『長江のうた 星へのたび』

『長江のうた 星へのたび』

著/添田健一

原稿用紙換算枚数75枚

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一 出帆


 青天の高くを白い鶻《はやぶさ》が舞っている。
 凌雲寺の長い石段のたもとにて蘇軾《そしょく》は足をとめる。右手をかざして天を仰ぐ。澄んだ青に白い雄姿が目にもあざやかである。白い鳥影はゆるやかに蒼穹を滑り、やがて石段を昇りきった先にそびえている仏閣の陰に消えた。
 江《かわ》のほとりから風が吹いてくる。ここは凌雲山のふもと。冬十月午《ひる》過ぎの陽射しが垣根や石畳のそこかしこを照らしている。歩きだす。水のきらめきが目に飛びこんでくる。絶え間ない波の打ちかえす音。ここ嘉州はあまたの河川があわさるところである。
 長江へとつながる流れ。陽射しを受けてきらめいている。向こう岸は山のかさなり。水の流れゆく先を目で追う。どこまでも続いていて彼方は霞みにおぼろとなり、すべてをとらえることはできない。
 これよりこの長大なる江を父や弟たちとともに下り、京師《みやこ》をめざす船旅につく。江は長いばかりではない。激流ひしめく大峡谷では多くの難所が待ち受けている。あるいは命を失うかも知れない危難の旅路。まさしく波濤万里を乗り越えて京師開封《かいほう》をめざすのである。開封に着けば、はじめての官僚としての新しい暮らしが待っている。ふるさとの眉山《びさん》を離れて嘉州まで来た。ここからがまことの旅のはじまりである。そして、おのれの士大夫としての詩人としての生のはじまりでもある。門出のとき。おのずと気はみなぎり、胸は高鳴る。北宋の仁宗の御世《みよ》、嘉祐四年(西暦一〇五九)。蘇軾、二十四歳である。

  朝發 鼓闐闐
  西風 獵畫旃
  故郷 飄已遠
  往意 浩無邊

  朝まだきに嘉州を出帆したとき 船出を告げる鼓の音がてんてんと鳴り響き
  西から吹いてくる風が 画模様の描かれている旗をたなびかせる
  ふるさと眉山は いつのまにかはるか遠くになってしまった
  されど旅立ついまの思いは どこまでもはてしなくひろがってゆく 

 風の音に振りかえる。亡き母の声を聞いたおぼえがしたが思い過ごしだった。寺内の天寧閣をめざすべく江沿いの幅のある道を歩く。嘉州の入り組んだ水の流れは、怒濤とあらわすにふさわしいほど急で荒あらしく、故郷の錦水の落ちついた細やかさとは比べようもない。されど、この地で三日を過ごすうちに、激流にも親しみがわきはじめていた。
 十三層の楼閣を備える天寧閣に着く。岩肌をあらわにした断崖が天にも届かんばかりにそびえている。開けはなたれた楼閣のうちを仰ぎ見る。そこには峻厳たる巨大な石像が鎮座している。弥勒菩薩の石仏である。高さは三百六十尺(約七十一メートル)。頭部だけでも三層の建物よりも高いであろう。
 けわしい石崖に腰かけた大仏は、両手を上品にそれぞれの両膝の上に置き、長江の流れを踏みしめるようにして座っている。背筋を伸ばしきっても仏像の顔まではうかがえない。過日、船上からのみ、その穏やかなる尊顔を拝した。裸足の足に近寄ってみる。仏足の数歩先はすでに波濤渦巻く岸辺である。巨大な足の上で童たちが声をあげてしきりとはしゃいでいた。石段を昇れば仏像の足の甲に乗れる。寺の僧によると、大人が百人乗れる広さだという。中華をあまねく探しても、これほど大きな弥勒像はほかにあるまい。
 長江の支流である青衣江、岷江《びんこう》、大渡河のみっつがあわさる嘉州。この凌雲山の山壁にあまたの激流は突きあたっている。ゆえに古くより水難が絶えず、船旅には危難の岸辺とされてきた。唐の開元元年(七一三)に僧の海通《かいつう》により、石崖に彫られたのがこの巨大な石像のはじまりと伝えられる。できあがるまでに九十年のときを要したという。したがって、海通は完成をまのあたりにはできなかったが、建造は土地の有力者に受け継がれ、長いときを経て仕あがりのときを迎えた。大仏は水害の鎮めとしても働いたが、崖を削った際に生じたおびただしい量の石を江に捨てることによって、河床をあげ、水の流れをわずかながらに緩やかにするという実のある役目も果たした。すべては偉大なる海通の遺志のうちである。
 これより船を操舵するものはこの巨大な大仏を目印にして、凌雲山をめざして航行するようになった。
 蘇軾はなおも弥勒菩薩の巨像から目が離せずにいる。ふるさとより船でここまで来た。いまこうして無事でいられるのもこの菩薩と海通および建造にたずさわった多くのひとびとの尽力のおかげであろう。三百年以上も前の恩恵を授かって生かされている。おのずと目を閉ざし、手をあわせていた。母の顔が胸をよぎる。
 だれかが歩み寄ってくる。なつかしい温かさに触れた思いがして、わずかなあいだ息をとめ、目を開け、ゆっくり振りかえる。妻だった。安堵の声をあげてしまう。王弗《おうふつ》こと王氏である。腕にはこの年生まれたばかりの長子を抱きかかえている。幼子の蘇邁《そまい》は母の腕で心地よげに眠っている。
「どうされたのです。おかしな声をあげて」妻は菩薩像を見あげる。まぶしげに目を細める。「ここにいらっしゃると思っていました」
「旅の加護を祈っていたのだ」
「では、わたくしも祈りましょう」
 子供を妻の腕から預かる。目をさますかと気がかりになったが、眠ったままだった。
 祈りを終えると、妻はこちらを向く。「お義父《とう》さまがお呼びになっておられます。これからの旅路についてだいじなお話があるそうです。もう弟さまも、史氏もいらしてお待ちになっております」
「わかった。ではすぐにゆこう」子供を抱えたまま歩きだす。この一歩が万里の旅路のはじまり。気にかかることがあり、天を仰ぐ。先ほどの白い鶻がなおも空の高みを舞っていた。


