『謡東の夜』(2)
朱色の通りを歩いていると、カートを引きずる音の向こう側でも、音楽が鮮明に聞こえてくるのがわかった。らん、たらん、たららん、ららら。よく聞けば同じメロディが幾度となく繰り返されている。
どこまで続くのかもわからないこの朱い通りを歩いていると、昔、随分と昔、この音楽を聴いたことがあるような気がしてきた。何か妙に懐かしいようなせつないような感じがする。脳の奥がざわつくような嫌な既視感。
音楽に混じって、
りん……。
何か違う、弱弱しいしかし澄んだ音が聞こえた、気がした。それを合図にするかのように、音楽のテンポが徐々に落ちて行く。らん、たらん、たらら、らん、ら、ら……。
わたしはふと立ち止まる。
どこまで続くともしれない朱色の間に、唐突に、空色が見えたのだ。
屋台だった。全体がペンキで、目に痛い程の空色に塗られている。
そこから男がひょっこりと顔を出し、わたしに向かって微笑んだ。
「やあ、……こんにちは」
柔らかな声だった。
「こん……にちは」
答えるわたしの声は、意図したよりもか細いものだった。
これは何なのだろう。
好奇心が少しに不気味さが半分。そして見慣れない通りに足を踏み入れた後悔と、ざわつく不安も少し混ざった気分で、男に近寄って行く。
「いらっしゃい」
橙色に日焼けした腕を組んで、男は言う。
ちりん、りりん……。とまた音が鳴る。店頭にいくつか吊り下げられた、大小のまるい風鈴が、色とりどりの短冊をくるくると揺らしながら音を立てているのだ。
その下にはいくつもの金魚鉢が、ちょうど風鈴をさかさまにしたような按配で並んでいた。波打つ縁が青いものや、紅いものや、黄色いものまである。どれにも二匹か三匹の金魚が入れられていた。朱色に金色を薄く振りかけたうろこに、揺らめく尾鰭が実に美しい。
鳴り響く音楽のほうはいっそうテンポが落ちてきて、今にも途切れてしまいそうな様子だったが、じゃん、じゃらんと、地を踏みしめるように続いて行く。……と、そこへ急に、流れるようなメロディが曲に割り込んで来る。
「ここは……硝子ものの店ですか」
音楽と目の前の品物とに、半分酔っ払ったような気分で、わたしは問う。
「今はね」男はにこやかに答えた。「昨日は時計を売ったし、一昨日は版画を売っていた。その日の天気を見て決めるんだ」
わたしは思わず、男の顔をまじまじと見てしまった。
褐色の目は真っ直ぐにわたしを見ていて、ちゃんと正気の光が宿っているように見える。しかし、この橙色の肌に彫りの深い顔立ちはとても日本人には見えない。古い夢に出てきたマレー人に似ているような気がして、わたしはいささか混乱してしまう。
幼い頃、夢と現実の区別もよく付かないわたしは、マレー人は橙色の肌をしていると信じ込んでいた。その話をすると、母はまるで人種差別主義者に対するようなヒステリックな声でわたしをしかりつけたものだ。
「……あんた……」
男のほうもまじまじとわたしを見つめ、軽く首を傾げるようにして、
「昔、ここに住んでたよね。よくお母さんと来てくれたよね」
「は?」
わたしのほうは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「……まさか。人違いだよ」思わず笑った。「僕はずっと東京に居たよ」
すると彼は目を丸くして、
「そんなはずない、昔ここで金魚を買って行ってくれたろう、お母さんと一緒に」
瞬間、脳裏にぴしゃりと赤色が跳ねた。
「ああ、それは……」
それは、違う。
母親が死んだずっと後、わたしが成人してからの出来事だ。妻と二人で、初めて謡東に来た時に金魚を買ったのだ。
その時は夏で、祭りが開かれていた。橋を渡る前、広場に出ていた露店で買った……否……橋を渡った後だったろうか? 謡東全体を挙げた盛大な夏祭りだった。町のすべての地区に提灯が吊り下げられ、家々の壁が朱色に染まっていたのを思い出す。店先にずらり並んだ金魚鉢に、川辺で打ち上げられる花火がきらきらと、映っては消えた。その奥に見える小さな金魚を覗き込み、妻は「かわいい」と言って微笑んだ。ゆらゆらと泳ぐ金魚。幼いわたしのちょうど目の前で、優雅に広がるその尾鰭は、ほとんど宝石か何かのようだった。わたしは母親の着物の袖を、何度も引っ張ってせがんだ……ねえ、お母さん、いいでしょう? ちゃんと世話するから。自分で、世話をするから。
あの金魚は、小さなビニール袋に入れてもらった。露店の男はサービスだと言って金魚鉢も一緒に付けてくれた。
しかしその夜に妻が大変な癇癪を起こして、鉢をひっくり返して魚を踏み潰してしまったのだ。だん、だん、だん。足袋が畳を踏み鳴らす音にわたしは泣いた、わあわあと泣き叫んだ。かあさん、お母さん、どうして、どうしてそんなことをするの……?
