『僕らは海に捨てに行った』

『僕らは海に捨てに行った』

著/蜜蜂いづる

原稿用紙換算枚数60枚

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 もしも運命というものがあるとしたら、夏のあの日に目覚まし時計のアラームをセットし忘れていつもより十五分遅く起きてしまったという出来事がまさにそれに当たるのかも知れない、と今になって思うことがある。

 髪を整える余裕は無かった。朝食を取るなんてことは考えられなかった。とりあえずパジャマを脱いでシャツを着て、その上にカッターシャツを羽織る。鞄の中身はいつもと代わらない教科書とノート、そして筆箱やら下敷きやらだ。リュックサックを背負う。中に入っているのは英和辞典と様々な小説。とりあえずそれらを掴んで、僕は自転車に乗った。
 間に合って欲しい、と思っていた。高校に入ったばかりの僕は早くも授業の内容に追いつけなくなっていた。だから夏休みの時期であるとしても、この期間に学校で行われる補習には参加しておきたかった。成績が下がってくるとこれまでみたいに悠長に本を読んだり友達と遊んだりすることが出来なくなるのは分かっていたから。
 そうして必死に自転車のペダルを漕いでバスの待合所まで行った時に僕が目にしたものは、これに乗れば一時間目の前に行われるホームルームには食い込んでしまうけれど、それでも辛うじて一時間目には間に合う時刻に着いてくれるはずのバスだった。待合所の片隅に設けられている自転車の駐輪場に停めようとして、あまりにも慌てていたので自分の自転車を派手な音を立てて倒してしまい、同じく補習に参加する生徒たちの自転車までドミノのようになぎ倒してしまった。
 僕は息を切らせて、倒れてしまった三十台ほどの自転車を見た。遅刻は確定だ。だったらしょうがない。この自転車を何とかしないといけない。僕はまず自分の自転車を起こして、そして隣の自転車に手を伸ばした。朝だというのに僕は汗だくになっていた。ハンカチを取り出して額と首筋の汗を拭う。それでも汗でまとわりつくカッターシャツが気持ち悪かった。溜め息をつく。
 すると後ろから同じように自転車のペダルを漕ぐ音がした。振り返ると、そこには早紀先輩がいた。
「おはよう」
 先輩はそう言って駐輪場の様子を見た。「大惨事ね」
「おはようございます」と僕は返した。「遅刻してしまいました」
「まあ、まずはこの自転車を何とかしないとね」
 早紀先輩はそう言って僕の傍まで来ると、倒してしまった自転車を少しずつ起こし始めた。
 僕は言った。「いいですよ、僕、自分でやります」
「気を遣ってくれなくてもいいよ?」
「いや、気を遣うとかじゃなくて、倒したのは僕だから」
 そう言うと早紀先輩はふふっ、と声を出して笑った。そして言った。
「富沢君、相変わらず面白いね」
「いや、そういうつもりじゃないんですけど……」
「後輩が倒した自転車を見捨てて去っていく先輩なんていないよ」
 僕と早紀先輩は倒れた自転車を一台一台起こしていった。起こしながらちらっと先輩の姿を見る。先輩の髪の毛は僕のような癖のある黒くて強い髪の毛ではなく、いわゆる猫っ毛の類に入るのだろう、とてもさらさらとしている。やや赤いその髪の毛をツインテールにしていて、だから形のいい耳や首筋が露になっている。
 制服姿の先輩がスカートが広がらないようにしてしゃがみ込みながら自転車を起こしていくその光景は、それだけで何だか映画のワンシーンのようにも見えた。当時僕は小説を書いていたので、このシーンは小説で使えるかもしれないと思った。後でメモ帳に記入しておこう、と。でも、まずは自転車を起こすことだ。僕は力を入れた。
 やがて無残に倒れた自転車たちは元通りになった。早紀先輩は笑顔で言った。
「良かったね」
「ありがとうございます」と僕は言った。そこでふと気になったことを訊いてみた。
「今日は伊達先輩とは一緒じゃないんですか?」
 いつもだったら二年生の早紀先輩は、同じクラスでみんなも既に先輩の彼氏だと知っている伊達さんと一緒にいるのが普通だった。バスの中でも、放課後に帰宅する時も。昼休みも早紀先輩は伊達さんと一緒にお弁当を食べたり、学食でも向かい合わせに座って何か会話を交わしながらお互い仲むつまじく笑いあったりしているのが普通だった。もしくは伊達さんがグラウンドで野球部の練習に励んでいる時であっても、早紀先輩はフェンス越しに(もしくは正式には野球部には加入していないけれど、マネージャー的な役割を果たすためにグラウンドの中にいて)先輩を見ているのが普通だったからだ。
 独りぼっちの先輩の姿は、そういう事実を振り返ってみると何だか妙な気がした。
 早紀先輩は言った。
「伊達ちゃん? あいつだったら野球部の朝錬があるからみんなより早めにバスに乗ってるはずだよ。来年は俺がキャプテンになって甲子園だ、って張り切ってるから」
「そうなんですか……」
 じゃどうして早紀先輩は付き添わなかったのかという疑問も湧いてきたけれど、それ以上詮索することには意味がないような気がして、そこで言葉を止めた。

