筆を紙面に走らせつつ、ヨナは答える。――となると、またしばらく今の姿をしたヨナは見おさめになるわけだ。そう思いながら、カップの中身を口元にかたむける。成長して色づいた今の容姿が好きなジンには、いささか残念なことである。
 ジンの位置からは見えないが、ヨナが何を描いているのかは分かる。おさない少女が未成熟な裸身のまま、両足を閉じて椅子に腰かけた絵だ。当時十五歳のヨナを描いた絵である。オリジナルは先代の神色師であり彼女の養父であるダンが描いたもので、神色師の能力を身につけたヨナがそれを模写したのだ。
 いかに神色師の能力で紙面に完全な色を再現しても、目の前にある現在の対象と同じ色を塗るのでは、何も変化はおきない。しかし過去の色とスケールを記憶して紙面にそれが再現されたとき、時間の進行により変化した同一の対象はどうなるか?
「神技『清純の肌色』!」
 一瞬の輝きを放つ紙面から色が消え、鉛筆で描かれた少女の裸像だけが残される。
「お疲れさまでした、師匠」
 ジンはおだやかな表情で、姿の変化したヨナにねぎらいの言葉をかける。一方、かえされるヨナの声は少年とも少女ともつかない、未分化のソプラノ音調だ。
「ああ。気をつけろ、ジン。この姿のときは師匠でなく、名前で呼べといっているだろ」
 ひとまわり大きさの増した皮製の前かけや服のサイズを調整しながら、ヨナはジンを注意する。しかしその口調は迫力よりも、あどけなさが感じられる。
 ジンの前にいるのは少女の姿をしたヨナだ。確かに大人のジンが、今の彼女を師匠と呼ぶのは不自然だ。いつもは十五歳の少女として過ごし、神色師の能力を全開にするときだけ大人になり、終われば少女に戻る。ヨナの養父は、二十五歳の彼女を描いた絵も残していた。
 二枚の絵と神色師の能力。それを利用することでヨナは自ら体の色を塗りかえ、少女と大人の姿を交互にくり返し、その先へ進むことのない時間の中で若さを保ち続けている。
 それがヨナにほどこされた不死の法であり、数百年に及ぶ神色師の呪縛だ。
 動く対象に色を塗る場合など、運動的な面は大人の体でなければ難しいが、少女の姿でも神色師の能力を使うことはできる。能力の不足した少女の姿でいるのは、不慮の事態で神色師の能力を喪失した場合に備えてのことだ。正攻法での再取得に十年の歳月を要する状況では、若い姿でいた方が感覚のおとろえもなく確実に試練を突破することができる。
「あー長いこと大人でいると、こっちの体は軽くていいな」
 ヨナは体を動かしつつ立ち上がり、スケッチブックや絵筆つきの手袋を片づける。そして荷物から取り出した布を、頭に巻いて結ぶ。髪まで隠れてしまうと、本当に外見からでは少女か少年か分からない。かさねがさね、ジンには残念なことだ。
「もう行くんですか? 師匠――ヨナ」
 リュックとカバンを肩にかけて洞窟を出ようとするヨナに、ジンは訊ねる。
「ああ。私はな。お前はまだ休んでいてかまわないし、そのあとで村に戻れ」
「えっ? 俺も一緒に動かなくていいんですか」
「借りたものを返す必要もあるし、急にふたりとも姿を消したら怪しいだろ。私は少し山を見てまわるから、それまでは村にいてかまわんぞ。ついでに春祭りの手伝いでもしてこい」
「そう、ですね。山の方もまだ雪が解けてない場所があるだろうし。上空で爆発した影響も気になるところですよね。悪くすれば、何かの被害が出ているかもしれないし」
「そんなことは知らん。私は山の風景を描きたいだけだ。ひととおり片づいたら、ふもとの町で合流するからな。今度は私を待たせるなよ」
「分かりましたよ、ヨナ」
 外見が変化しても中身は同じままだ。ジンはカップの中身を苦笑と共に飲み込む。そしてジンを洞窟に残し、ヨナは朝日のさす林の中へ消える。ジンはぼんやりと、大きな荷物を小さな体にゆらした後ろ姿を見送る。疲労と酒が、いよいよ眠気を誘う。
 時間を固定することで永遠を手に入れたヨナ。意識の世界でオウレンに告げられた言葉がジンの頭をよぎる。不老不死といえば聞こえはいいかもしれないが、その言葉を聞いたあとでは彼女が弱く悲しい存在に思える。
 魔巧師、オウレン。果たして自分にあの男を倒し、ヨナを過去の因縁から救うことができるのだろうか――ほし肉をかみ締め、目を閉じるジンの胸に暗い情念がわずかにわいた。