 蘇軾は北宋の仁宗の景祐三年(一〇三六)、中華西南の地である蜀の眉州眉山(四川省眉山県)に生まれた。眉山は広大な四川の盆地にある街である。南には蛾眉《がび》山があり、縦断して岷江が流れる。四川は山間《やまあい》の地であるが、水と気候にはこよなくめぐまれている。
 蘇家は絹織物にたずさわる問屋が軒を連ねる一角にあった。父の蘇洵《そじゅん》は若いうちは無頼の徒として鳴らしていたが、ちょうど蘇軾が生まれた二十八歳のころより、思うところあって学問をはじめ、やがて役人になるための修身の旅に出た。この時代、若者が学問を志すのはもっぱら出世のためであった。唐の世と比べて科挙の制度も整い、ことのほか豊かな家の出ではなくとも受けるものの努め次第で出世の道は開けるようになっていた。父とてもいずれは科挙に及第し、進士となる意気ごみで出立したのである。家には母と子供たちだけが残された。弟の蘇轍《そてつ》とは三歳ちがいである。
 母の程氏は眉山の名門の出で、きわめて教養のある婦人だった。兄弟はこの母から文字を教わり、書の手習いを授かった。程氏はまた仏教への篤信がきわめて強く、家のものから庭の小鳥、草花にいたるまで深い慈しみをなした。蘇家の庭にはつねに手入れのゆき届いた草花が生いしげり、にぎやかに小鳥がさえずっていた。やさしい程氏の心根ゆえに小鳥も小さな動物もひとが近づいてもおそれる気配も見せずにいた。陽あたりのよい庭は生の豊かさに満ちあふれていた。
 兄弟は机案《つくえ》を並べて学んだ。弟の蘇轍は三歳の差を感じさせないくらいにものおぼえが早く、ときには蘇軾をたじろがせるほどだった。ふたりは書を習い、詩を読み、古典をそらんじ、史書を取写した。
 遊学から父がもどってきたのは蘇軾が十二歳の年である。帰郷は亡くなった祖父の蘇序《そじょ》の葬儀のためだった。老泉という山のなぞえにある先祖からの墓地に祖父は葬られた。
 父は京師で科挙の及第を果たせず、失意の身でもあった。官僚になれるあてもなく、落胆をあらわにしていた。兄弟は寝椅子に横たわり目を閉ざしたままでいる父の前で、古典の朗読をおこなう。発音のあやまりを聞きとがめると、身を起こして言葉の由来から説きはじめ、まちがいを正してくれた。飲みこみの早いふたりを父はまぶしげに目を細めて見つめる。兄弟はたがいに修身することによって、学問を高めていった。
 十九歳で蘇軾は妻を迎える。眉山から岷江沿いに南に下った青神という土地の王家の娘、弗である。このとき十六歳だった。弟も翌年にふたつ年下の史家の娘をめとる。
 このころ父はひとつの決断をする。親のひいき目をさしひいても、兄弟の資質はすぐれている。このすぐれたふたりを京師に連れてゆこうと考えたのである。遠く離れた四川の地では伝わりにくい科挙の試験の傾向もわかるし、よい学問の師にもめぐりあいやすい。兄弟のためのみならず、おのれの出世の道を探すためにも開封へ赴こう。とはいえ、親子三人が京師へゆくのもそこにとどまるのも莫大な金銭《かね》がかかる。蘇家のように決して豊かなわけではない家にとっては大決断である。されど、父は息子たちを信じていた。ついに三人は上京する。嘉裕元年(一〇五六)。蘇軾は二十一歳、蘇轍は十八歳である。
 すぐれた兄弟は父の望みに見事にこたえる。翌年四月、蘇軾と蘇轍はふたりそろって科挙の進士の試験に及第する。歳若い兄弟そろっての合格は京師でもさかんに話題となった。だれよりも父が喜んだ。
 だが、さらにその翌年、ふるさとからの書信が母の死を伝えてきた。孝道を重んじるこの国では古くより、親の死に際しては一切の務めから身を退いて、およそ三年のあいだ喪に服するならわしとなっている。報せを受けた蘇父子はすぐさま蜀へともどり、丁重に程氏をとむらった。
 蘇軾は墓前から動けずにいた。若き及第の名誉も母の教えがあったからこそである。その母にお礼の言葉もなにも伝えられなかった。目をつぶり、手をあわせる。陽があたりを照らしていた。鳥のさえずりが聞こえてくる。ひとは死したのちは鳥になって空を舞い、星となって夜空に輝く。なつかしい声が耳によみがえってくる。
 母もまた、老泉の地に葬られた。