彼女は情緒に多少の問題を抱えていたのだ。
「違ってないだろう?」
男は大きな目を丸くして、人の良い笑みを浮かべてわたしの顔を覗き込む。
「いや……」
確かに金魚は、以前謡東に来た時に買ったものだ、しかし踏み潰されてしまったのだ……畳の上の、ただの赤い染みになり果ててしまった……いくら布で拭いても取れやしなかったのだ。あんなに大切に思っていたのに……ずっと自分で飼ってだいじにそだてようとおもっていたのに……。
先程からずっと聞こえているこの音楽はガムランというのだと、男は説明してくれた。
わたしたちは二人、並んで朱色の通りを歩いてゆく。男は露店を引っ張って、わたしはカートに括りつけた革のトランクを引っ張って。
これは随分長いこと使ってきたトランクなので、すっかり黒ずんでいる。これで砂にまみれてしまうに違いないが、特に構わなかった。今度の旅行を最後に捨てるつもりだったのである。
「僕らの国の伝統音楽だよ」
「はあ……」
名前と存在くらいはものの本で読むなりして知っていたが、しかし実物を聴くのは初めてのことである。
「この時間は練習中。子供らに教えなきゃいけないんだよね」
とすれば、食堂の老女が言っていたことは本当だったということか。彼らは香坂重允が謡東に連れて戻ってきた東インドの住民、今は海の底に沈んでしまった島に居た人々の末裔なのか。
現実感を抜き取られてしまったかのような、何とも妙な気分である。しかし不思議と恐ろしくはない。
「ガムランの楽器と音楽はひとつの村にひとつずつある。村が失われれば音楽がひとつ滅びる。音楽が滅びれば村がひとつ消える」
「それはいわば連帯の問題でしょうかね」
「そうだろうね」
男は頷く。
「だから次の世代へ伝えなくちゃならない。僕らから子供達へ、子供達からは彼らの子供達へ」
わたしたちが歩くのに合わせて、風鈴がきらきらと音を立てる。
「長老は、あと数百年もすれば島はすっかり沈んでしまうだろうって予言した。コウサカと僕らの祖先はすごく良い関係を築いていて、もともと若い連中は彼について日本へ渡ろうと思っていたらしいし、だったら村ごと移動してしまおうってわけで、ここに移ってくることにしたんだ」
「この地区の壁がすべて朱色なのには何か意味があるんですか」
「さあね。町の住人は僕らのことを不気味がっていたから。コウサカが死んだずっと後に、誰かが夜中にこの地区に入ってきて……嫌がらせのつもりだろうけど、壁を塗って行ったんだ。ここは他とは違うんだ、って意味なんじゃないかと思う。ここは謡東であって謡東でないと」
「それにしては随分と綺麗な色の気がしますがね」
「そうだね。本当のところは、僕もよく知らない」
不意に血の匂いが鼻をつき、わたしは我に返る。
個々の住宅の違いがわからないこの地区の中で、明らかに廃屋とわかる家があった。窓と扉が板でふさがれ、瓦は崩れ、屋根に穴が開いている。
果実の底、腐りはじめた場所。ふとそんな連想をし、何か奇妙に駆り立てられるような気分におそわれたわたしは、ふらりとその場所へ近づいて行く。
「止めたほうがいいと思うけど……」
妙にのんびりとした制止の声を背に、わたしは窓へと歩み寄る。
天井の穴から光が、暗い屋内へ筋になって射し込んでいる。その向こうで、何だろうか、グロテスクな様子でぞわぞわと動く影。
それは服を着ていないままに絡み合う男と女であり、わたしは慌てて立ち去ろうとしたが、しかし彼らの顔にはどこか見覚えがあった。次の瞬間、女は彼女の顔をして、男がわたし自身の顔をしていることに気がついてしまうと、意識がすうっとおかしくなった。
彼女はわたしの裸の背中に指を這わせる。わたしは彼女の喉元に舌を這わせる、それは確かにわたしの昔の記憶であり……場所が廃屋の中であることまで……彼女がいったい誰なのか、妻なのか母なのか、どういうわけかわたしにはさっぱりわからない。背筋が寒くなる。まさか。あの時点で母は死んでいたはずなのに、そこに、記憶の中に、目の前に、いるのは母の顔をした妻の顔をした彼女だ。