 その後。カルド族の村に帰りついたジンが酒場に顔を出すと、店内は中々の大騒ぎで人があふれていた。一夜を明けて季節が移行したのだから、騒ぐのも当然だ。あるものは夜空に輝くまばゆい光を見たといい、またあるものは雷鳴のような轟音を聞いたという。
「おう、あんちゃんか」
 とジンの帰りに気づいた村長だけは、かわらぬ反応だった。さすがに度胸が違う。毛皮や薪木を借りた弁明として、外の異変を見ようと夜中に出かけたと村長に説明したが、ジンが消えたことにさえ気づかなかったらしい。ヨナについても説明以上のことは追求しなかった。
 結果としてカルド族の人々は、一夜の変化を山の女神エリルが起こした奇跡として受け入れた。山がどれほどひどい悪天候をもたらしても、最終的には帳尻が合うようにできているのだと、彼らは信じていた。自然に宿る神々や精霊の存在を無心で信じられる感性は、どれほど優れた文明や技術よりも、人の心に幸福をもたらすようだ。
 何より村人たちは春のおとずれを喜んでいた。待ち望んでいた春祭りができるのだ。その準備は数日で進められ、山の中腹にあるエリルのやしろを集会場として、山で暮らすカルド族の人々が一堂に会した。ジンは準備の段階から、その中に参加していた。
 三日三晩の春祭りだ。人々はよく踊り、よく唄い、よく呑んだ。さまざまなイベントが絶え間なく続いた。去年に婚約した恋人たちの婚礼がおごそかに行われ、そこには林の中で遭難したところをヨナに救われた、ギート青年の姿も見られた。
 今年あらたな婚約者たちを決める儀式も、はげしく行われた。男たちによる狩りも早速はじめられ、獲れたばかりの肉が祭りの中でふるまわれた。後半にはふもとの町に住む人々も祭りに参加し、そこからまた盛り上がりを見せた。ふもとから持ち込まれた穀物や衣料と引きかえに、動物の毛皮や家畜が引き渡された。その年はじめての交易が、そこで行われたのだ。
 一年ごとの行事として娯楽や儀礼の目的だけでなく、きちんと実用的な意味がある。ジンはそこに人間の本来あるべき営みを見たような気がした。
 祭りを見届け、その数日後。ジンは村を出ることにした。昼に近い時間だが酒場は閑散として人の姿がなかった。カルド族の男たちは開始された狩りに忙しく、昼間から酒を呑むものなどいないのだ。とはいえ店の主人である村長も暇ではなく、ふもとから荷物を運んできた商人の男と店の一角で話し込んでいた。それゆえジンを見送る人間は、皆無であった。
「それじゃあ、お世話になりました」
 と村長に声をかけたが商談中のため、「おう、元気でな」とそっけない返事だ。いくら事情を知らないとはいえ、山に春をもたらした活躍を考えれば淋しい限りではある。
 まあ旅立ちなどこんなものか、と思いつつ荷物を手にして外に向かうジンだったが。
「ああ? こりゃあ、なんだい」
 と驚きの声を上げる村長に足を止め、ふりかえる。見れば荷物を開けた村長が、中から出てきたものに困惑していた。それは額入りの絵だ。寸法は縦に長く、両腕に抱えるほど。
 ジンはそこへ歩みより、絵の内容を見る。額は手作りの木製で、カンバスには先日に行われたカルド族の春祭りが、鮮やかな色彩で描かれていた。サインの記名はないが、ジンには誰が描いたものか判別できた。おそらく外から祭りの様子を見ていたのだろう。
「うーん。こりゃまあ、たいそうなものだが」
「いい絵じゃないですか。どこか店に飾っておけばいいと思いますよ」
 受け取る理由を悩む村長に、ジンは笑みを浮べる。商人に訊くと、旅人らしい女から村に届けてくれと頼まれたとの話だった。宿代がわりのつもりだろうか。そこでジンは思いついて、何か書くものはないかと商人に訊ね、鉛筆と紙の切れ端を借りて、一筆すべらせる。
「これを絵の下につけておくといいですよ」
 絵の説明です、と村長に教え、ジンは酒場をあとにする。絵を描いた本人が知れば怒るかもしれないが、彼女の性格を考えれば春祭りをえがいたことをジンに話すはずがない。書かれたのは西方圏の文字であるため、この付近で読める人間もいないだろう。
 気難しい本人にかわり、サインを書いただけのことだ――『ヨナ・ベルカウンター』と。

『神色師』

【了】

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