「さて、それでは一家がそろったところで、これからの旅について、あらためて説こう」父の上機嫌な声が堂内に響く。凌雲寺の一室を借りて、一家を前にして口舌なめらかに語りはじめる。壁ぎわには寺から借りたという中華の地図をあらわした屏風がある。屏風の前に立つ父から見て左手に蘇軾と妻の王氏、右手に蘇轍とその妻の史氏が丸い卓子を囲んで座っている。王氏の腕には赤子が静かな寝息を立てている。
「だが、その前に知らせるべきことがひとつ」父は胸のあわせから書信を取りだす。沈痛な面持ち。「わが亡き妻の霊をとむらってくれた故郷の極楽院からだ。私が妻のために造らせた六体の菩薩像はつつがなく如来堂におさめられた旨が告げられている。これにより、生前は仏への信心がことのほか篤かったわが妻の霊は天上においてもやすらぎをおぼえたであろう」ここでくぎり、一同を見渡す。「まこともって妻の葬儀および喪に服していた三年のあいだはみんなにも苦労をかけた。ことに若い嫁御であるおふたりには嫁いできてすぐにこのようなこととなり、じつに申しわけなく思っている」王氏と史氏のそれぞれにうやうやしくこうべを垂れる。
 父の丁重ぶりに史氏のほうこそ恐縮して、とまどいながら王氏をちらりと横目で見る。王氏は目でうなずいてみせる。彼女のほうがふたつ年長である。
 おもてをあげた父は言葉を続ける。「喪中にはふたりのご実家にもお世話になった。おかげで葬儀はとどこおりなく終えられた。そして、そのあいだに私もめでたく開封府より任官の通知をいただくことができた」おめでとうございます、と四人から祝いの言がそれぞれあがる。応じたのち、息子たちを見る。「加えて、これまためでたくも兄弟ともども進士となっている。服喪を終えたいま、京師にてふたりともまずまずの官職に就けるであろう。まさしくわが家の運はここに開けり。そこでだ」ひときわ声を大きくする。「妻の葬儀を終えたのを機にわれら蘇家は、このままふるさとを離れて、京師に移り住もうと考えている。すでに開封府に住まいを見つけてもある。六代も前から眉山に根ざしてきたわが一族であり、故郷去ること偲びがたしであるが、機に臨んでは乗じることこそ、世を処すすべでもある。われらはここに四川の家を永くに離れる」
「もっともなお考えだと存じます」蘇軾は答える。
「僕も兄上と同じ考えです」弟もすぐに返す。「母上の霊もきっとそのように望んでいるでありましょう」
「賛同ありがとう。これより眉山はふるさととしてわれらの心にあり、そして、祖の眠る地として思いをとどめおくとする」大きくうなずく。声の調子をがらりと変える。「さて、その上京の段取りであるが」ずっと手にしていた細長い木の棒の先を屏風の地図にあてる。四川の盆地をしめしていた地点から、北へと先端を動かす。「かつて、わが息子たちのはじめての上京の折りには、この、青天を上るより難し、と詠われた名高き蜀の桟道を越えて長安の西に出て、陸路をして東の京師へと赴いたものであった。思い起こすに、これはこれでまことにたいへんな道中であった」
 今度は兄弟が視線を交わしあう。
 父の声は調子を帯びる。「されど、このたびの上京はかつてとは異なる路程を採りたいと父は考える。そう、この長江を船で下り」棒の先端が江として描かれた線の上を滑る。「江南の江陵《こうりょう》に着いたところで上陸し、あとは北上して陸路で京師をめざすという道のりだ。これまでわれわれは長江を下るべく、ふるさとの眉山を離れて南下し、王氏のご実家である青神の地にしばらく逗留し、そこから船に揺られてこの嘉州までやってきた。しかし、船旅のたいへんがはじまるのはむしろここからである。蜀の桟道を上るのも難であれば、水路を下るのもまた険という、まこともってわれらが四川の地は中華とは隔絶した地にあると思いかえさねばなるまい。ともあれ、険とわかっていながらこの路程を採るのはほかでもない。京師に着けば、前途ある若いふたりは、仕官先の務めを果たすべくあくせくする身となるか、はたまた次の試験のための勉学に追われる日月を送るか、いずれにせよしばらくは物見遊山とは無縁の境涯となろう。この機に中華に名高い長江の絶景を目におさめ、胸に刻むひとときは生涯忘れがたきものとなる。いわば、父の親心というものだ。まあ、それはさておき、だ」照れたように額に左手をあてた父はしかし、手を離すとややきびしいおもざしを作る。「船旅のたいへんといったが、もっとも難所と呼ぶべきはいずこであろうか」棒を手にしていない左手で蘇軾を指ししめしてくる。
「それはやはり、三峡でありましょう」
