『僕らは海に捨てに行った』(2)

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「それはそうと富沢君」と早紀先輩が言った。「さっき何聴いてたの?」
「ああ、これです」
 僕はそう言って鞄の中からMDウォークマンを取り出す。先輩が言った。
「iPodとか持ってないんだ?」
「お金ないから。これ兄貴のお下がりなんです」
「なんだったらわたし、買ってあげようか?」
「はい?」
「iPod」
「本当に一杯お金持ってるんですね」
 僕がそう言うと先輩は笑った。もちろんそれが冗談であることぐらいは僕にも分かった。
「先輩、平沢進って知ってます?」
「知らない」
「えっと、映画で『千年女優』とか『パプリカ』とかの音楽を手掛けた人なんですけど。見たことありますか?」
「ごめん、あんまり映画見ないから。有名な人なんだ?」
「まあ、マニアックな人なんですけど」と僕は言った。「東南アジアを舞台にした音楽を作ってる人で、TSUTAYAに行ったら置いてあったんで借りたんです。今気に入ってて」
「富沢君って結構音楽詳しいんだね。そう言えば伊達ちゃんも言ってた。中学の時は部活は強制入部だったから野球部に入ったけど、高校は帰宅部もありになったから野球じゃなくて自分のしたいことを一人でやりたいって……」
「はい、そう言ったら伊達さんも『じゃ、頑張れよ』って言ってくれて」
「あいつはそういうところ強制しないからね。着いてきたければ着いてくればいいけど、嫌だったらしょうがないって」
「ええ」
 伊達先輩が話に絡んでくると、早紀先輩はあまりいい思いをしないだろう。だから、実際に音楽を聴いてもらうために僕はイヤホンを片方渡した。先輩がそれを耳に挿し込む。
 『Sim City』を流す。
 音楽を聴いている間、人は無口になる。だから僕と早紀先輩も黙って音に耳を傾けた。早紀先輩は目を閉じていて、僕はそんな早紀先輩の姿を見ていた。首筋に生えている産毛や、水色のTシャツに包まれた肩のラインといったもの。下世話な話になるけれど、伊達先輩も早紀先輩とキスしたりしたんだろうか、とかそういったことを考えた。僕には与り知らない二人だけの記憶や思い出といったものがあって、それを先輩は全部売り払ってしまったんじゃないだろうか、と。
 ふと見ると、先輩は右手に指輪を嵌めていた。目を閉じているので僕の方を見ることはない。指輪は銀色のもので、表面は艶やかで模様は一切入っていない。
 この指輪もきっと伊達先輩から貰ったものなんだろう。
 考えてみれば、僕は女性に何か大きなプレゼントをしたとかいう経験はなかった。せいぜいバレンタインデーに貰ったチョコレートのお返しで缶入りのクッキーを買って渡したとか、その程度のことしかしていなかった。恋人がいたという経験もない。将来こんな風に誰かに指輪を渡す日が来るんだろうか、と考えてみたけれどそれはずっと遠くで起こる別の世界の出来事のように感じられた。
 僕は目を閉じた。夢想の世界の方がやはり居心地がいい。
 夜の世界を想像してみる。日本の東京のような都会では照り付ける陽光の熱をアスファルトが保存してしまうせいでヒートアイランド現象が起こってしまうのだけど、先ほどまで描いていた世界では舗装された地域はメインストリームだけで一歩路地を外れるとそこはむき出しになった土で覆われた世界だ。どこかから漏れ出てくる汚水がその土に混じって泥濘を作っている。自動販売機が街灯と相俟って夜でも明るい日本の路地とは違っていて、建物が規則的に作られているわけではないのでところどころ細くなったり広くなったりする隙間を注意しながら、身をぶつけないようにその路地へと入っていく。