くらりと身体が傾いた。
「大丈夫?」
男が言う。
膝が折れる。
たたらを踏んで道路上に倒れこむと、ひどく生臭いにおいがすっと鼻をついた。カートに括りつけられた、くたびれた革のトランクがすぐそばにあった。
「ああ……」
ほとんど呆然とした状態で、細かな傷に覆われた、その表面を撫でる。
全体に丸みを帯びたフォルムの、ずんぐりとした大きなトランク。
これも父親の形見だ。母が死んで、家を出る時に一緒に持ってきたもの。
いや、それとも結婚する少し前、妻と一緒に東京の革製品店に出かけた時に、買い求めたものだったか。
脳を麻痺させるような腐臭が漂う。
ああ、もう、どうでもいい。考えなくてもいいのだ、もはやどちらでも構わない……。
「……大丈夫、ですよ」
わたしは顔を上げ、呟いた。そこには誰も居ない。ただ重々しい曇り空が見えるだけだ。
きんきんと、耳鳴りがする。
いつのまにかガムランの音色も、風鈴の音も露店も、朱色の壁も、男も古い廃屋もすべて霧散していた。ただわたしだけがひとり、トランクに片手を添え両脚を力なく伸ばして、坂道の真ん中にだらしもなくへたりこんでいるのだ。
三階建てのその宿は六角形の筒型をしていて、全体に中国風の見た目だったが、しかし正面の門だけは明らかに日本の様式である。松の並ぶ通りを挟んでみると、やはり周囲の景色から浮いているのがわかる。もっとも、今わたしが背にしているこのコンビニエンスストアも、謡東の全体に古びた町並みを思えば、相当に異質な存在ではあるのだろうが。
あの奇っ怪な建物、もともとは、謡東に生まれて東京で成功を収めた実業家が晩年になって帰郷し、別荘として友人の建築家と共に設計したものと聞く。ただしこの建築物は彼が生きているうちに完成することなく、結局は他所から来た別の実業家の手に渡り、紆余曲折を経て旅館として活用されている。
信号が青に変わり、わたしはトランクと一緒に足も引きずるようにして通りを渡った。
正直なところ、焦っていた。もっと急ぐべきなのかもしれない。恐ろしい。何が起こるか恐ろしい。これ以上これを持っていては。
呪われるとはこういうことなのかもしれなかった。もう、早く自由になってしまいたい。それに滞在が長ければ長い程、邪魔が入る可能性も高まるだろう。
それでも、わたしはそのままトランクを引いて、宿へ向かった。さすがに、重い疲労感が辛かった。とにかく休みたかったのである。
宿の中の様式はもう、まったく統一性がない。玄関にはあかあかと炎を灯す大きな暖炉(明らかに、空調が入っていたが)とアンティーク調のソファが二つあり、花柄の壁紙とも相まってまるきり西洋の居間である。かと思うと、壁にかかったタピストリなどはどう見てもヨーロッパの様式とは異なる。その辺りの分類についてはあまり明るくない。以前はここに中国風の、装飾の施された巨大な花瓶が据え付けられていた。
わたしはフロントで部屋が空いているかどうか尋ねた。こんな季節外れの時期に空いていないはずもなかった。宿帳に白木という名前、それから、かつての実家で今は道路になっている住所を書きつけていると、視界の隅で二人の女性の従業員が、何やら眉を顰めてひそひそと言葉を交し合っているのが見えた。
彼女らは藤色の和服を着ている。
宿泊の手続きが済むとそのうちの一人が静かにやってきた。
「お荷物をお持ちしましょう」
そう言って、彼女はわたしからトランクを奪おうとする。わたしはとっさにカートを庇って彼女の前に立ち、
「いえ、止めて下さい。自分で持てます」
言ってから、しまったと思う。これではいささか攻撃的にすぎたろうか。案の定彼女はかすかに怪訝そうな表情を浮かべ、ではこちらへどうぞ、と歩き出す。
部屋は通りに面しており、二階だった。あまり広くない階段をトランクを抱え込むようにして難儀そうに上って行くわたしを、階上から見下ろす従業員はほとんど怒ったような顔をしていた。