「然りだ。激流滔滔たるこの長き江の流れはほぼすべてにわたって気を引きしめてゆくべきだが、最たるはやはり三峡と呼ばれるこのあたりの三つの大峡谷であろう」地図の長江の大きく蛇行したあたりにぐるりと棒先で横長の円を描く。「われらがぶつかる順に三峡を挙げると、まず瞿塘《くとう》峡、続いて巫《ふ》峡、最後が西陵峡となる。この三つの難を越えるには命を賭す覚悟さえいる。あっ、いや」あわてて声をあげたのは婦人ふたりが、ことに史氏が身を大きく震わせたからである。ふたりとも四川から出るのはこれがはじめてだ。
「案ずることはない。なにしろこの旅は急ぐものではまったくないし、婦人ふたりに生まれてまもない幼子も連れているので日程は無理がないように組み、ときをかけて移るつもりだ。天候がすぐれないようであれば、旅を続けずに日和を待つし、一行のなかで加減を悪くしたものがいたら、やはり休むつもりだ。おおまかな旅程としては、いまが十月だから、水路にふた月かけて江南に着き、さらに陸路にふた月と踏んでいる。年明けの二月に京師に到着する運びとなろう」
 穏やかな語調で告げられて、史氏はこわばっていた表情がいくらか和んだが、それでもまだ不安の色を隠せずにいる。
 さらにはげますべく、父は声をみなぎらせる。「無論のこと、難所にもじゅうぶんな策を備えてあたる」卓上の小さな鐘を手にして鳴らす。涼やかな音色が響いた。
「失礼する」太い声が聞こえた。まず筋骨たくましい初老の男が、そのあとには七人の男が室に入ってくる。いずれも屈強な体格をしている。ひとめで船乗りと知れる。初老の男をまんなかに整列をとる。父が手をかざす。「われわれの長江下りの船頭を務められる陳徳荘《ちんとくそう》どのと配下の水手《かこ》のみなさんだ。王氏のご実家から紹介していただいた熟練の技を持つすぐれた船乗りだ」
 船頭の初老の男が前に進みでる。「陳です。わが家では代代、もっぱら長江下りを務めとして参りました。私も舵をとって四十年になります。われらの技をもって、みなさんを確かに江南まで送り届けます。よろしく」太くみなぎる声はまことに頼もしかった。最後に軽く頭をさげてくる。
 兄弟も立ちあがって礼を返す。
 老船頭と水手たちに冗談をまじえつつ語りかけた父はたちまち場を盛りあげてしまう。船乗りたちはにこやかに笑いながら耳を寄せ、声を立てて笑いだす。父も目尻にしわを寄せて、破顔して、白い歯を見せている。話はこの場だけでは終わるまい。このまま今宵は宴となるであろう。
 そうした父の社交ぶりをまのあたりにしながらも、されど蘇軾はこの船旅にいくばくかの気がかりを抱えていた。若き日の遊学のさなかで父はすでに水路での京師ゆきを経ている。だから、はじめての自分が心配することもないのだろうが、それでも不安をおぼえずにはいられなかった。
 男三人が船に乗るのであれば、さほど気にはとめない。しかし、婦人ふたりに幼子がひとりいるのである。まして季節は冬。長江の水かさも引いており、大雪や吹雪などの悪天候にも見舞われよう。そうしたなかで女子供を連れての船旅は無謀きわまりないのではないか。すでにそのように意見してはいる。しかし、父はそんなに気にすることはない、と手を振り、笑うばかりであった。
 荷は自分たちが乗る以外にもいくつかの船に分けて運ぶうえに、身のまわりで必要とするものも十分すぎるほどに備えている。加えて妻の実家から紹介された熟練の船頭たちもついている。気にかけることはないのかも知れないが、父の手ばなしの楽観ぶりを見ていると心配にもなってくる。
 もっとも、と蘇軾は手をあごにあてる。子供のころから、父の明るい見とおしはいつもよくあたることを知ってもいる。予言の才があるのか、楽観がよい気をもたらせるのかはわからないが、のん気過ぎるくらいの父の予測はたいていまことになるのである。不吉な予感など微塵も生じさせない気風は頼りがいもある。いつものようにここは父の楽観に任せてみるか。そこまで思いがすすんだとき、弟と目があった。まなざしだけで同じことを考え、同じ結びに至ったと悟る。たがいに肩をすくめて笑う。
 気づいたのか、妻も笑っていた。歳若い史氏はなおも不安をおもてに出していたが、王氏に肩に手をあてられて、いくらか落ちついた面持ちになる。
 やがて船頭と水手たちはひとまず下がり、室にはふたたび蘇家のものだけが残った。父は威勢よく音を立てて両手をあわせる。場の取りまとめの合図。「かくして、だ。われらは京師へと移る旅路につく。四箇月にもおよぶ道中には思わぬ難事も起こりうり、たいへんなこともなにかと多いと思われるが、一家が心をひとつにしてあたれば、たいていのことは切り抜けられるとこの父は考える。旅をとおしてわれらの絆はより堅く結ばれるであろう。そうなることを強く望む。われらの手で明るい将来《さきゆき》を築こう。いざゆかん、華やかなりし京師での栄えある幸多き日日へと」
 しめくくりの辞が終わると、だれからともなく拍手がわきあがった。しばらく鳴りやまない。史氏も口もとに手をあてて目を細めている。蘇軾は黙然とうなずく。なるほど、父は確かによい気をもたらせてくれる。