 待合所から五分ほど歩いた場所にローソンがあって、僕はそこでメロンパンと缶コーヒーを買って帰ってきた。次のバスにはそれでもあと十分はかかる。完全に遅刻のフラグが立ってしまった。
「朝ごはん食べ忘れてきたんです」と僕が言うと、先輩は言った。
「朝ごはんは大事だよ。食べないと身体に悪いし」
「先輩は朝ごはんちゃんと食べるんですか?」
「お相撲さんって、知ってる? 朝ごはん食べないんだよ。胃袋を空っぽにしてお稽古して、お昼ごはんを食べて体を太らせるの。子供の頃その話聞いてから、怖くなって朝ごはんだけは食べるようにしてる」
「じゃ、今日も朝ごはんは……」
「もちろん食べてきたよ」
 僕は早紀先輩がこの待合所に来た時のことを思い返してみた。破れそうなぐらい心臓が鼓動を打って汗だくになっている僕とは違って、先輩の姿は平然としていた。ということは、急いでいなかったということになる。
「次のバスに乗ると遅刻確定ですね」と僕は言った。
「そうだね。でも学校には行けるよ」と先輩は返した。
「どうしようかな。僕、今日の補習だけは受けたかったんだけど……」
「受ければいいじゃん」
「いやでも、遅刻しちゃうから……」
 そう言うと、早紀先輩はまたふふっと笑って言った。
「富沢君って皆勤賞でも目指してるの? あ、でも遅刻だともう貰えないか」
「そうじゃないですけど、遅刻するんだったら行く意味がないかなって」
「富沢君って本当に面白いね。白と黒しか選択肢を考えられないっていうか」
 そうなんだろうか?
「わたし、一学期だけで五回ぐらい授業サボってるよ。遅刻してまで行くのもかったるいし、今日はこのまま休んでどっか遊びに行くかなって。親には怒られるけどね」
「まあ、うちの高校はわりと校則が緩いから……」
 そう言って僕はメロンパンを一口齧った。
 運命の瞬間はその時に訪れた。

「ねえ。今日、学校サボらない?」

 早紀先輩のその言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「サボるんですか?」
「どうせ今から行っても遅刻でしょ? だったら行く意味ないじゃない。今日、二人で一緒に学校サボって海にでも行かない?」
 もちろん補習のことも考えた。遅刻はしても補習を受けることは出来るし、クラスメイトにノートを借りれば出られなかった授業の内容を取り戻すことも出来るだろう。しかし、もっと肝心な問題がある。僕はそれを口にした。
「いいんですか? 伊達先輩、怒ると思いますよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 僕は早紀先輩と伊達先輩が一緒にいる光景を想像してみた。二人が生み出す親密な空気の中に、例えば僕のような人間が入り込む余地なんてどこにもない。先輩たちの世界はそれだけ強固だということだ。だから目の前にたとえ早紀先輩しかいないにしても、その先輩の傍には実際には遠く離れた伊達先輩がいる。そう感じていた。
 外からエンジン音が聞こえてきた。学校に行くバスが到着したということだ。
 僕が乗ろうと席を立つと、早紀先輩は言った。
「その格好のままで遊びに行くの?」
「いや、まだ遊びに行くって決まったわけじゃ……」
「先輩の命令を無視するの?」
 僕は驚いてしまった。「命令なんですか?」
 すると、芝居がかって険しい顔つきをしていた早紀先輩はまたふふっと笑って言った。
「冗談よ。富沢君が付き合ってくれないんだったら、今から私服に着替えて一人で姫路にでも遊びに行くから」
 迷ってしまった。このバスに乗れば辛うじて補習の二時間目ぐらいには間に合うかもしれない。渋滞か何かで間に合わなかったとしても三時間目には出られるし、友達にノートを借りることも出来る。だったら乗ってもいいはずだ。目の前の早紀先輩にとっても、もしくは伊達先輩にとってもそれが一番いいはずだった。
 だったら、何を迷っているんだろう?
 でも、それについて結論を出す前に、僕の口は思ってもみない言葉を語っていた。