部屋は扇形をしており、それだけを除けばごく普通の和室である。ごゆっくりどうぞ、といささか硬い声の台詞を残して従業員が去って行くと、わたしは部屋の真ん中にトランクを置いた。
それからコートとマフラーを脱ぎ捨てると、急にひどい脱力感を覚え、そのまま畳の上に、崩れるように倒れてしまった。
淡い若草色に彩色された障子の、少し開いた隙間から、外では再び雪が降り始めていることがわかった。無数の羽毛の降りしきっているような様子で、このまま夜半まで止まなければ、きっと積もるだろうと思った。
そして夢を見た。現実よりもひとまわり小さなトランクを抱えて、わたしは歩く。夜。空には満月が輝いている。遠く遠くほんのりと青みを帯びている。真っ直ぐに伸びる道は月光を受けて淡く光っているように見える。雪。足を踏み出す度に踝まで沈むが、不思議と冷たいとも、歩き難いとも思わない。両側に立ち並ぶ家屋の、外壁にはずっと先まで長い長い鯨幕が渡してある。黒と白の列。音のない、しかし強い風を受けてはためく幕の下からは、鮮やかな朱色が覗く。
道の隅で、立ち話をしている人たちが居る。誰も皆一様に喪服姿で、目鼻のはっきりしない青白い顔をつき合わせて、ぽつりぽつりと言葉を交わす。まるで間近で囁かれているかのように、それは逐一わたしの耳に届いてくる。
「ちいさいこどもがいるというのに」
「つまとひとりむすこをのこして」
「ねえ」
「あんなさけびたりのおとこなんか」
「ろくでなしをだんなにしちまったばっかりに」
男の声女の声。
「しかしいいおかあさんだったのに」
「うつくしくておとなしい」
「あたまもよくてやさしくて」
「そう」
声。
「これからどうするんだい」
「ええおじさんのところにいくことになりました」
「ああそれがいいそれがいい」
「あのひとならしんぱいない──」
果てしない囁きをかき分けて行くうちに、やがて屋根の落ちた廃屋が見えてくる。そこだけ鯨幕が途切れて、崩れかけた朱色の壁があらわになっている。歪んだ引き戸の枠が、ぽっかりと暗闇を湛えてたたずんでいる。血。錆びたようなにおいがする。
廃屋の前では風鈴と金魚鉢を満載した屋台が、雪に半ばうずもれたようになっていた。風に煽られて風鈴は暴れ、ちりちりとでたらめにぶつかり合って音を立てる。そのうちのひとつがわたしの目の前で、ぴし、と砕けて落ちた。鉢はほとんどが倒れて、いくらかは割れて、雪上には真っ赤な死んだ金魚が散乱している。
あのマレー人はどうしたろうか。謡東を出て行ったのか。それとも死んでしまったのか。
死。
両手のひらにひとの首を締める感覚がよみがえる。それで彼女が思ったよりも抵抗したものだから、わたしは刃物を使うしかなかった。思ったとおりに彼女の血は綺麗な朱色をしていた。白い肌によく映える美しい色だった。そうやってモノと化した彼女を謡東へ持ってくるのに、全体はどう折りたたんでもトランクには入らなかった。仕方がないので浴室に連れてゆき、頭部だけを切断して持ってきた。苦しんだはずなのに、苦しんで死ぬようにしたはずなのに、どうしてかその顔は眠っているように静かで、いつものように美しかった。
わたしは泣いた。冬の空気に晒された両頬に、音も立てず流れた涙は、はじめのうちは暖かく、すぐに凍り付く程冷たくなった。
廃屋に足を踏み入れると、蝋燭を持った学生服姿の少年が、ぱっ、と振り向いた。
「やあ」
わたしは出来るだけ柔らかな声を作って話しかける。
「君もここに居たのか」
少年は澄んだ、しかしありありと警戒心を滲ませた目でわたしをにらみながら、一度だけ頷く。
よく見ると彼の横に、死んだと思ったマレー人が立っているのだ。わたしを見ると、形の良い笑みを浮かべて片手を挙げた。
「ああ……あなたも」
わたしは安堵して、言う。
「ちょっと良くないことになったからねえ。……逃げて来たんだよ、彼」