 二日後。十月十三日。出帆の朝である。幸先よくも早くから晴れた日だった。
 そびえる弥勒菩薩像に拝観したのち、蘇家の一行は船着場へと赴く。凌雲寺の僧たちが出迎えてくれた。父は親しくなった高僧たちと大仰なくらいに熱のこもった激しい握手を交わしあい、大きく肩を震わせていた。兄弟も世話になった僧に厚く礼を述べる。
 水際ではすでに陳船頭をはじめとして、七人の水手がそれぞれの持ち場についている。江は絶え間なく水しぶきをあげている。
 僧たちに見送られ、仏の加護を受け、一同は船に乗りこんだ。わずかな手持ちの荷は昨日のうちに積みこんである。八人乗りの船なので、あまりは十分にある。蘇軾が幼子を抱いた王氏を、弟が史氏を、それぞれ手を取って船室に入る。父は最後まで僧との別れを惜しんでいたが、陳船頭に声をかけられて、それでも名残尽きない風情で、ようやく船に乗った。船室に入ってからもなおも外に目を向けていた。むせび泣いている。
 老船頭の合図のもとに鼓が打ち鳴らされる。水手のふたりが号令とともに畳んでいた帆を張る。六尺をゆうに越える白い帆は風を受けてふくらむ。満帆。鼓の音は調が次第に早くなってゆく。艫綱《ともづな》がほどかれて船が岸辺から離れる。蘇軾は妻の手を握りしめる。弟もそうしていた。
 動きはじめてすぐに菩薩像の穏やかな顔を拝めた。加護をもとめて、またしても手をあわせる。
 船はたちまち流れに乗る。思っていた以上に速い。打ちつける波音が船縁から絶えず聞こえてくる。風は冷たい。父をうかがうと先ほどの泣きぬれた風情とは打って変わって、船室の壁に背をあずけて坐し、鷹揚に構えたかたちであたりの景色を見るとはなしに目で追っている。蘇軾は妻とともに船窓に寄り、外を眺めた。左右の窓は普段は開いていて外を眺められる。幼子は静かに寝息を立てている。対岸には岩肌をむきだしにした山崖が続いている。あっというまに流れ去ってゆく。巨大な菩薩像も見るうちに小さくなり、やがて山陰の向こうに見えなくなる。
 風が吹いて速度があがる。滑るように軽快に進む。妻に目で合図してから立ちあがり、外に出る。風が強い。冠を飛ばされないように押さえる。滔滔たる水の流れは船と乗客を運びゆく。ゆく先に目を向ける。両岸はなおも巌が連なっている。この流れがわれらを京師へと連れていってくれる。父のいう明るい将来をめざして進んでゆく。気の流れが変わり、今度は向かい風になる。立ち向かうように風を受けて、なおも先に目をこらす。向かい風は冷たいが、気が高ぶっているためか、こよなく心地よい。旅立ちのとき。
 空を見あげると、白い影が舞っていた。鶻である。二日前にも見受けた同じ鳥だろうか。船の速足にもかかわらず、差をつけられることもなく、それでいて悠然と空の高くを飛んでいる。ひとは死んだら鳥になって生まれ変わる。なつかしい声を思いだす。あるいはあの鶻は母の使いでわれらを見守ってくれているのではないか。鳥影を見つめる。母自身ではないかと考えないのは、鶻の獰猛さが母にはふさわしくないと思われたからである。