「分かりました。今から着替えてきます」
「ホントに?」
「先輩の頼みを断ることは出来ないです」と僕は言った。

 おいおい、何を言ってるんだ? 補習に出ないと他の生徒たちに確実に置いてけぼりにされるっていうのに……。でも、僕はそう言うと駐輪場まで行って自分の自転車を探した。すると早紀先輩も駐輪場まで来て、そして言った。
「じゃ、わたしも着替えてくる。ちょっと時間かかるかもしれないけど待っててね」

 日が少し昇るだけで、肌に当たる日光の力が強まってくることに否応なしに気付かされる。父は仕事だから見つかるかどうかなんて考える必要はない。問題は母の方だった。息子が学校をサボって私服で遊び呆けているということを知ったら、あまりいい顔はしないだろう、と思ったから。でも、母の姿はどこにもなかった。多分買い物か、近所の寄り合いにでも出かけているのだろう。
 僕は私服を探した。普段だったら適当に選んで着るのだけれど、早紀先輩はいつもそんなに飾り気のない、それでいて自分の雰囲気にしっくり合うような服を着る。だからそんな早紀先輩に見合うような服を着た方がいいような気がしたのだ。もっとも、ただ遊びに行くだけだから……でもその遊びの内容って何なんだろう? 普通の遊びなんだろうか、それとも……。
 あまり深く考えないようにした。何だか成り行きに任せておいた方がいいような気がしたのだ。僕は迷った挙句、無難に白い開襟シャツとベージュのチノパンを着ることにした。どっちも母親がわざわざ私服にと買って来たもので、特に開襟シャツのほうはなんだか自分のイメージには似合わない小洒落た感じがしてあまり普段は着る気もしなかったのだけど、逆に言うとこういう機会だから一応袖は通しておこうかなと思って選んだのだ。
 重いカバンとリュックサック、そして脱いだ制服をベッドの下に隠す。勝手に部屋に入られた時に見つかったらまずいと思ったからだった。まあ、どうせ帰宅時間もいつもより遅れるだろうし帰った時点で両親は既に家にいるだろうから意味がないといえばないのだけど、どうせなら見つかるまでの猶予を伸ばしておきたかった。その方が親バレを気にしないで思いっきり遊べそうな、そんな気がした。
 尻のポケットに財布を差し込む。そして部屋の片隅に置いていたバッグの中にリュックサックに入れていた小説とMDウォークマンを入れて、外に改めて出る。制服を脱ぎ捨てて、手ぶらで表に出ただけで気分がこんなに変わるものだとは思わなかった。いつもだったら鬱陶しいと思うだろう蝉の啼く声も、むしろ先輩と遊びに行くためのムードを盛り上げてくれる、大袈裟に言えば祝福のようにさえ聴こえてくる。そう思ってしまうということはやっぱり早紀先輩と遊びに行くことを楽しみに思っている自分がいるという証拠であって、伊達先輩のことはあまり考えないようにした。二人でいるのが見つかったら色々ややこしいことになるだろうけれど、流石に早紀先輩が僕に浮気しているとまで考えたりはしないだろう、と。
 つまり早紀先輩のような人が、伊達さんを捨ててまで選ぶような男では僕はない、と。