そう言って男は、橙色の広い手で、少年の背中をぽんぽんと叩いた。彼の顔を覗き込み、柔らかな声で話しかける。
「何だい、え? 顔も思い出せない父親の葬式はやっぱりつまらないかい。愛する母親の葬式にはいたたまれないかい。抜け出して探検にでも来たのかい」
少年は何も答えなかった。
「しかしここはまあ、随分とひどい状態ですねえ」
蝋燭の明かりに照らされた屋内はもはや部屋とは言いがたく、むき出しの土とぐずぐずの畳と抜け落ちた床と、そのほか瓦礫の類がほとんど一緒くたに腐って行きつつあるところである。屋根に空いた穴からは月光が射し込んでいる。落ちた梁には雪まで積もっている。
ひととおり辺りを見回して、わたしは足元にトランクを下ろす。そうだ、ここに埋葬することにしよう。
「じゃあ、手伝ってくれ」
わたしは少年に向かってそう言った。彼は黙ったまま、躊躇うようにうつむく。
「なあ。わたしと君はこれからこれを埋葬しなきゃいけない、これを埋葬するのはわたしの仕事でありまた君の仕事だ」
そこまで言うとわたしは自分でも驚く程の熱心さで、まるで人の道を言い聞かせる教師のように、両手で彼の肩を掴んで揺さぶっていた。
「これを埋葬しさえすればわたしも君も自由の身なんだ……だから、どうか、手伝ってくれ、なあ!」
橙肌の男は何も言わず、ただ静かに笑ってわたしたちを見下ろしている。
急に震え上がる程の寒さを自覚して、わたしは目を覚ました。既に部屋は闇に沈んでいた。一瞬だけ、自分がどこにいるのかわからなくなり、それからトランクがなくなっているのではないかと思い当たり、跳ね起きた。
暗闇に手を伸ばすと、トランクはそこにあった。カートに括りつけられたまま、まるで何十年も前からそこにあったような様子で、ちゃんと存在していた。
重い足を引きずるように立ち上がり、戸口のそばのスイッチを手探りで入れる。球形の照明が淡い橙色の光を灯し、扇形の部屋があらわれる。
腕時計を見れば八時である、さほど遅い時間でもない。ここの門限は十一時だから、ゆうに川まで行って戻ってくることが出来るだろう。
しかしすぐに思い直す。……別に、戻ってくる必要もないのかもしれない。
わたしはトランクを掴んで部屋を出た。
フロントに鍵を預けて外に出るとまだ雪は降り続いている。路面にもそれなりに積もってはいたが、無数の足跡や自転車のタイヤの跡で汚れていた。
信号を渡る。
わたしはようやくこれを手放す決意を、これと離別する決意を固めつつあった。
松の植わる通りから先程の坂道に入る。薄暗い街灯のぽつぽつと並ぶ、いくつかは苦しげに明滅している、その間を、時折足を滑らせながら通り抜けた。昼間来た時よりも坂が短いように思えたのは、あるいは下り坂だからなのか。あの朱色の通りが見つからなかったのは、周囲の暗さ故か。
やがてざあざあと、水の流れる音が聞こえてきた。川のある場所に出ると、急に見通しが良くなる。
対岸にはきらきらと明かりが見えていた。黒々とした川の面に、町の光が溶けていた。営業時間が過ぎて人のいなくなった橋も、真っ白な雪を被った姿が街灯の下で浮かび上がっていた。なかなかに美しかった。
河川敷に降りるとさすがに雪が深く、踏みしめるとぎゅ、ぎゅ、と音が立った。こうなるとカートについたコロはあまり役に立たない。べったりと引きずる形になる。
流れに近寄って行く。昼間は橋の裏側が見えていた、橋脚のそばの暗がりへ。
ざく、と荷物を雪に突き立てる。
ここから流してしまおう。
わたしの過去を。わたしの未来を。わたしの世界の半分を。わたしの古い神を。わたしの敵を。
あるいは、水のそこまで沈んで、腐って溶けてしまうのかもしれない。それはとても悲しく、同時にとても幸福なことに思えた。
荷物を固定するのに使っていた紐を解き、カートからトランクを外す。と、不意に光が射し込み、わたしの右側を照らした。
振り返ると、懐中電灯を持った影である。逆光になってよく見えないが、わたしよりも背が低く、制帽のようなのを被っていることが見て取れた。最初、昼間見かけたあの学生服の少年だと思った。