 空を見上げるとそこには月が浮かんでいる。気のせいかそれは日本で見る月よりもずっと近くにあるように感じられる。この月と何かのイベントを絡めるのも面白いかもしれない。そこに先輩をモデルにしたあの少女を登場させる。あの少女はこの集落で夏季の満月の時期に、年に一度行われる祭における特殊な舞踊を舞う演者として選ばれている。少女は月の中で、薄手の白装束を纏って演舞を舞う。特別に作られた鏡の表面のように滑らかな芝生の上で、月から目を逸らすことなく回り続ける。まるで芝生の上を滑るように。それに呼応して周囲の木々の間に生息している野生の動物たちが唸り声を上げ、それが更に演舞を盛り上げる。彼女の力を必要としている組織と主人公の対決。そして、主人公と少女の間の諍い。少女はずっと演舞を見守っていた僕に向かって話しかける――。
 ふと目を開ける。
 バスはいつも僕たちが登校する時に降りるバス停に差し掛かろうとしている。普段姫路に行く時も、このバス停を降りた地点から近くにある鉄道の駅に向かって行くことになるのでここから先の地点は僕が今まで降りたこともない場所になる。先輩の様子を見る。まだ目を閉じて音楽に聞き入っている。それとも眠っているのだろうか。とても静かだ。
 本来ならここで降りるはずの場所。多分今ではみんな補習の授業を受けているのだろう。運動部の人間は午後からの練習も待っているはずで、相当にハードなスケジュールだと思ってそれをこなしている先輩のことを改めて凄いと思う。
「ここで降りないんですか?」
 ふと、そんな言葉を発してしまった。早紀先輩が目を開ける。
「目的地はもう少し向こうの方なんだけど」
「そうなんですか……」そう言えば目的地を聞いていなかった。
「降りたい?」
 そう訊かれて、言葉に詰まってしまう。
「今だったらみんなと合流出来ると思うけど」
「いや、無理です。だって私服姿だし」
 そう答えてはみたものの、補習を受けているみんなとは別行動を取っていることにはどこか不安が付き纏う。でも、今自分の身に起こっている出来事の方が大事なんだと思った。
「これ、面白いね」
 その言葉に我に返って、先輩の方を見る。
「あんまり音楽のことってよく分からないんだけど、この人の音楽、なんか結構面白い。感動しちゃった」
 本当にずっと音楽に聴き入っていたらしい。僕は言う。
「もしも良かったら、持ってるアルバム貸しますよ」
「本当? じゃまた今度会った時に貸してくれる?」
「いいですよ」
 冷房の効いたバスの中からであっても、既に日は高く昇っていることが分かる。さっきまで思い描いていた世界とはかけ離れた、底が見えるぐらいに浅く流れる川、空き缶や紙コップなんかがところどころに引っかかっている川岸の雑草、そしてバスの右側をすれ違う対向車といった日常的な風景がそこには広がっている。いつもだったら有り触れた風景として気にもしないそういう様々なものが妙に気になるのはきっと、早紀先輩が隣にいるからなんだろうな、と思う。
 そして、やっぱり着いてきたのは正解だったのかもしれない、と思った。

