『隅田川、』

『隅田川、』

著/キセン

原稿用紙換算枚数15枚

1.

 薄い、冷たい刃が、静かに頬をかすめていくような感じ。
 痛みにも似た寒さに耐えながら蔵前橋に下ろそうとした脚が、何かにひっかかったような感触とともに戻される。進もうとする力が行き場を失って、僕はバランスを崩す。なんとか体勢を整えた。
 ──なんだろう。
 最初は少し変に思っただけだった。小学校低学年のころ、学童クラブの傍の公園で何度も転んだときの、地面に裏切られるような感じを少し思い出した。だが、もう一度進もうとして、やはり跳ね返されると、青く冷たい不安が喉の奥からこみ上げてくるのを感じた。それはいつも、いつのまにか身体全体に広がって、僕の体温を奪って、気力を失わせる。
 同じ高校の生徒たちがいぶかしげに一瞥をくれてなんなく橋を渡る。その視線に耐えられなくなって、僕は橋の前から逃げた。近くにあったベンチに座り込む。
 渡れない。
 僕は確信した。諦めはいいほうなんだ──なんだって、すぐ諦める。とにかく何度試しても無駄だ。僕は蔵前橋を渡ることが、できなくなっていた。そしてそれはその向こうにある、高校に辿りつくことができないということを意味していた。
 いつもなら、むしろ僥倖とすらいえたかもしれない。あんなろくでもない学校になんて行きたくはないのだから。だけど今日に限っては違った。今日だけは学校に行かなければいけなかった。──

2.

 立ち上がって、もう一度試したがやはり、脚を蔵前橋に下ろすことはできなかった。瞬時に萎えそうになる気持ちを奮い立たせて、なんとか迂回路を探せはしないかと考える。来た道を少し戻ると、しばらくして近隣の地図が描かれた看板を見つけることが出来た。こんなものがあることに僕は、気付きもしていなかった。毎日、この道を通ってきたというのに。
 今いるのは蔵前橋のそば、都下水道局蔵前庁舎の前だ。この近くにあり、人が渡れる橋はふたつだ。まず、厩橋。蔵前一丁目交差点まで戻ったのち、江戸通りを浅草線沿いに北上し、厩橋交差点で東に曲った先にある。そこから本所一丁目交差点でふたたび右折すればいい。
 そして、もうひとつは両国橋だ。蔵前一丁目交差点まで戻るのは同じだが、江戸通りを南下し、浅草橋駅を通り過ぎ、そのまま(橋としての)浅草橋を渡る。さらに浅草橋交差点を左折した先に、両国橋はある。橋を渡ったのちに、緑一丁目交差点を左折すると、学校にたどり着く。
 おそらくどちらも歩けない距離ではないはずだ。けっして脚が早いわけではないが、多少の遅刻で済むだろう。問題はどちらの橋を用いるかだ。橋までの距離が近いのは厩橋だが、渡ったあとは両国橋のほうが近い。距離としては大差ない、けど──と僕は思った。厩橋ルートは、寂れているとまではいえないまでも、駅を二つ経由する両国橋ルートよりは人通りが少ないだろう。もうすぐ新しい地下鉄が開通するという話もあるが、いずれにせよ、ただでさえ世界と隔絶された感覚に侵されているというのに、人通りの少ないルートを選ぶ気にはならない。実際、そんなことを考えている間にも、僕のほかの生徒たちはいつものように蔵前橋を渡っていく。すでに、僕と彼らは、違う種類のものであるような気すらした。
 両国橋だ。
 両国駅近辺の学校に通っているというのに、僕はあのあたりを歩いたことがほとんどなかった。まれに通らなければいけないときでも、裏道を使ったり、人目につかないように歩いたりしていた。僕を拒絶する何かが、両国駅にはあった。いや、両国駅を使っている、生徒たちのあいだにあった。
 けど、今日は、両国橋を渡らなければいけない。