二 江上


 船旅は続いた。天候にもめぐまれて、蘇家の一行は江下りのさなかにある。冬場で水かさの減じている流れは急で、ときにはほとばしる波濤に胆の冷える思いにもさせられたが、転覆や船底に穴が開くといった大きな事故もなく、つつがなく旅程は進んだ。
 船上からの眺めは絶景きわまれり。遠くにかすみ、近くにそびえる山山の稜線の際だちはそのまま山水の画を目にしているようだった。惜しむらくは流れが速すぎて、ひとつひとつの景色をじっくり眺めている余裕がないことであろうか。父と兄弟は山水の美をめでる詩を競いあって作った。ときには画にも描いた。
 史氏ははじめのうちは軽い船酔いにかかっていたが、船頭から薬をもらい、また父と王氏の気づかいもあってほどなくして揺れに耐えられるようになった。こわがっていた急流にも日が経つに連れていくらか慣れてきたようすである。王氏も長い船旅ははじめてだが、酔いはまったくなかった。子供の時分から故郷の青神の湖で小舟に乗る機が多く、水の揺れに慣れているせいかも知れない。幼子の蘇邁はしばしば泣きだすことはあったものの、総じて手のかからない子供だった。
 一家は船中で博奕《かるた》をしたり、先人の詩を吟じたり、しりとりをして楽しんだ。父と兄弟はしげく詩作にはげみ、それぞれの詩評会などもおこなった。夕になると、水手たちが船を岸辺に寄せて、艫綱を結んで流れに停《とど》めた。夜は日によって野営したり、船中に泊まったりする。船乗りたちと焚き火を囲んで、魚を焼き、酒を飲んで、宴を開く。このあたりで魚は大量に獲れるため、近くの漁師から籠いっぱいに買っても、ただ同然の値しかかからなかった。
 父はしばし琴を弾じた。一家は耳を傾ける。蘇軾の願いに応じて「文王藻」の曲を弾いてくれた。江沿いに弾琴のせつない調べが響きわたる。兄弟にも教えてくれる。一家は寒くて火から離れられない夜は父の爪弾きに聴きいった。
 日中の船にはまれに鷗《かもめ》の群れが近づいてきた。水面のすぐ上を舞う水鳥たちはひとによくなれていて、船を追いかけるようにして飛んでくる。
 父は軽く笑うと袋入りのふかし餅をひとつ手にする。よく見ているようにしめすと、ぽんと宙に投げる。鳥たちが騒ぎあい、一羽が空中の餅をくちばしで受け止め、そのまま食べてしまう。今度は両手にひとつずつのふかし餅。ほぼ同じくに別べつの方向に投げる。鷗の動きはすばやい。一羽がひとつを捕らえ、別のところではほかの一羽がもうひとつをつかんでいる。まだどちらの餅も飛距離が伸びきらぬうちに、である。
 鳴き声がやかましくなる。まだ食べていないものがすかせている腹を前にせいているのだ。おまえたちもやってみろと父が袋を手渡してくる。受け取った蘇軾はひとつを手にして、勢いよく空高くに放り投げる。鳥の群れを越えてなおもぐんぐん昇ってゆく。鷗たちは見送るようにしていたが、頂点に達した餅が落下してくる機をうまく見はからって、一羽がかぶりつくようにして食いついて捕らえた。「すごい」史氏が感心している。