 その時はそう思った。
 そして、今でも正解だったんじゃないか、とは思っている。
 あんな出来事が起きたにせよ。

「それはそうと、一体どこに遊びに行くんですか?」
 そう尋ねると、先輩は言った。
「海」

 僕らはそのバスの最後のバス停で降りた。姫路の中心街からはちょっと離れた、ごくごく地味な住宅街だ。確かに海に近いといえば近い場所だった。
 それまで姫路といえばみゆき通りだとか姫路城に連なる中心街で本やCDを買ったり、ネットカフェや古本屋で時間を潰したりとかそういう過ごし方しかしていなかったので、そういう商店街からわずか外れた姫路の姿を見るのは実は初めてだった。自分が空想で思い描いているのと似ている、例えば舗装された道路は二車線で表面が塗り直されてうねっているアスファルトに僅かにひびが入っていたり、そこを外れた場所に今では懐かしい例えばボンカレーの看板があったり、ふと家々の隙間に目をやるとそこにどこかのお店の電話番号がこれもまた看板に大きく書かれていたり、縞模様の柄の毛を纏った猫が座っていて生々しい生活感に満ちていた。
 こういう風景もメモしておかないといけないな、と思った。この町の生活感を、自分が思い描いていた夢想の風景とオーバーラップさせる。舞台は出来上がる。あとはプロットだけだ。
「お腹空いてない?」と早紀先輩は言った。
 僕は言った。「そういえば、もうお昼ですね」
「お昼奢るけど、パスタって好き?」
「大好きです」
 先輩はふふっと笑って言った。
「良かった。この近くに、美味しいお店があるんだけど一緒に行かない?」
「行きます」
「じゃ、ついてきて」
 先輩はそう言うと歩き始める。僕がそれを追う形になった。
 足取りには全然迷いがない。もちろんこのあたりには先輩は何度も来たことがあるのだろう。道路を歩きながら、先輩の頭の脇で揺れているツインテールを眺める。こうやって歩いていると、本当にどこか謎めいたところに案内されているような気がする。この感情をきちんと覚えておこう。僕はそう思っていた。

 十分ほどそうして歩いて着いたのが、その美味しいパスタの店だった。外装はそれほど目立たない、屋根は緑色に塗られていて白塗りの壁と「田」の字の窓枠にはめ込まれたガラスが透き通って見える、そんな店だった。玄関には一メートル四方の黒板が置かれていて、そこに手書きでお薦めののメニューが記されている。僕が知っているパスタの店は大体フォークがスパゲッティを巻き取ったまま空中で浮いているという、そんな見本に代表される店だったので改めて奢ってもらってもいいものだろうかと考えてしまった。一応僕も、それなりにお金は持ってきていた。
 先輩に続いて中に入る。店内はそれほど広くなかった。入り口脇に階段がある。二階にも席はあるのだろう。一階にはカウンター席と、二人ずつ両側に座れる席が五つ。客が何人か既に入っていたけれど僕らの座れる席はあった。入り口に背を向ける形で僕が座り、その向こう側に早紀先輩が座った。木目が鮮やかな天板のテーブルに座って、僕は普通のミートソース・スパゲッティを頼んだ。先輩はボンゴレ・スパゲッティだ。
 天井を見ると三つの羽を持つシーリングファンが優雅に回って店内の空気を循環させていた。こういう雰囲気も自分にとっては慣れないものだった。
 僕は訊いた。「よく来るんですか? このお店」
「時々伊達ちゃんと二人で来てたの」と早紀先輩は言った。「もともとは伊達ちゃんの紹介なんだけどね。この辺にうちの学校とよく交流試合をする学校があって、その学校の野球部の友達に教えてもらったらしくて。伊達ちゃんもパスタは好きだから、ここで食べて以来二人でちょくちょく食べに来るようになったの。ここから姫路までそんなに離れてないから、映画とか観た帰りなんかに寄ったりして」
 僕は伊達先輩が早紀先輩とこのレストランで昼食を食べている光景を想像してみた。今日だけで随分二人の知らない部分を知ったような気がした。目の前の早紀先輩は机に肘をついて、ぼんやりと外を眺めている。指先に光る指輪を改めて見た。

「その指輪も伊達先輩に貰ったんですか?」と僕は言った。
「ああ、これ?」と早紀先輩は言った。「そう。これも伊達ちゃんから貰った。でも、今日で捨てるつもり」
 僕は驚いた。「捨てるんですか?」
「ていうか、今日はこれを捨てに来たの。もうちょっと歩いたら……」