 風はより一層強く、冷たくなっているような気がしていた。蔵前橋から蔵前駅に向かうのは、学校の帰りである夕方であることがほとんどだったので、朝早くにこのゆるやかに下る道のりを歩くのは不思議な感じだった。どうせ間に合いはしないのだからと開き直って、ゆっくりと歩を進める。そうしているあいだにも、登校する生徒がちらほらといて、すれ違う。一瞬いぶかしげに見る視線が、僕を少しずつ蝕んでいく。針のような視線、先端から入り込んだ毒素は身体を腐らせる──学校に電話しなくては。唐突に切り替わった。このまま何の連絡もしないと九時くらいには自宅に電話がかかってくるはずだ。まわりには携帯電話を持ってくる生徒もちらほらいるが、僕は持っていない。だから、公衆電話を使わないといけない。一瞬探しかけたが、すぐにまあいいやと考え直した。いったい何がいいのかわからないが、ふいにすべてがうやむやになったような気がした。
 蔵前一丁目交差点まで戻る。ここで右に曲がって少し行ったところに蔵前駅の出入り口がある。これまでの僕は、このルートを外れることがなかった。だけど、今日は、両国橋にたどり着くために、このルーティンを壊さなければいけない。
 左に向き直った。浅草橋駅まで続く問屋街は、いつも通る学校までの道のりの閑散とした雰囲気とは違って華やかだ。ちょうど店が開く時間帯なのだろうか、街が動き始めようとしているのが雰囲気でわかる。
 僕は一度息を吸う。冷たい風が、身体を巡っていく。信号が青に変わる。心持ち早足に変えて、行ったことのない街へ、ちょっとした旅に向かう第一歩を、僕は踏み出す。横断歩道の白い部分に向かって。そこ以外のところを踏むと、たどり着けなくなる気がした。

 なんだか節操のない街だ、と思う。
 それともこの時間に、街を歩いたことがないからかもしれない。目覚めようとする街のざわめきと、ルーティンから離れようとしている自分の行動があわさりあって、普通の光景を違ったように見せているのかもしれない。ようするに節操がないのは、自分のほうだってことだ。風はまだ強く吹いている。ちょうど僕を阻もうとしているように。江戸通りの町並じたいに変わったところはない。居並ぶ問屋の軒先に〈個人のお客様には販売しておりません〉という張り紙が貼られているのは少しだけ物珍しいが、慣れてしまえば普通の商店と何も変わりはない。
 ……いまいち合わない革靴が擦れて、わずかに脚が痛む。少しだけ気分が醒めてきたころだった。通りから伸びる、細い路地。その遠い突き当たりに石造りの鳥居があった。少し気になって一瞬視線をやり、外そうとした瞬間それが見えた。
 とまれ(。)
 地面に描かれた文字。急に頭が痛くなった。自分でも不可解に感じる。──あんなもの、ただの注意書きでしかない。細い路地に入り込んでくる車を押しとどめるための……。
 とまれ(。)
 疑問に思う間にも、頭痛はどんどん酷くなっていく。針が錐が細長い棒状のものが。こめかみから這入ってきて。脳を脳髄を脳漿を。尖った波が頭蓋骨のなかを反響して増幅する。
 とまれ(。)
 不意にがたん、と大袈裟な音がして、我に返った。身体のバランスを崩し、工事現場のまわりのまっ白な囲いに寄りかかるようにぶつかっていた。通行人の無遠慮な視線を感じる。脚ががくがくと震えて、まともに立っていることができない。なぜならそれらが見えていたから。
 とまれ(!)
 いくつもの。そこらじゅうに。それまでなかったはずの地面、壁、店先、空、顔に、直線的で太いフォントで、その三文字が描かれている。ただそれは一瞬だけで、瞬きしている間に消えていた。
 うずくまるようにかがんでいた。ふらふらと立ち上がる。違うだろうか? 眼の前に広がる江戸通りは、その前とは。学校への電話。両親の表情。予想される台詞。息苦しさを想起させるそれらが、融けあって、強迫観念に変わる。それが幻の三文字〈とまれ〉となって僕の前に現れた、ということなのだろうか。
 僕は何分かまだその路地に立って、鳥居を見つめていた。何もなかった。〈とまれ〉という文字もそのままだった。別に〈すすめ〉に変わったりはしなかった。誰も指図はしてくれなかった。仕方がないので歩き出した。歩けた。まだ少し、頭が痛んだままで、転んだときに擦れたのか、痛みがさらに増していたけれど。


3.