 弟にも袋を手渡す。困り顔で笑う弟はそれでもひとつを手にして、群れに向かって軽くぽんと投げてみせる。続いてみっつほど同じように。きわめて容易に鷗たちは餅をくわえる。弟はなおも困ったおもざしである。「曲芸はもうじゅうぶんに見させてもらいましたから」まだ食べていないものに、とさらにいくつか投げてあげる。
 鳥たちはなおも足りないというように鳴きたてている。王氏の腕のなかでは幼子がわかっているのかどうか、白いはばたきの群れをものめずらしそうに見ていた。冬の午さがりの陽光を浴びて、白い鳥たちは闊達に舞っていた。
 岷江を出て宜賓《ぎひん》にまで着くと、いよいよ長江の本流となる。流れはなおいっそう速く、両岸の険しい石壁の眺めはまたたくまに過ぎ去り、すぐに遠くかすんで、たちまちにして消えてしまう。黒い峰のかさなりが流れゆくさまは奔馬のごとき。ごくわずかなるうちに数百の黒馬の群れが駆け抜けてゆく情景だ。前方に目を向ければ、無数の連なる岩が迫るようにして近づいてくる。見るうちに新しい巌が霧の大気の向こうから、ときには唐突に、ときには緩やかにその威容をあらわす。岩壁には渓流や瀑布も散見できた。ごくまれに山間に鹿と思われる獣の姿を見かける折りもあったが、確かめるいとまもなく目前より消えてしまう。風と渓流にすべては流れゆく。
 一日の終わりにどこまで進んだか、地図を見て確かめる。わずか一日にして二百里余も下った日もあった。陸路ではありえない距離である。まさしく風の翼に運ばれて飛ぶがごとき移りゆき。
 その一方で、急ぐ旅でもないので、道中ではさかんに寄り道もした。沿岸のいたるところに名勝や古跡があり、いにしえの英雄から仙人をしのばせる旧跡や寺を訪れた。父の好奇ぶりは尽きんばかりであったが、兄弟もしっかり血を受け継いでいる。並ぶと弟のほうが背は高い。横幅は蘇軾のほうがややまさっている。親子ともども日がな一日あちこちを訪れ、競いあって詩を作り、名勝を詠いあげ、いにしえの賢人がこの地で過ごした往時を偲んだ。一日では近くの景観をまわりきれないときには日程を変えてまでその地に逗留した。父は変わらずひとあたりがよく、ゆく先ざきの寺や道観で僧侶や道士とたちまち意気をあわせ、夜はそろってそこに泊まる段となるのもしばしばであった。
 危うきと背中あわせでありながらも、楽しき船旅の日日は続いた。ひと月が経ったある日、水の流れがはっきり変わった。気のうちにも、ただならぬものがたちこめている。その夕べ、いつもより早く岸辺に船を停めたあと、陳老船頭はこれまでにないほどのきびしい顔つきとなり、重おもしく告げてくる。いよいよここから、長江の最たる難所である三峡にさしかかる、と。


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