 そこで二階から男たちが降りてきた。
 早紀先輩の表情が変わる。「大村君じゃん!」
「早紀ちゃん? こっち来てたんだ」
 階段の方を見る。背の高い二人組の男がこちらを見ていた。一人が無地の黄色いTシャツ姿で、髪型は軽い天然パーマ。後から入ってきたもう一人は青く線が縦に等間隔に入ったシャツを着ている。わずかに赤く染まった短髪だ。
「藤田君も一緒なんだ。どうしたの?」
「いや、今日神戸でオフ会があるのよ」と片方が言った。短髪の、藤田という男の方だ。「十代限定だからアルコール無しなんだけど」
 早紀先輩が返す。「絶対飲んじゃダメだよ。監督に怒られるからね」
 大村という男の方が言った。「飲まない飲まない。不祥事起こしたら推薦取り消しだし、後輩に迷惑かけるわけにもいかないから」
「よろしい」
 そう言って早紀先輩は微笑んだ。

 藤田という男の方が言う。「そう言えば、知ってる? 早紀ちゃん」
「何?」
「伊達ね。あいつ、ふられたんだよ」
「マジですか!?」

 そう言ってしまったのは僕だった。相手の二人が驚いて僕の方を見る。
「あ、この子ね伊達君の後輩の富沢君。野球部員じゃないけど」
 大村が言う。「何? 新しい彼氏?」
 早紀先輩が返す。「そうそう」
「いえ、全然違います」
「富沢君って年下ですっごく礼儀正しくてお洒落なんだよ。伊達ちゃんとは大違い」
 藤田が言う。「マジかよ。伊達が聞いたら泣くぞ」
 大村が言う。「あいつ、やり直したいんだけどどうしたらいいんだろうって、夜中に長文でメール送ってきたの」
「てか、お前、これって伊達に内緒にしてくれって言われてたんじゃなかったっけ」
「そうだったな」と言って大村が笑う。「でもまあ、いずれ伝わる話だし早めに伝えておいた方があいつのために良くね?」
 早紀先輩が言った。「ありがとね。教えてくれて」
 藤田が言った。「伊達ちゃんに伝えとくわ。新しい彼氏が出来たって」
「いえ、全然そうじゃないんで……」
「これ、内緒にしておいてくれる?」と早紀先輩が言った。
「大丈夫、内緒にしとくから」
「ありがと。オフ会頑張ってね」
「おう、行ってくるわ。じゃ!」
 そう言い残して二人は支払いを済ませて出て行った。

 伊達先輩がふられたという話。それについて考えていると早紀先輩は言った。
「心配しなくていいから」
「え?」
「どうせあいつら、今日のこと伊達ちゃんに話すと思うんだ」
「でもさっき先輩に、内緒にしておくって言って……」
 早紀先輩の表情が険しくなった。「信用出来ると思う? あの二人」
 そう言われて僕は黙ってしまった。
「富沢君にだけは迷惑かからないように、伊達ちゃんには伝えるから。だから、気にしないで」