『隅田川、』 それまでと違った光景になっているのか、歩きながらも観察を続けた。けど、わからなかった。変わらないでいることを認めたくなくてごまかしているのかもしれないと、自分でも考えた。けどわからなかった。変わっているような気もしたし、変わっていないような気もした。そういえば何時になっているのだろう──そう思って確認すると、八時半にさしかかろうとしているところだった。ちょうど二十分ほど歩いたことになる。そんなことを思いながら歩き続けた。悪い何かが確定してしまいそうで、立ち止まることができなかった。
 やがて、浅草橋駅にさしかかった。ちょうどラッシュアワーが一段落ついたころあいになるのだろうか。これで一駅のあいだを歩いたことになる。たいした距離ではないのだが、なんだか変な気がした。電車に乗ってくればよかったかな、といまになって気付く。京成線内から通ってきている僕が持っている定期は、蔵前までしかないのだから金銭を節約したと考えればいいと思ったが、たかが初乗り料金くらい、さすがにどうにでもなる。どういうことなのかしばらく(当然歩きながら)考えた。つまり……僕は、歩きたかったのだろうか。靴擦れはさらにひどくなっている。この痛みが、僕の欲しかったものなのだろうか?
 ガード下を通り抜けようとしたときに、地面に描かれた白い字がちらりと見えたのであわてて視線を逸らす。傷口が広がりかけているときのような、いやな感じがした。わざわざ触れて、広げる必要もない。
 わずかに足早になる。
 そのまままっすぐしばらく進むと、浅草橋にさしかかった。短い橋だが、この地名のもとになっているだけあって整備されている。橋に脚をかけるまえにふと、思いついた。僕は蔵前橋を渡れないのではなく、橋そのものを渡ることができなくなっているのではないか。
 次の瞬間に、僕の頼りない脚は浅草橋に降り立ったので、とりあえずその不安は解消されたが、短い橋を渡り終えるころには別の不安が僕を覆っていた。確かに橋を渡れないわけではなかった。しかし、たとえばこうは考えられないだろうか──僕は隅田川を渡ることができなくなっているのではないか?
 橋すべてを渡れなくなっていると考えるよりも、隅田川だけ渡れなくなっていると考えるほうが自然なようにも思える。すでに僕は浅草橋交差点にさしかかり、ここを左に曲がってしばらく歩けばそこに両国橋がある。僕はほんとうに、両国橋を渡ることができるのだろうか? 疑いは血塊になり、胸の内奥に沈殿する。また息苦しくなる。振り払うように、首を振った。そしてふたたび前に向き直ると、景色が開けていた。風は止んで、静止した冷たさの広がりに光が差している。
 両国橋。隅田川を架かるこの橋を渡れば、学校まではすぐだ。僕は目を瞑る。そのまま数歩、進んでみる。かさかさに干乾びた唇が、わずかに痛む。目を開く。すぐそこに、歩道との継ぎ目があった。あと一歩進めば、橋に脚を下ろすことができる。深呼吸、肺に冷気が入ってくる。
 脚を上げて、そして下ろす。それはあっけなく、両国橋に降りる。
 だけど、僕は。
 その脚ををこちら側に戻して、両国橋に背を向ける。
 声が反響していた。なぜ僕は学校に行かなければいけないと思い込んでいたのか──そんなのは、どうだっていいことだった。ただ、あいつらから「絶対に来い」と云われてたから、ただそれだけ。どうせろくなことにならないことは、わかっていたのに、ただ無意味な責任感にかられて、行かなければいけないと思っていた。
 僕は歩き出していた。今背を向けている隅田川、この向こうに学校も自宅もある。今までの僕が抱えていたすべてのものがある。だけど僕は確信している。もうこの川の向こうに行くことはないのだろう。僕の一部分、馬鹿な理性は、その他の部分、非現実的な妄想を嘲笑っている。だけど僕はそれを無視してやる。僕は橋を渡らない。渡れないんじゃなくて、自分の意志で、渡らない。
 徐々に歩くスピードを上げて、走り出す。ここまで歩いてきた疲労もあって、すぐに息があがる。それでもまだ走り続ける。僕は変わったのだろうか。たった数十分歩いただけで。……そんなことは後でわかる。靴擦れの痛みが身体じゅうに拡散していく。けどただ今は、僕は、走り続け、逃れ続ける。靖国通りを、西へ。

この作品をはてなブックマークに追加この作品をはてなブックマークに追加


読み終えましたら、web拍手をお願いします。壁紙をプレゼントさせていただいております。

目次へ戻る