 先に待合所に着いたのは僕の方だった。待合所には誰もいない。普段だったら休日であっても何人かの大人の人がいて、僕と同じようにバスを待つのが普通だった。そう考えると何だか自分たちが異世界の中に入ってしまったような気がした。ともあれ、先輩は必ず来るだろう。それに備えて、MDウォークマンを取り出した。MDを再生させる。近所のレンタルCD店で借りた平沢進の『Sim City』だ。
 聴きながら、さっき駐輪場で見た光景のことを思い出した。小説を書くための舞台を想像してみた。舞台は東南アジアのどこかだ。自分は、その地に降り立った異邦人。行ったことはおろか見たことも殆どないようなそんな国々のことを思い描いてみる。
 路面は舗装されているのだろうか。多分路地に入り込むとそこには茶色い土を剥き出しにした光景が広がっているに違いない。木を乱暴に組み立てて作った家屋からは例えば住民たちの飼っている犬や猫、ニワトリや豚といった動物たちが姿を現し、あるいは啼き声を上げる。騒がしいといえば騒がしい、しかしそれは日本の日常生活に満ち溢れた、例えば街頭でしょっちゅう聞こえてくる何かの不愉快なアナウンスといったものではなく、風景に溶け込んでいてあまり神経に障らない類のものだ。
 そこを舞台にして小説を書くことを考える。音楽はそうした風景により臨場感をもたらしてくれるような気がして、ずっとそれに耳を傾けてしまう。道に迷った主人公は正午過ぎ、照り付ける日光の中時折吹いてくる微風を感じながらハンカチを取り出し、額や首筋の汗を拭き取る。すると、そこに一人の少女が座り込んでいる。少女の前にあるのは、例えば水道の蛇口とそこから流れてくる、しかし決して煮沸せずに飲んではいけない水。そしてそれを受ける洗面器のようなもの――。
 そこで肩を軽く叩かれて、僕は顔を起こしてイヤホンを耳から外した。
「お待たせ」
 そこに立っていた早紀先輩の姿を見て僕は息を呑んだ。
 先輩はその赤い髪の毛の色だとか、伊達先輩や男女を問わず友達と楽しそうに喋っている雰囲気からしてちょっと自分とは違う、遊んでる、という印象を抱いていた。だからもっと派手な服装で来るのではないかと思っていたのだけど、着ている物は意外とシンプルだった。水色の地に、僕から見て右から中央に線を描いて流れる青色の川とそこを泳ぐ鮮やかな赤い金魚をあしらったTシャツ。そしてデニム地の短パン。たったそれだけの服装なのに、そんな姿の先輩と一緒にいるのは慣れてなかったというか初めてだったので、自分の服装が場違いなんじゃないかと考えてしまった。
「富沢君の私服って初めて見た」と早紀先輩は言った。
「ああ、これ、買ってもらった服なんです」と僕は言った。「何だか先輩の服装と釣り合ってないっぽいですね」
「そうかな。富沢君らしくていいと思うよ」
「僕らしくって?」
「いつも寡黙っていうか、真面目そうな富沢君らしいっていうか」
 そう思われているんだろうか。そんなに喋らないタイプだと自分のことを思ったことはないけれど……と考えていたら、またエンジン音が聞こえてきた。先輩は歩き始め、ふと僕の方を見て言った。
「運賃だったら気にしなくていいよ。お金、結構持って来たから」
「いいんですか?」
「誘ったのはわたしだから」そう言って歩き出す。僕もそれについていく形になった。

 バスの乗客は僕らしかいない。僕らはバスの一番最後の席に座った。
「一回でいいからここに座ってみたかったんだよね」と先輩は言った。「一番最後の席からみんなを見るのって楽しそうだな、って」
 でも僕はやはりそれどころではないものを感じていた。伊達先輩のこと……それを言い出そうとした時、ふとある匂いが鼻をついた。ミントの匂いだ。
「ミントの匂いがしますね」と僕は言った。その匂いは先輩の方から漂ってくる。「香水ですか?」
「違うよ」と早紀先輩は言った。「制汗剤の匂い」
「性感帯?」
「……グーで殴っていい?」
「いや、そんなつもりはなかったです。すみません」
 早紀先輩はやっぱり顔を綻ばせて言った。「富沢君も意外と、普通に冗談言うんだね」
 先輩の中で僕がどういう位置づけなのか、それを聞いてまた考え込んでしまったのだけど、肝腎なことを問おうとしていたことを思い出して僕は言った。
 バスは走り出した。
 再後部の座席に僕と先輩は二人、隣り合って座っている。少なくとも制汗剤の匂いは感じられるように。だとすると……。
「いいんですか?」と僕は訊いた。
「何が?」
「伊達先輩のことです」
「伊達ちゃん? それがどうしたの?」
「いや、伊達先輩が知ったら怒るんじゃないかって。こうやって僕らが二人だけでくっついて座ったりしてるのを見たら」
「なんで伊達ちゃんが怒るの?」
「なんでって……」
 僕はバカにされているんだろうか? 何かを試されているんだろうか?
「伊達先輩と早紀先輩は、恋人同士ですよね?」
 喋っていると何だかあまりにも当たり前のことを確認しているようで、自分が何を言っているのかさえも分からなくなってくる。変な世界に迷い込んだみたいな気分で。でも、とにかく僕は続けた。
「早紀先輩には恋人がいるのに、伊達先輩の知らないところでこうやって二人きりでいると、その、誤解されてもおかしくないと思うんです」
「誤解って?」
 どう言葉を選べばいいのか分からない。
 先輩の向こうにある窓から、自分たちの乗っているバスが待合所を離れて本当に二人だけで遊びにいくために移動していることが窺えた。普段流れる景色は見慣れていて平凡に見えるのだけれど、こういう時は何だか自分たちがもう二度とここに戻って来れないんじゃないか、という気がしてくる。空想の風景で描いたのとは似ても似つかない、しかし太陽は確実に天高く上っている状況で舗装されたアスファルトの上を、街路樹越しにコンビニや銀行といった建物の立ち並んだ中を、バスは走っていく。
「その、早紀先輩と僕が恋人になったっていうか、こうやって私服で二人で遊んでいるところを誰かに見られたら、先輩は浮気してるとか思われるんじゃないかな、って」
「富沢君ってほんとに白と黒しか考えられないんだね」と早紀先輩は言った。「恋人はいても異性の友達と一緒に遊びに行くことって、そんなに珍しくないでしょ? 伊達ちゃんだって、親しい女友達とかいたりするんだよ?」
「でも……」
「だから、考え過ぎだって」
 先輩にそう言われると何だか誘惑されているような気分になった。いや、本当に誘惑しようとしてるんだろうか?
「でもですね、伊達先輩は硬派な人です。中学の時に僕が野球部にいた時も面倒見てもらってたし。色々お世話になったし……だから、先輩を裏切るようなことは、したくないんです」
 逡巡を断ち切るように言おうとしたら言葉尻が強くなってしまった。
 その言葉を聞いて早紀先輩は少し黙っていた。そして僕から視線を逸らし宙を見上げる。
「硬派、ね」
 先輩の中で何か複雑な考えが生じていることは分かった。だから僕はそれ以上は言わなかった。やはり伊達先輩を裏切ることは許せない、そう自分に言い聞かせながら。
 すると先輩は、間をおいてぽつんと言った。
「あいつ、硬派なんかじゃないよ」
 僕は言った。「何か、あったんですか?」
 すると早紀先輩は、答えた。