 そう言われて、ふとバスの中の会話を思い出した。
 バスの中ではあんな話になったけど。
 でも、やっぱり二人でいると誤解されるってことなんじゃないのか、と。

 海は本当にすぐ近くにあった。
 路地を抜けたところに、海沿いに走る道路があった。そこから防波堤になっていて、テトラポッドがその防波堤を越えたところに並んでいる。瀬戸内海だ。向こうにもしかしたら淡路島が見えるかもしれない、と思って見てみるけれど、何も見えない。水平線が澄んだ青空と海の間に真っ直ぐに境界を作っていた。
 海自体は濃い緑色。昆布のような、もしくは苔のような色だ。寄せては返す波がテトラポッドや防波堤の壁に砕けて、水の跳ねるささやかな音が聴こえてくる。子供の頃に一度潮干狩りで海に来たことを思い出した。あさりやマテ貝を砂の中から取り出した思い出。
 それ以来海に来ることなんて無かった。だから来ようと思えばこんなに近くに海があったのかと驚いてしまった。もちろん姫路市の南端は海に接しているからその気になれば来ることは出来たのだろうけれど。
 防波堤沿いに僕と早紀先輩は歩いていった。時間はもう午後に差し掛かっている。日が高い。僕はハンカチをポケットから取り出してこめかみや首筋の汗を拭った。早紀先輩は相変わらずツインテールを揺らしながら歩いていく。やっぱり足取りに迷いはなかった。時折通り過ぎていく車が立てる風が少し涼しいような、そんな気がした。
 こういう海の光景も小説の材料に入れてもいいのかもしれないな、と思っていた。南国の海といえば透き通った蒼い海なのだろうか。実際に外国に行ったことがないのでこれもまた自分の頭の中で広がる夢想の海だ。砂浜で遊んでいる、破れたシャツとパンツを纏った子供たち。目に眩しいほど白く照り返す砂浜。そこから見えるのはやっぱり水平線だ。港町のイメージも加えてみたい。かたかたと回るエンジン音と、そのエンジンと波によって揺らぐ船。浜辺にもずっと昔に転覆したまま朽ちている船が黒い木肌を剥き出しにしたまま転がっている。港から船に乗り、木で出来ている甲板の上に座り込んで酔わないように気を遣いながら、空を見上げる。そこには白い鳥が何羽か飛んでいてその啼き声が聞こえる。頬を撫でる風にはやはり潮の匂いがするのだろうか。スモッグに汚染されていない空はとても綺麗だ。どこに焦点を結んでいいかもわからないぐらい広大な空、聞こえてくる異国語のリズム、ほんの一時の安らぎ。
 僕と先輩が着いたのは、防波堤に空けられた隙間から続いていく浜辺だった。現実の浜辺は白というよりはベージュにも似た色だ。少し湿り気を帯びているのか表面が流れることはない。足を踏み入れると確かに土の感触がある。海水浴や潮干狩りといったような大袈裟な行事向きの砂浜とは違う、他の場所はテトラポッドなどで強固に波から陸地を守っているけれど誰かがプライベートな目的のために残しておいてくれたような、そんな砂浜だ。ちょうど真ん中まで来た時点で、先輩は僕の方を振り向いて言った。
「ここが、目的地」
 目的といえば……。
「ここで捨てるんですか?」
「そう。伊達ちゃんからこの浜辺でプレゼントしてもらったから」
 先輩は指から指輪を取り出して、そして言った。
「この指輪をここに捨てて、それで後は姫路に行って買い物して、それで帰る。付き合わせちゃったお礼に、富沢君にも何か買ってあげるよ。何がいい? 洋服? それとも……」
「いいんですか、それで」と僕は言った。
「いいんですかって……いいよ。もうこの指輪要らない」
「いや、指輪のこともあるけど、伊達先輩のこととか、それでいいんですか? 顔も見たくないって、そのまま別れて」
「急にどうしたの?」
 早紀先輩の顔が曇る。僕の中にあった違和感が少しずつ言葉として出始めてきた。
「いいに決まってるでしょ? あいつ、浮気したんだよ?」
「でも、伊達先輩やっぱり早紀先輩のことが好きだって分かったわけじゃないですか」
「一度浮気しておいてよりを戻したいなんて、虫が良すぎると思わない?」
「でも、早紀先輩もやっぱりよりを戻したいんじゃないんですか?」