彼は高い声でわたしの名を呼んだ。
宿帳には書かなかった名を。
「そうですよね?」
その声は相当若くはあったが、少年のという程に幼いものではなく、それでやっと、彼は警官ではないかと思い当たる。
「ちょっと……派出所までご同行願います」
「はい?」
わたしは曖昧な笑みを浮かべて首を傾げる。
「人違いじゃあありませんかね」
「……東京で女性が殺害されたんです。首のない遺体が見つかりまして。彼女の夫の行方は捜査中なんですが、家宅捜索の結果からここに向かった可能性もあると連絡が。……心当たりは」
その調子ははきはきとしてはいたが、しかしどこか震えたようなところがあった。緊張しているのかもしれない。
「ですから、人違いです」
「ではここで何をしていたのですか、教えて頂けませんか」
「あなたには関係のないことでしょう」
「何のやましいこともないのなら、言えるはずでは」
手指の先が、寒さの所為でなく冷えて震えていた。わたしの側も緊張していた。
それ以上に苛立っていた。邪魔をしないでほしかった。
トランクを庇いながらそっと動き、後ろ手にぱちんと留め金を外す。
途端、トランクが開く。ひどい匂いが冷えた空気の中に広がり、中のものがごろりと転がり出て、トランクはひっくり返った。
黒く長い髪がばさりと雪の上に広がった。
「うわ、っ……」
腐臭に怯んだ警官にとっさに蹴りを入れる。懐中電灯が落ちて、唐突に暗闇。トランクのポケットにはナイフが入っている、あれを取ることが出来れば……。
幸運なことに、すぐに探り当てることが出来た。冷ややかな柄の感触。引き抜き、懐中電灯を拾い上げようとする警官にめがけ振りかぶる。彼は身をかわし、刃先は上着のどこかを裂いただけだった。
「何をするっ!」
彼はわたしの右腕を掴んだ。わたしは夢中で腕をひねり彼を蹴り飛ばし、力を込めて刃先を真横に振るう。
ぎゃあというような声と、やわらかいものを裂いた感触があった。彼は顔を押さえて少し明るいほうへ飛び退る。指の間から黒い血がだらだらと流れている。
警官は銃のホルスターに手をやる。
「ナイフを捨てろっ、捨てないと撃つぞっ」
「あなたが立ち去れば良いだけです」
意識するよりも早く流れ落ちた言葉。
わたしは願う。ああどうかどうか消えてくれ。早く。早く。わたしの邪魔をしないでくれ。一人きりにさせてくれ。
警官は絶句、それから唇をわななかせて「ふざけるな!」鋭く叫ぶと銃を構えた。
「もう一度言う、ナイフを捨てて投降しろっ!」
ああそうか、消えないのなら、死しかないのか。
わたしはナイフを足元に捨てる。ぽす、と小さな音を立て、血まみれのナイフは雪に埋まる。
それから歩いて行く。両手を頭上に上げ、一歩、二歩、三歩、ゆっくりと、大股に。
あと二歩というところまで近づいた瞬間、わたしは彼に飛びかかった。左腕を掴まれお互いの足が絡まり、わたしは銃口を握り締めもぎ取ろうと力を込め、
「畜生──」
銃声。
腹部に非常な衝撃と焼け付くような痛みを感じ、ついできつい血の匂いと共に、生暖かいものが喉元に込み上げてきた。
手先から力が抜け、わたしは何かをひどく吐きながら、雪の中に倒れこんでしまう。
何か温い液体にひたされているように思った。頬の下で、身体の下で、雪が溶けて行く。しびれる程に痛い……。
視界が急速に暗くなる。警官の姿が遠のく。
あとには真っ黒い空。
そこからかすかに雪の降るのが見えた。
さらとも。
さらともいわず。
白い骨ばった手が、降る雪に差し伸べられる。長い指。椿色の爪。羽毛のような雪と戯れる。妖しく蠢いてわたしを絡め取る。
耳元で遠い笑い声。
あかるい、高い。
つられてわたしの喉も痙攣する。
それきり何も聞こえない。
無音。
-fin.
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