「ちっとも硬派なんかじゃないよ。あいつ、他に女作ってたの」

 僕は驚いてしまった。「マジですか!?」
「そう」
 それ以上事情を詮索した方がいいのかどうか戸惑っていると、先輩は呟いた。
「二週間前の日曜日なんだけど、わたし、伊達ちゃんのところにちょっと遊びに行ったの。珍しく伊達ちゃんは部活が休みの日だから、あいついるかな、って思って。その時携帯を家に忘れちゃって、でもまあ驚かせてやろうと思って連絡しないで行ったんだ。あいつ、家に鍵かけてなかったからそっと入ってみたら……」
「誰か女の子がいたんですか」
「いた。しかも、キスとかしてて」
「ほんとですか?」
 それは本当に衝撃の告白だった。
 仲良しな伊達先輩と早紀先輩の姿、早紀先輩の前で破願する伊達先輩の姿を見ていたら、先輩がまさか早紀先輩を裏切るようなことをするとはとても思えなかったのだ。
「もう頭の中、とんじゃって。時間が止まったかと思った。でもなんかね、不思議と怒る気持ちとか悲しい気持ちとか湧いてこなくって、ああ、わたし、伊達ちゃんに選んでもらえなかったんだな、って思って」
「結局、別れたんですか」
「あいつが硬派だっていうんだとしたら、変な言い訳をしなかったことぐらいは認めてやるかな」と早紀先輩は言った。「ブックオフの前のファミレスあるでしょ? あそこで夜中の一時ぐらいまで、色々事情を説明してもらって、伊達ちゃんに正式に『今まで本当に申し訳なかった、でも俺はお前よりあいつのことの方が好きなんだ』って言われて。そう言われると、もうどうしようもないよね? だから、伊達ちゃんは奢るって言ってくれたんだけど割り勘で払ってとっとと帰ったの。今から考えたら、水でもぶっかけてやれば良かったのかな」
 そうだったんですか、と僕は呟いた。
 そういうことが起こっているとは思ってもみなかった。
 ちょうど夏休みに入る時期で、先輩たちと顔を会わせる機会もなかったしその手の噂にあまり普段興味を持っていないこともあって、僕は何も知らないままいたわけだ。
 先輩は言った。
「そういうわけで、あいつから貰ったプレゼントとかほとんど全部友達にあげたり、後はオクで売ったの」
「億で売ったんですか?」
「そんなに高いプレゼントはくれなかったけどね」と先輩は笑った。「でも、それで少しお金が出来たから、だから今日はバス代も食事代も全部わたしが奢るから」
「いいんですか? 伊達先輩のこと」
 先輩の顔が険しくなった。「顔も見たくないよ、あんな奴」

 そこで、少し疑問に思ったことがあった。それは今朝先輩と顔を会わせた時のことだ。何かそこに、言い知れない違和感を感じた。矛盾した何かを感じる、というような。
 それが何だったか分かるのはもう少し後になってからのことだ。

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