 先輩の声のトーンが下がった。「どういう意味?」
 僕は切り出した。
「ずっと気になってたんです。今日、先輩制服姿で来ましたよね」

「それがどうかしたの?」と早紀先輩は言った。
「どうして制服姿だったんですか?」
「どうしてって……登校するために決まってるでしょ?」
「早紀先輩は、伊達先輩が朝練でもう学校に行ってること知ってましたね?」
「だから、それがどうかしたの?」
「伊達先輩と会いたくないんだったら、学校自体サボればいいじゃないですか」
「だから、サボったわけでしょ? こうして二人でさ――」
「でも、一旦は行く気になった。だから制服を着てきた。朝ごはんも食べた」
「そうよ。それがどうかしたの? 伊達ちゃんと顔を会わせたくなくても、学校って行かなきゃいけない場所でしょ? 富沢君って本当に白と黒しか――」
「本当に行きたい気持ちになっていたら、先輩だってもっと急いでいたはずです。朝」
「急いでたよ?」
「急いでなかった。先輩は普通に遅れて歩いて来ました」
「それは、もう遅刻確定だなと思って諦めて――」
「先輩は伊達先輩に会いたくないと言った。でも実は、会いたいとも思っていた。だから、迷った。それで遅れて歩いてきたんじゃないかなと思ったんです。それで、僕を誘ったのだって、自分が伊達さんに未練があるのかどうか確かめようとしてたんじゃないかって」
 僕がそう言うと、先輩は黙ってしまった。
 僕と先輩の間の距離を近づける。
「その指輪にしたってそうです。僕が先輩の立場だったら、本当に伊達さんが嫌いだったら、その指輪から真っ先に処分します。その指輪をまずオクで売ります」
「あのさあ」と早紀先輩は声を荒げた。「これ、わたしの名前入ってるんだよ? そんな指輪売れるわけないでしょ?」
「嘘です。さっき表面を見たけれど名前なんか入ってないです」
「ちょっとさ――」
「僕は早紀先輩と伊達さんが泥沼の関係になるのは望まないです。でも、もしも早紀先輩に未練があるんだったら、もう一度自分に正直になって――」

 そこで、衝撃が走った。頬を張られたのだ。
 痛みを堪えて先輩の方を見た。先輩はこちらを睨んでいた。そして、叫んだ。

「分かったようなことを、言うなッ!!」

 僕は黙ってしまった。すると、先輩は静かに言った。
「この指輪、名前が彫ってあるの。見てみる?」
 そして指輪を僕に手渡した。
「でも表面には何も――」
「裏っ側に彫ってあるの!! 見てみなさい!!」
 手渡された指輪を見た時、僕は自分が途方もない思い違いをしていたことに気付かされた。確かに名前は彫られていた。SAKIと、四文字――。
「……すみません」
「こんなの……常識だよ? そんなのも分かんない奴が偉そうに説教かよ!!」
 先輩の声のトーンが変わった。よく見ると先輩は泣いていた。
「ちょっと、付き合いなさい」
 そうして、入って来た方向に再び足を戻す、砂浜から出る気だ。
「あの、一体どこに……」
「黙って付いて来なさい!! 先輩命令!!」
 そう言われて、僕は改めて胸が痛くなった。
 自分はやってはいけないことをやってしまったのだ、と――。

 先輩が行った先は酒屋だった。自動販売機に闇雲に札束と小銭を入れて、そして発泡酒を取り出す。もちろん二人とも未成年だし、先輩のやっていることは無謀だった。でも、それについては何も言えなかった。
 500mlの缶を両手に抱えて、先輩は再び浜辺に戻った。そして、僕の方に缶を一つ押し付けてそして言った。
「飲みなさい」
「いや、でも……」
「先輩命令」
「分かりました」
 そう言って缶を開ける。発泡酒なんて普段は飲まないからどんな味がするのかと思って、開いた口から少し舐めてみたけれど、舌を麻痺させるぐらい冷たくて苦い味が口の中に広がった。思わず顔を顰める。
 先輩は慣れた手つきで缶を開け、そこから一気に呷る。発泡酒を飲むのはこれが初めてではないのだろう。もしかしたら伊達先輩と一緒に飲んだのかもしれない。いや、伊達先輩はそういうことを許すようなことはないだろう。不祥事ということもあるだろうけれど、お互いの体を心配して……そこまで考え込んでいた時、先輩は短パンのポケットから煙草とライターを取り出して、それを吸い始めた。豹変した先輩の冷淡な表情は、朝に出会った時よりも遥かに大人びていた。これなら未成年だってバレることもないのかもしれない。
「ほんと言うとね」と早紀先輩は静かに言った。「待合所に来る話までは正解」
「え?」
「富沢君の言ったこと」
 そう言って先輩は、深々と吸い込んだ煙を吐き出した。
「あいつに会うのも気まずいけど、会わないと伊達ちゃん、わたしに対して逆に気を遣うんじゃないかなって思って。で、一応家は出てみたけどどうしようかなって迷って、そこで富沢君を見て、誘った。ここまでは正解」
 僕は黙って発泡酒を一口飲んだ。やっぱり飲み慣れない苦味が口の中に広がる。ただ、嚥下した分は食道と胃壁を焼いたように熱く身体の中に入っていく。心なしか、頭が重くなってきたように感じられた。
「でも、富沢君を誘ったのは別に理由なんてないのよ。ただ伊達ちゃんから富沢君のこと色々聞いて、何か面白そうな子だから一緒に遊びに行きたいなって思った。それだけ」
 そこで僕の方は怒るべきだったのかもしれない。でも、そんな気にはなれなかった。暴言を吐いてしまったこともあったけれど、結局先輩と過ごした時間は楽しかったから。
 それに、パスタも美味しかったから。
 不意に先輩が立ち上がった。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
 そうして僕は残された。先輩は既に二つ目の缶を空っぽにしていた。僕も最初の缶を空にして、手で握りつぶす。そうして先輩の飲んだ缶も同じように潰そうと拾い上げてみたら、うっすらと口紅がついていた。あるいは目の錯覚でそう見えたのかもしれない。
 先輩が戻ってこないのを確かめて、僕はその口紅の痕に自分の口紅を重ねた。
 相変わらず慣れることが出来ない発泡酒特有の苦味を確かめながら――。

 眠りこけている先輩を、軽く頬を叩いて起こす。エンジン音が止むことはない。
「先輩、起きて下さい。終点です」
 運転手が迷惑だという表情で、鏡越しにこちらを見ている。先輩は軽い唸り声をあげて、そのまま体を捩る。しかしやがて目を覚まして、そして立ち上がった。そして財布を探して、そこから運賃を出してくれた。その運賃を僕は運転手に渡した。
「子供がいっちょ前に酒なんか飲んだらいかんな」と運転手は言った。その言葉に追い出されるように、僕らは待合所のベンチまで移動した。バスは再びロータリーまで移動する。やや呂律が回らない舌で早紀先輩は言った。
「富沢君って結構お酒強いんだね」
「そうなのかな」と僕は言った。「飲んだことなかったんで、分かんないです」
 姫路の街まで移動した時はかなり千鳥足だったのだけど、それと比べると酔いは少し醒めたようだ。じっとりと汗ばんだTシャツから漂ってくるのは汗の匂い、そしてそのTシャツに零してしまった発泡酒特有の甘ったるい匂いだった。僕の方も汗ばんでいたので、ポケットから改めてハンカチを取り出して汗を拭った。
「わたしが飲めなかった分まで飲んでくれたじゃない」
「え? そうだったんですか?」
 そう言うと、先輩は呆れたように言った。
「富沢君って、本当に自分のことが分かってないね」
 何気ない言葉なんだろう、と思った。でも、その言葉は今でも心に残っている。

 先輩はまだ足がふらついて自転車に乗れない状態だったので、二人で自分の自転車を押しながら先輩の家まで歩いていった。先輩が言った。
「ありがとうね」
「いえこちらこそ。御馳走までしてもらってありがとうございました。あのパスタ、美味しかったです」
 それに応えて微笑む先輩の顔は、いつもの顔に戻っていた。

 先輩の姿が消えた後、僕はメモ帳を近所のコンビニのゴミ箱に捨てた。
 帰宅した僕はその日両親に厳しく説教されたのだけど、それはまた別の話だ。
 僕はそれ以来しばらく、小説を書くのを止めた。

 早紀先輩と伊達先輩はその後よりを戻したようだけど、卒業後の進路は別々になってしまった。今ではどうなっているのか分からない。
 今でも帰省すると、時間がある時僕はバスに乗ってあの町で降りて、あの店でパスタを食べることがある。僕らは変わっていくがパスタの味は相変わらず美味しいことにいつも驚かされながら。
 変わるものもあれば変わらないものもある。

了    

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